しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ピスガの頂上から>

2024-09-09 | 申命記
「そして主は彼に言われた。『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫に与える」と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。』」(申命記34:4新改訳)

人間的に言えば、このときのモーセの心情は失望と落胆だったかもしれない。しかしその気持ちは少しも記されていないところが、また、何とも言えない気がする。▼ヘブル書はモーセについて次のように記している。「彼は、キリストのゆえに受ける辱(はずかし)めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(ヘブル11:26同)▼彼は信仰により、キリストによる永遠の御国をとらえていたのではないか。想像をたくましくすれば、ピスガの頂からはるかに広がる乳と蜜の流れる約束の地を見たとき、その向こうに新しい神の都、エルサレムと新天新地を望見していたのではないだろうか。だとしたら、彼の心はおどったにちがいない。やがて変貌山(へんぼうさん)で光の中にキリストとお会いしたモーセ、しかしすでにピスガから神の国とその栄光を見ていたのだから・・・!。

①われピスガの嶺の上より栄えを望み 心は飽き足らい 魂は火にて燃ゆ
②イエスと偕に歩み み姿拝する我は 主のきよけき愛の火にて心は燃ゆ
③主の祭壇の上に献げし全ての物を 今主の火は下り、ことごと焼き尽くさん
  ほのおは燃ゆ ほのおは燃ゆ  ほのおは燃ゆ  うちに
  ほのおは燃ゆ ほのおは燃ゆ  ほのおは燃ゆ  うちに
                         <霊感譜5>


朝の露 <幸いなイスラエル>

2024-09-05 | 申命記
「幸いなイスラエルよ、だれがあなたのような、主に救われた民であろうか。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。敵はあなたに屈し、あなたは彼らの背を踏みつける。」(申命記33:29新改訳)

モーセはその死を前にしてイスラエルを祝福したが、これは将来の預言ともなっている。29節は結びの言葉だが、祝福そのものである。▼だがこれまでのイスラエルの歴史を見ると、離散と迫害に満ちていて、この預言は当てはまらない。つまりこれは、イエス・キリストをメシアとして受け入れたとき実現するもので、主の地上再臨により実現すると考えられる。▼人類歴史の終末における歴史は混沌(こんとん)をきわめ、黙示録そのままになるであろう。反キリストの指導で諸国民は再臨されるキリストに決戦を挑(いど)むべく、かつてない大軍をパレスチナに送り、総力をあげ、イスラエルを殲滅(せんめつ)しようとするにちがいない。そのときキリストは降臨(こうりん)され、悔い改めたイスラエルは神の軍隊として奇蹟的に勝利をおさめる、というのが聖書、特にゼカリヤ書に記されている預言である。このようにモーセのイスラエル祝福預言は、すべてイエス・キリストにより成就(じょうじゅ)する。▼「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿(みすがた)が変わった。顔は太陽のように輝き、衣(ころも)は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」(マタイ17:1~3同)

朝の露 <あなたがたのいのち>

2024-09-04 | 申命記
「これは、あなたがたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばによって、ヨルダン川を渡って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことになる。」(申命記32:47新改訳)

モーセの最後の歌は、イスラエルが神に反逆し、滅びていく預言となっている。それなのにどうして「この歌はあなたがたのいのちである」というのであろうか。▼その理由は、モーセ五書が歴史の中で大切に保存され、かならず人々の目にふれるときがあるからだ。そのとき彼らは思うだろう。「モーセがかつて預言したように私たちの歴史は進んでいる。すべてが語られたとおりだ」と・・・。このようにして堕落(だらく)したイスラエルの中に預言者や信仰あつい王が起き、何度も宗教改革がなされて歴史は進み、神の国への希望が燃え続けて来た。そしてついにナザレのイエスの出現とペンテコステによる教会の誕生、さらに永遠の神の国到来の預言が世界にひびき渡り、今日に及ぶ。その意味でたしかに、モーセの歌は世界人類のいのちになったのである。▼思えば、モーセ律法が紙に記された文字だったのに、それが肉体をとり、人間となってイスラエルに現れたことは、どれほどおどろいても、なお足りない奇蹟である。そのうえ、ナザレのイエスが復活し、よみがえりのいのちとして信じるキリスト者の内にお宿りくださったとは、なんという破格(はかく)の恵みであろう。パウロのことばに、良く耳を傾けようではないか。▼「私は・・・教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:25~27)







朝の露 <モーセの預言>

2024-09-03 | 申命記
「あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語ろう。私は天と地を彼らに対する証人に立てる。」(申命記31:28新改訳)

120歳を迎え、神のもとに帰ろうとしていたモーセは、イスラエルの将来について最後の預言をする。それは決して喜ばしいものではなく、彼らの心にある不信仰と頑固さの描写、そしてそれゆえの民族離散であった。つまり、モーセは一つの民を越え、人間存在の本質性について語ったのである。▼人はどんなに良い場所を備えられ、神のあふれる好意にあずかっても、それを踏みにじり、厭(いと)い捨てる邪悪性(じゃあくせい)を心に持っている。それがエデンの園でアダムたちに入った性質なのだ。イスラエルは自己の歴史を通してその証人となるべく選ばれた民にほかならない。▼しかしだからこそ、究極(きゅうきょく)の救い主イエス・キリストが現れなければならない。モーセは最後の歌を、天地を証人に立てて歌う。救い主は必ずおいでになる。そのあがないにより世界はやがて復活のときを迎えると。

朝の露 <イスラエルの回復>

2024-09-02 | 申命記
「あなたの神、主はあなたのすべての手のわざ、あなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに与えて、あなたを栄えさせてくださる。まことに主は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。」(申命記30:9新改訳)

前章とは反対に、イスラエル人たちが散らされた所で心から悔い改め、真実な心で神に立ち返るなら、かならず約束の地に戻って来ておどろくような祝福と繁栄(はんえい)を享受(きょうじゅ)するであろう、とモーセは回復の預言をした。▼この預言は21世紀の今も、完全には実現していない。なぜなら、これが成就するためにはイエス・キリストが再臨し、世界がのろいから解放されることが必要だからである。そのときになると、反逆に満ちた心に割礼がほどこされ(6)、悪魔は底なき穴に閉じ込められ、自然界はかつてのエデンのようにみどりの園に変えられるであろう。▼モーセはモアブ平野で、イスラエルのはるか将来まで神から示され、預言書に記した。今や世界中がその実現を待っている。イスラエルが心から悔い改め、イエス・キリストを受け入れるその日を・・・。「まことに、万軍の主はこう言われる。『あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意しーー万軍の主は言われるーーわたしは思い直さなかった。そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。』」(ゼカリヤ8:14,15同)