「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」(マルコ5:34新改訳、マタイ九章とルカ八章も参照のこと)
この気の毒な女性は12年間も出血で苦しみ、医者にかかっても治らず、いまや財産も使い果たしていた。しかし彼女はただ一つの望みを主イエスにおき、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」とふだんから口ぐせのように言っていたのであった。そしてとうとうその機会がおとずれた。▼おおぜいの群衆でもみくちゃにされながら、彼女は必死で主に近づき、その衣の房に触れたが、その瞬間(しゅんかん)出血が止まり、病気が治ったことを感じたではないか。同時に主も自分から力が出て行くのをおぼえ、立ち止まって「誰が私にさわったのですか」とまわりの人々にたずねた。▼当時、出血の汚れを持つ女性が男性にふれることは許されず、きびしく叱られると思った彼女はふるえながらイエスにありのままを告白した。そのときのお答えが冒頭34節である。▼ここで光っているのは、絶望の中でもあきらめなかった女性の口から出た言葉であった。つまり、いつかは自分にも主にお会いする機会が来る、そのとき衣の端(はし)にでもさわればかならず救われる、とのひとことだった。そのとき主は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われた。希望がなくなった状況下でも、信じ続けることがどんなに大切か。この奇蹟はそれを示している。
▼すなわち、主イエス・キリストにあって、絶望は絶望ではなく、そこにこそ「信仰への入り口」が存在する。私たち日本人は仏教の影響もあり、あきらめこそ美徳という思想に生きて来た。この女性のような立場になったとき、私たちはどうするだろう。たぶん絶望のあまり、自死するか、生きる気力をなくし、廃人同様になるのではないか。しかしそれは美徳ではなく、天父の前には高ぶりなのである。なぜなら、神のかたちに造られた人間にとって、自分の運命を放棄(ほうき)する権利はない。それをしてしまうことは計り知れない知恵と愛をもって自分をこの世においてくださった神を愚弄(ぐろう)し、自分で自分の生涯を決定する高慢な在り方を意味する。▼この女性は生きる可能性、治癒の可能性が尽きるかに見えたとき、不思議にもイエス・キリストに向かう信仰が心の底に湧き出したのであった。誰かからうわさを聞いたことがキッカケになったのかもしれない。とにかくそれは暗闇に輝く一本のマッチ棒の光りとして心にともった。誰に相手にされなくても、万人に無視されても、彼女の口から一言が流れ出て止まなかった。「あの方の衣の裾にでもさわることができれば、私はかならずいやされるにちがいない」と。▼かくて女性はまだお会いしないとき、すでに、一本の電線でイエスとつながったのであり、聖霊は時が来た瞬間、そこを通って女性のからだに流れ込み、あっという間にすべてを癒やしたのである。