しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <絶望は信仰の母>

2024-10-20 | 聖書エッセイ
「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」(マルコ5:34新改訳、マタイ九章とルカ八章も参照のこと)

この気の毒な女性は12年間も出血で苦しみ、医者にかかっても治らず、いまや財産も使い果たしていた。しかし彼女はただ一つの望みを主イエスにおき、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」とふだんから口ぐせのように言っていたのであった。そしてとうとうその機会がおとずれた。▼おおぜいの群衆でもみくちゃにされながら、彼女は必死で主に近づき、その衣の房に触れたが、その瞬間(しゅんかん)出血が止まり、病気が治ったことを感じたではないか。同時に主も自分から力が出て行くのをおぼえ、立ち止まって「誰が私にさわったのですか」とまわりの人々にたずねた。▼当時、出血の汚れを持つ女性が男性にふれることは許されず、きびしく叱られると思った彼女はふるえながらイエスにありのままを告白した。そのときのお答えが冒頭34節である。▼ここで光っているのは、絶望の中でもあきらめなかった女性の口から出た言葉であった。つまり、いつかは自分にも主にお会いする機会が来る、そのとき衣の端(はし)にでもさわればかならず救われる、とのひとことだった。そのとき主は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われた。希望がなくなった状況下でも、信じ続けることがどんなに大切か。この奇蹟はそれを示している。
▼すなわち、主イエス・キリストにあって、絶望は絶望ではなく、そこにこそ「信仰への入り口」が存在する。私たち日本人は仏教の影響もあり、あきらめこそ美徳という思想に生きて来た。この女性のような立場になったとき、私たちはどうするだろう。たぶん絶望のあまり、自死するか、生きる気力をなくし、廃人同様になるのではないか。しかしそれは美徳ではなく、天父の前には高ぶりなのである。なぜなら、神のかたちに造られた人間にとって、自分の運命を放棄(ほうき)する権利はない。それをしてしまうことは計り知れない知恵と愛をもって自分をこの世においてくださった神を愚弄(ぐろう)し、自分で自分の生涯を決定する高慢な在り方を意味する。▼この女性は生きる可能性、治癒の可能性が尽きるかに見えたとき、不思議にもイエス・キリストに向かう信仰が心の底に湧き出したのであった。誰かからうわさを聞いたことがキッカケになったのかもしれない。とにかくそれは暗闇に輝く一本のマッチ棒の光りとして心にともった。誰に相手にされなくても、万人に無視されても、彼女の口から一言が流れ出て止まなかった。「あの方の衣の裾にでもさわることができれば、私はかならずいやされるにちがいない」と。▼かくて女性はまだお会いしないとき、すでに、一本の電線でイエスとつながったのであり、聖霊は時が来た瞬間、そこを通って女性のからだに流れ込み、あっという間にすべてを癒やしたのである。

聖日の朝に <コラ一族>

2024-06-23 | 聖書エッセイ
「モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼ら(コラ一族)の足もとの地面が割れた。地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を呑み込んだ。彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。」(民数記16:31,32新改訳)

ねたみほど恐ろしい罪はない。その典型となったのがコラ一族の死であり、彼らは生きたままよみに落ちたのであった。▼コラたちはレビ族の、ケハテ氏族に属する民であった。神はレビ族のうちからアロンの一族を選び、祭司として神殿で仕える務めを与えた。アロンたちもケハテ族だったが特別に選ばれたのである。しかしほかのケハテ氏族は祭司にはなれず、幕屋の聖具を運ぶ仕事を専門職として神より与えられた。▼これもまた実に尊い務めであったが、コラ族はアロンたちに命令され、仕事をすることに不満を抱いたのであろう、それをねたんでモーセに文句を言ったのだ。神がお与えになった立場に感謝しないで、他の人々をねたみ、さまざまな理屈をつけて文句を言う。この根底にはいちばんみにくいねたみの心理があった。コラたちはそれを表面に出し、モーセに逆らうようにみえて、じつは神に反逆したのである。これは最高の天使といわれたルシファーが自分の置かれた立場に満足せず、神の上に出ようとして悪魔になった経緯とよく似ていた。▼だから神は決してゆるさず、生きながらよみに落ちて滅びることを良しとされたのである。ねたみは骨の腐れといわれるほど(箴言14:30)いまわしい霊魂の腐敗性である。これから自由になる道は、謙遜が人となって現われたイエス・キリストのみもとに行くほかはない。神とひとしくある立場を捨て、世のもっとも低い場所・十字架にまでご自身を落とされた御子イエスこそ私たちの聖潔のみなもとである。御聖霊の導きにより、キリストと共に十字架につけられることが、キリスト者の地上における最大の目標とならねばならない。

聖日の朝に <偶像礼拝>

2024-06-02 | 聖書エッセイ
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。」(出エジプト20:4新改訳)

十戒の最初に記されているように、偶像礼拝は最大の罪である。たとえば私たちが木の小像をこしらえ、天の神よと呼んで礼拝するなら、それは全宇宙を創造された無限の神を、天から地にひきずり落とし、いやしめ、ごく小さな存在としてはずかしめることになる。それは、はかりしれない罪悪なのだ。▼わが国は昔から八百万(やおよろず)の神といって、何でも神にして拝み続けて来た。私たちキリスト者もその中で暮らしており、あまりに多くの神々に囲まれているので、信仰的・霊的感覚が鈍くなっていて、その罪悪性をするどく感じることが少ないのではなかろうか。▼海外の旅行客が大勢来て買い物や見物をしていると、日本人は「お金が入る」と喜んでいるが、彼らが心の中で日本を偶像でいっぱいの国と見下げ、失笑しているのを知っているだろうか。創造主をはずかしめ、自分を尊大(そんだい)に見せようとすることほど愚かで卑(いや)しい生き方はない。もし今のままなら、日本が世界で最も尊敬され、評価されることは決してありえないであろう。どれほど精巧(せいこう)で美しい物を次々と作り出している民族でも、霊的・信仰的に無知蒙昧(むちもうまい)な民として軽視されるだけである。ご聖霊がこの列島を顧み、偶像礼拝から解放してくださいますように。

聖日の朝に <血肉のからだは>

2022-09-25 | 聖書エッセイ
「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50新改訳)
私たちは現在の肉体を持ったままで、再臨される主イエスの前に立つことはできない、とパウロは断言する。それはなぜだろうか。現在の肉体はそのままでは朽ちて腐敗していくものであり、不朽の永続性を持っていないからである。むろんその原因は、始祖アダムが罪を犯した結果、のろわれて死ぬ運命下におかれたことに起因している。従ってそれはやがて来る永遠の神の国に存在したくても耐えられないのだ。▼たとえば使徒ヨハネはパトモス島で復活の主が現れたとき、その姿に撃たれ、死人のように倒れてしまった(黙示録1:17)。聖徒中の聖徒といわれているヨハネさえそうだったのだ。私たちの現在のからだは、永遠の不朽性をもった存在に出会えば、滅びてしまうしかない存在であることがわかる。▼そこで栄光の主にお会いするためには、私たち自身も復活して栄光のからだをいただく必要がある。それが「終わりのとき、ラッパの音とともに起きる」復活、栄化、携挙のみわざにほかならない。この奥義は神の一方的な恵みとして起きるが、目的は私たちを恐れなくキリストの前に立たせるためである。神はその御愛と憐れみのゆえに、信仰者が滅びることを望まれない。だからこそ私たちはその御力によって栄化にあずかるのであり、私たちの功績や自分の義によるのではない。▼主が天から来られる時、私たちは復活栄化に入れられるのだが、そのために、いま私たちに内住され、準備してくださっているのが第三位の神、御聖霊である。「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」(ローマ八11)。なんというすばらしい出来事であろうか。その日を待ち望んで生きる生涯こそ、もっとも幸福な人生である。「聞きなさい。私はあなたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51、52同)▼ふだんから御霊によって歩んでいることの大切さがここにある。