しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <部族の相続地>

2024-07-10 | 民数記
「イスラエルの子らの相続地は、部族から部族に移してはならない。イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。」(民数記36:7新改訳)

イスラエルでは部族に割り当てられた相続地をいかなる理由があっても他の部族に移譲(いじょう)してはならなかった。この定めが固く守られていたからこそ、ナオミたちが十年間モアブの地に行って帰って来たときも、その土地の所有権が存続していたわけである(ルツ記)。▼私たちキリスト者が救いにあずかり、聖霊を宿したのは、来るべき永遠の復活世界を相続することが保証された事実を意味している。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:14同)とパウロがエペソ教会に書き送っているように。アブラハムもモーセも、新約の弟子たちもこの世に属するいっさいの財産を捨て、御国を目指す一介の旅人になった理由は、この永遠の相続地(すなわち天のエルサレムとキリストご自身)を得るためであった。そこにはすでに信仰者たちの名が刻まれ、到着を待っているのである。「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20同)▼「主は私への割り当て分、また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。」(詩篇16:5~8同)


朝の露 <逃れの町>

2024-07-09 | 民数記
「もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。」(民数記35:26,27新改訳)

あやまって人を殺した時、イスラエルではその人が正当な判決を受けることなしに殺されないよう「逃れの町」が定められた。彼はその町から出なければ復讐者から守られたのである。▼逃れの町は、新約の光で見ればイエス・キリストのあがないを示していることがあきらか。人はすべて自分が犯した罪ゆえに律法から訴えられ、悪魔からも訴えられている。そのままでは滅びるしかない存在だが、十字架のあがないという「逃れの町」に逃げ込めば助かるのだ。主イエスはぶどうの木のたとえで、弟子たちに次のように言われた。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネ15:6同)▼永遠の逃れの町であるキリストのあがない、信仰によってそこに入れられた人は、なんと幸いであろう。

①イエスは木にかかりて 贖いをなしたり 
          その血潮受けなば 怒りの手を逃れん
②罪びとの頭も み救いにあずかる
          血の泉くぐらば 怒りの手を逃れん
③さばきの日来たらば みな救いを得べし
          血のかげに隠れて 怒りの手を逃れん
④限りなき恵みと 変わりなき愛もて
          イエスは今あがなう 怒りの手逃れよ
  (折返し) 血によりて いと安く 血によりて 怒りの手を逃れん
             <インマヌエル讃美歌315 Anonymous>


朝の露 <相続地>

2024-07-08 | 民数記
「これが、カナンの地でイスラエルの子らへの相続地を受け継がせるようにと、主が命じた人たちである。」(民数記34:29新改訳)

この章からわかるのは、イスラエルがカナンの地で得る相続地は、整然と分けられ、組織化されていたことである。すなわち祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアが頂点に立っており、その下に各部族長がおり、すべての民がその指導のもとに土地を配分されたのだ。▼これからみると、誰の土地かわからないようなものはなく、じつにみごとであった。やがて主イエスが地上に来臨され、千年王国が始まると、イスラエルはもちろん、世界中の土地が諸民族に分け与えられ、争いも奪い合いもない平和な地球となるにちがいない。平和の王イエス・キリストの支配により、あらゆる民が平和と繁栄を楽しむに至るであろう。▼栄化したキリスト者たちはエルサレムにとどまるが、世界の地域を支配する「天の族長」として自由に行き来するのだろう。「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19:17同)▼「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてを御心による計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」(エペソ1:11同)

朝の露 <出エジプト>

2024-07-04 | 民数記
「エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。主は彼らの神々にもさばきを下された。」(民数記33:4新改訳)

それにしても、神はエジプトの国になんと恐ろしいさばきを下されたことだろう。一夜のうちに国中の長子という長子、人であれ動物であれ、その全部が急死してしまったとは。▼しかも長子だけでなく、あらゆるエジプトの神々も罰せられた。今日、エジプトを旅行するなら、そこにあるものは廃墟(はいきょ)、また廃墟である。ピラミッドも造られた時の壮麗(そうれい)さは失われ、瓦礫(がれき)の山になっている。世界中から集まる観光客は創造主から罰せられたエジプトの神々、くずれかかった神殿や像を見ているにすぎない。▼しかし数千年前、エジプトで起きたことは、やがて世界規模で起きることになる。イエス・キリストが栄光輝く姿で来臨されると、地上にあるすべての神々は打ち砕かれ、「夏の脱穀場(だっこくじょう)の籾殻(もみがら)のようになり、風がそれを運んで跡形(あとかた)もなく」消えてしまうであろう(→ダニエル2:35)。だから私たちは、信仰の視線を地上から離し、天から来られつつあるキリストに注がなければならない。▼「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10~13同)


朝の露 <ルベン、ガド部族>

2024-07-03 | 民数記
「あなたがたは、自分の子どもたちのために町々を建て、自分の羊のために囲い場を作るがよい。自分の口から出たことを実行しなさい。」(民数記32:24新改訳)

ルベン、ガドの二部族はヨルダン川の東一帯にある広大な地域を見て、ここに残らせてくださいと言い出した。これを聞いたモーセは怒り、彼らをなじったが、二部族の男子はカナン征服戦に積極的に参加すると誓ったので、最後は残留を認めた。しかしこの残留は不信仰から出た考えであることは否めない。なぜなら残りの十部族は家族全員がヨルダン川を渡れたのに、ルベン、ガド、半マナセの家族はヨルダン川を渡れなかったのである。そのため、彼らは後の歴史で、東方から襲来した外敵の侵入をたびたび受け、滅びが早められたのであった。▼霊的にみれば、彼らは乳と蜜の流れる約束の地に入らずに一生を終えるキリスト者たちをあらわしている。主のあわれみで、かろうじて御国に入れるかもしれないが、途中で消えてしまうかもしれない。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2同)とあるが、ルベンとガド(それにマナセの半分)は神の御命令と約束およびモーセの言葉から目を離した。そのとたん、自分たちが所有するたくさんの家畜群とヨルダン東方の肥沃な平原が、たまらない魅力あるものとして目に入ったのだ。▼信仰生活はイエスご自身から目を離したら終りである。その瞬間、世と世に対する欲望が入ってくるからだ。キリスト者はヨルダン川を渡る、という目標からけっして目を離してはならない。終わりのラッパを聞き、復活・携挙にあずかるまで気をゆるめてはいけないのである。御霊がエペソ教会とラオディキア教会に発した警告に耳をかたむけよう。「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2:4同)、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」(黙示録3:17同)