「彼はその神、主の目に悪であることを行い、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。」(Ⅱ歴代誌36:12新改訳)
ヨシヤ王が死んだあと、ユダ王国は滅びたも同然の状態になった。なぜなら四人の王が立ったが、みな主の目に悪であることを行い、従わなかったからである。▼この混乱の時代、エレミヤは主から遣わされた預言者としてただひとり踏みとどまり、死の危険を冒して神のことばを語り続けた。その記録がエレミヤ書である。もし最後の王ゼデキヤが心からへりくだり、エレミヤを通して語られた主に従っていたなら王国の運命は変わり、エルサレム神殿も焼かれないですんだかもしれない。それが出来なかったところに人の持つ罪の深刻さがある。▼ヨシュアが民を率いてカナンに入り、約束の地を占領して約八百年、罪に罪を重ねたイスラエル民族はそこから追い出されてしまった。かつてのカナン原住民と同じ道をたどったのだ。イエス・キリストの福音により生まれ変わらなければ、だれも神の国を嗣ぐことはできない(ヨハネ3:3)。本章21節、「これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった」(Ⅱ歴代誌36:21同) は意味深い。つまりユダヤ民族がバビロンに連れていかれ、聖地からいなくなったとき、この地は安息を取り戻したというのである。その地に住む人々が罪を犯し続け、神に逆らい、暴虐と偶像礼拝を続ける時、大地が苦しむ。その結果、地は居住する民をそこから吐き出すのである。なんと厳粛なことであろう。大地から造られた人間が創造主に反抗し、みことばを破りながら生きる時、彼らを産み出した地が苦しむ、そしてついにそれらの人々が消滅すると、土地はようやく安息を取り戻すのである。▼約束の地、カナンについてみると、最初そこに住みついたカナンの7民族と言われる人々はあまりにもひどい腐敗道徳に生きたため、カナンの地は彼らを支えることができなくなり、これを吐き出した。それがイスラエルによる聖絶となって実現したわけである。ところがここを継いだイスラエルも千年も経たないうちに腐敗し、同じように吐き出された。つまりアッシリアとバビロンによる捕囚がそれで、選民はその地から拭い去られたわけである。しかし憐れみにより、帰還したユダヤ民族により、約束の地はふたたび再建され、エルサレムに神殿も設けられた。ところが彼らの王として来られた神の御子を、選民は拒否し、これを十字架につけて殺してしまった。そしてふたたびそこから吐き出され、世界に流浪する民となって二千年に及んだ。こうして人間は神がお与えになった約束の地に住む資格のないことが歴史により証明されて今日に至っている。これを解決するのは、ただひとつ、イエス・キリストがふたたび地上に王として再臨されることだ、と聖書は告げている。