しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <怠惰な歩み>

2024-11-23 | 2テサロニケ
「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰(たいだ)な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。」(Ⅱテサロニケ3:6新改訳)

パウロが再臨信仰を強調したのは、テサロニケの信徒たちが迫害に耐え、希望と忍耐に生きるためであった。ところが「世の終りと主のお出でが近い」ことを肉的にとらえ、日々の堅実(けんじつ)な生き方をやめて自堕落(じだらく)な生活に走る人々も出て来たので、ここできびしく注意したのである。▼どうせ終末が近いのだから、仕事などどうでもいい、毎日何もしないで適当に暮らそう、と考えるのは大きなまちがいである。それはこの世の人たちが生きる張り合いをなくし、閉じこもって何もしないでいるのとたいして変わらない生き方だ。▼J・ウェスレーに、ある人が、「先生、もし明日主イエスが再臨されるとしたら、どうなさいますか?」とたずねたとき、畑仕事をしていたウェスレーは「明日も今日と変わらず、リンゴの木を植えに行くよ」と答えたそうである。ある意味でこの返事は大切だと思う。キリストの再臨という歴史上最大の事件が起きることは、正しいキリスト者生活を送っている人の生き方を混乱させるものではない。むしろ、その瞬間を落ち着いて迎えることのできる信仰生活こそ、主が真に喜ばれるものではないだろうか。▼主が教会を迎えるため再臨されるのは、新郎が新婦を迎えに来ることと同じように喜びと希望に満ちたできごとである。しかもその時には私たちが地上でどのように働き、御霊の実を結んだかが評価される、と聖書はおごそかに告げる。落ち着いた喜び、希望に裏打ちされた再臨待望に生きようではないか。

朝の露 <不法の者>

2024-11-22 | 2テサロニケ
「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」(Ⅱテサロニケ2:8新改訳)

不法の者とは終末のときに出現する反キリストと言われる。特定の人物と言われるのは666という名前まで持っているからだ。彼はすべての神を否定し、自分こそ神であると宣言し、再建されたエルサレム神殿に座を設け、文字通り世界を支配する。もちろんその支配は父なる神にゆるされた期間だけだが・・。▼かつてドイツにヒトラーが出現し、偉大な指導者として崇(あが)められたが、まもなく正体を現わし、第二次世界大戦を引き起こして世界を破滅(はめつ)に導いた。不法の者は、あのヒトラーをはるかにうわまわる指導力と権力を握るにちがいない。なぜなら悪魔が背後にあり、自分のもつすべての力を彼に与えるからだ。▼特に彼がエルサレム神殿を支配下に置いたとき、恐怖の支配が始まるであろう。主は「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです」(マタイ24:21同)と言われた。そこで私たちは聖書により、注意深く世界の情勢を見つめ、再臨に対する備えをすべきである。▼「また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は666である。」(黙示録13:17,18同)

朝の露 <安息を与える>

2024-11-16 | 2テサロニケ
「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」(Ⅱテサロニケ1:6,7新改訳)

パウロの宣教により福音を信じたテサロニケの人々は、ユダヤ教徒や同族(ギリシア人)からはげしい迫害を受け、苦難(くなん)の中におかれていた。▼Ⅱテサロニケ書は、使徒がいたたまれない気持ちから愛の励ましを与えるため書き送った書である。また、苦難の中で再臨信仰に燃えながら生きていた信徒たちに、正しい教理と実際の生活がどうあるべきかを教えるために記された書でもある。▼主イエスは、不信仰者たちがキリスト教会を思いのままに迫害するのをだまって見ているお方ではない。やがて栄光のうちにふたたび来られるとき、恐るべき力と聖なる怒りをもって復讐(ふくしゅう)とさばきをくだすであろう。さらにご来臨を待ち望んでいるあなたたちには、なぐさめと安息を報いとしてお与えになる。その日は確実に近づいているのだから、互いに励まし合い、愛のうちに固く歩みなさい、とパウロは勧めてやまないのである。▼「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は『確かで真実な方』と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。」(黙示録19:11~13同)

朝の露 Ⅱテサロニケ3章 <パウロの確信>

2014-10-04 | 2テサロニケ

10月のアサガオ 札幌「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。」(14新改訳)        

パウロは自分の教えに神よりの権威をおぼえていた。それは威張っていたのでなく、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」(ガラテヤ1:11同)との確信に強く立っていたからである。

自分の語ったことばによって、彼自身もさばかれること、神が彼に福音のメッセージを与えられたということは、それほど厳粛な事実なのだということを骨の髄まで体感していたからなのだ。そうでなければ、「私たちの指示に従わない者とは絶交せよ」との強い言葉は出て来ないはずである。

福音宣教を託されるということは、かくも重いことだが、私を含め、はたしてどれだけのキリスト者がその重大性を自覚しつつ世に向かっているだろうか。もういちど使徒の自戒を聞こう。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27同)

[写真:札幌ではアサガオがまだがんばっています]


朝の露 2テサロニケ2章 <再臨信仰の堅持>

2014-10-03 | 2テサロニケ

きれいな札幌の夕焼け「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(2新改訳)

教会にとり、再臨ほどすばらしい希望はないが、それだけに悪魔も働く。初代教会から今まで、騒ぎまわったり、脱線したりする人々があとを絶たないのはそのためである。

しかし、それだからといって、アレルギーのようにこの教えを遠ざけた信仰生活をしているなら、別の意味で欺かれていることになろう。むしろ混乱や行き過ぎ、異端が多く起きるのは、敵にとって致命的なダメージを与えている証拠なのだ。

そこで私たちはパウロが「堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15同)と勧めるのに従い、常に聖書を注意深く調べ、賢く正しい良心で再臨信仰を堅持すべきである。花婿を待つ10人の娘(マタイ25章)を分けたのは賢さと愚かさだったことを思い出そう。
[写真:きれいな札幌の夕やけ]