「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。」(14新改訳)
パウロは自分の教えに神よりの権威をおぼえていた。それは威張っていたのでなく、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」(ガラテヤ1:11同)との確信に強く立っていたからである。
自分の語ったことばによって、彼自身もさばかれること、神が彼に福音のメッセージを与えられたということは、それほど厳粛な事実なのだということを骨の髄まで体感していたからなのだ。そうでなければ、「私たちの指示に従わない者とは絶交せよ」との強い言葉は出て来ないはずである。
福音宣教を託されるということは、かくも重いことだが、私を含め、はたしてどれだけのキリスト者がその重大性を自覚しつつ世に向かっているだろうか。もういちど使徒の自戒を聞こう。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27同)
[写真:札幌ではアサガオがまだがんばっています]
「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(2新改訳)
教会にとり、再臨ほどすばらしい希望はないが、それだけに悪魔も働く。初代教会から今まで、騒ぎまわったり、脱線したりする人々があとを絶たないのはそのためである。
しかし、それだからといって、アレルギーのようにこの教えを遠ざけた信仰生活をしているなら、別の意味で欺かれていることになろう。むしろ混乱や行き過ぎ、異端が多く起きるのは、敵にとって致命的なダメージを与えている証拠なのだ。
そこで私たちはパウロが「堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15同)と勧めるのに従い、常に聖書を注意深く調べ、賢く正しい良心で再臨信仰を堅持すべきである。花婿を待つ10人の娘(マタイ25章)を分けたのは賢さと愚かさだったことを思い出そう。
[写真:きれいな札幌の夕やけ]