「私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」(Ⅰ歴代誌29:16新改訳)
ダビデの最後の祈りは謙遜そのものだった。傲慢な思いからイスラエルの人口を数え、きびしく打たれた彼は、主が「すべての思いの動機を読み取られ」(Ⅰ歴代誌28:9)、それにふさわしい報いを与える方であると、身をもって体験した。▼自分は主のために壮麗な神殿を建てたい、そう願って力の限り準備した。だが神はそれをするのはあなたの息子であり、あなたは準備を終えたらわたしのもとに来なければならない、と語られたのである。だからソロモンよ、私の意志をついで宮を建てなさい。雄々しくあれ、強くあれ、と。▼ダビデの最後はモーセのそれと似ている。どちらも自分の願いは受け入れられず、後継者(モーセの場合はヨシュア、ダビデの場合はソロモン)にゆだねて地上の生涯を終えたのである。イエス・キリストがすべてとなられるために。◆旧約聖書中、ダビデほど神を愛し、慕い、生涯を幼子のように純な信仰でつらぬいた王はいない。彼は大きな失敗を犯し、きびしく神に撃たれた。すんでのところで滅びに落ちそうにもなった。にもかかわらず神をいちずに求め、心の中をありのまま吐露し、詩篇に歌った。私たちは、今から三千年も前の信仰者であるダビデ王の赤裸々なたましいに、あたかも隣にいる友のようにふれることができる。夜静まり、サムエル書や詩篇に向き合えば、彼の喜び、無邪気で天真爛漫な信仰と踊り、天にたちのぼる祈りの息遣いが聞こえて来る。◆その反対も聞こえる。肉欲に負けて恐ろしい罪にふける姿、神にさばかれ、苦悶の日々を過ごした時の慟哭、あえぐような祈りと呻き、わが子を死なせたときのイスラエル中に聞こえるような悲しみと絶叫、部下のうらぎりに絶句し、孤独の海に沈んだ日々、そしてふしぎにも、そこに来るべきキリストの姿が浮き出て来る生涯。たとえどんな罪に落ち、深淵の底に沈んでも、前王に追われ、荒野を放浪しても、神の憐れみによる臨在は彼とともにあった。選びのふしぎ、臨在の不思議、預言者のふしぎがダビデを包んでいた。そして、なんということであろう。その臨在が私や貴方をも包んでいるのである。「たとえ私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」(詩篇139:8同)