「神が立ってご覧になると、地は揺るぎ、国々は震え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋は永遠だ。」(ハバクク3:6新改訳)
地上再臨のすさまじい光景である。▼かつて柔和でやさしい人の子としてマリヤからお生まれになった主イエスが、王の王、主の主として栄光のうちに降りて来られる、それは信じない諸国民にとっては恐怖以外のなにものでもない。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1:14~16同)▼血潮と十字架なしに、このお方を見ることは永遠の火に落ちることとおなじである。あのヨブは長い煩悶と苦悩のすえ、ついに大風の中から語る神の顕現に接し、疑問は吹き飛び、高慢は砕かれた(ヨブ記38章)。本章のハバククの祈りはそれを想起させる。しかり、ハバククの疑問も粉みじんに吹き飛び、はらわたはわななき、骨の髄は腐って崩れ、足はぐらついたのだ。再臨のキリストから発せられる、あまりの威容に圧倒されて。◆私たちは、このキリストが柔和な羔(こひつじ)として世に来られたことが、どんなにすばらしい恵みであるかを味わうべきではなかろうか。天の御父は御自身の全存在に匹敵する愛子を十字架で屠り、なだめの供え物とされた。私たちは御子が死なれたとき、それは御父が御自分のすべてを失ったにひとしい重さをもっていることを、毎日黙想したことがあるだろうか。◆この御愛を受け入れずして世の終わりを迎えるなら、私たちはハバククが目撃した光景と、ストレートに向き合うことになる。それは、神をおそれ、信仰に生きていた預言者ですら、「私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました」(16)と叫んでしまった戦慄の光景なのである。
「この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2:3新改訳)
焼けるような渇きを心に抱きつつ神の正義の実現を求めた預言者ハバクク。彼に示されたのは、キリスト再臨の光景であった。▼たしかに世界は暴虐と不正があふれ、苦しみが渦巻き、神はどこにおられますか?と叫ばざるをえない状態だ。しかしハバククよ、神が定めた終末の時は近づいている。嘘ではない、人の目に遅くなるように映っているが、決して遅れることはない。だからそれを信仰によって待ち望むのだ。神の前で正しいとは、信仰によって生きる人のことをいうからである。▼こうして預言者の心は安らいだ。私たちキリスト者は、なおさらのこと愛する主の御来臨を信仰によって待ち望む。ヨハネ黙示録は開示され、新天新地と子羊の都は手に取らんばかりに姿を現している。世々の聖徒たちが垂涎(すいぜん)の眼差しで見つめた世界がもうそこまで来た。もはや誰も止められない、マラナ・タの叫びを。◆◆しかしここで、一歩離れてハバククの叫びをみつめる。すると、「わざわいだ」が5回くりかえされていることに気づくであろう。それは①諸国に戦いをしかけ、暴虐と略奪を愛した民族(6)、②自己保全に汲々とし、利得をむさぼった勢力(9)、③殺戮と不正で都を建設する人々(12)、④数々の暴行と不道徳で人々の血を流した者たち(15)、⑤偽りの神々をこしらえ、拝む人々(19)である。◆バビロンやアッシリアだけではない。まことの神なき世界の文明と、その中で喜んで生きる人間を指すことはあきらかである。じつに再臨とはそれらに対する審判が行われる日だ、とハバククは言う。そして、もし貴方が義人でありたいならば、キリスト・イエスのあがないに対する固い信仰をもって生きよ、と結論するのである。