しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <あなたの王座は代々に>

2023-01-12 | 哀歌
「主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。」(哀歌5:19,20新改訳)

廃墟(はいきょ)になったエルサレムをながめながら、エレミヤは天をあおいで祈る。いつまで私たちを捨てておかれるのですか、と。しかし実は21世紀の今、もう主の足音は聞こえている。主はすでに十字架に完全なあがないを成し終えて復活昇天し、定められたときに世界の王として地上に再臨したもう。そのとき廃墟エルサレムはキリストの現臨によって活ける都となり、栄光は全地を照らすであろう。▼ユダの人々は今も嘆きの壁に向かって、都の回復とメシアの来臨を祈り続けている。だが真のエルサレム回復は彼らの心より始まらなければならない。すなわち、これまでの全歴史をふりかえって神に心からの悔い改めをすることだ。それは主の御足(みあし)がオリーブ山に立つとき起こるであろう。その日はエレミヤによる涙の哀歌が、永遠の喜び、歓喜に変わるときである。キリスト教会も、今やおそしとその日を待っている。▼「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい。」(黙示録22:16,17同)

朝の露 <あわれみ深い女たちが>

2023-01-11 | 哀歌
「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。」(哀歌4:10新改訳)

エルサレムはバビロン軍に包囲され、一年半ほど兵糧(ひょうろう)攻めにあったため、市内は極度の飢餓状態(きがじょうたい)になった。そのときいちばん悲惨だったのは乳飲み子、幼児、母親たちである。10節はその描写だが、まともに読めない。まさに地獄である。▼そもそもの原因は、祭司や預言者たちの言葉にあった。彼らは「エルサレムは神の都なので絶対に守られる。ここにいれば安全だ」と言い続け、神の奇蹟に期待したので、民もそれを信じたのだった。宗教者たちの罪深さ!▼ひとり反対したのはエレミヤである。そんなことは起きない。なぜならあなたがたは罪を犯し、神に背き続けており、悔い改めようとしない。だから神はすでにこの都を見捨て、滅亡に定めた。助かる道はバビロンに降伏することだ。そう主張し続けたのだ。かくてエレミヤは、裏切り者として獄につながれた。▼もし王と国民がエレミヤの預言に従っていれば、悲劇は起こらなかったのに・・・。国の不幸は大きくみてふたつある。第一は父なる神の声を真に聴き分ける預言者がいないこと。私は神の声が聞ける、と主張するにせ預言者・にせ宗教者がいくらいてもむなしく、その国は亡びるしかない。第二にエレミヤのように語る人がいても、国民が聞く耳を持たないこと、それが致命傷になる、ということだ。そこで私たちキリスト者は、何をさておいても、聖書のことばを発信し続けたい。一つ一つが小さくても、小川が集まって河になるように、無視できない流れになることを信じて。


朝の露 <嘲りの歌>

2023-01-10 | 哀歌
「私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。主は私を苦菜(にがな)で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。」(哀歌3:14~16新改訳)
エレミヤはエルサレムの壊滅(かいめつ)を預言すればするほど、民から憎まれ、笑いものとなったが、今や廃墟(はいきょ)となったエルサレムが周辺諸国の笑いものになり、あざけりの歌となっている。その悲惨な姿を描写したのがこの章で、エレミヤが受けた侮辱(ぶじょく)とエルサレムのそれとが重なっている。▼ところがその光景が、いつのまにか十字架につけられたイエス・キリストの姿に移っていく。主はご自身が神の愛するひとり子であることを語れば語るほど、人々の笑いものとなり、あざけられ、ついに十字架に追いやられたのであった。その苦しみのありさまが、六百年前のエルサレム崩壊に重なっているとは、なんと不思議な事実であろう。▼思えば、神の都の本体はキリストのおからだである。だから、エレミヤの受けた苦しみとキリストの十字架、そして廃墟となったエルサレムは、本質において通じているのだ。だからキリストが復活されたように、エルサレムも廃墟のままでは終わらない。やがて天の都として復活の栄光を現わす。今や私たちは哀歌の涙と悲嘆が十字架へ、さらに復活とメシアの来臨につながっていることを知った。

朝の露 <涙のエルサレム>

2023-01-05 | 哀歌
「エルサレムは罪に罪を重ねた。そのため、汚らわしいやもめとなった。彼女を尊んだ者たちはみな、その裸を見て、これを卑しめる。彼女もうめいてその背を向ける。」(哀歌1:8新改訳)
BC586年、エルサレムはバビロン軍に徹底的に破壊され、焼き尽くされた。哀歌の作者(エレミヤであろう)は涙を流しながら、瓦礫の中に座り込む。あたり一面に横たわる死者たち、そこに肉食鳥たちが舞い降り、死肉をついばむ。野犬や獣たちも腐肉を食べあさるが、追い払う者もいない。ひん死の病人、負傷者たち、骨と皮の幼子と母親たちもあちこちに横たわり、少数の人たちが餓鬼のようにさまよいつつ、何か食べる物はないかとよろよろ歩いている。この世に地獄があるとすれば、そのときのエルサレムがそれだった。▼主イエスは仰せられた。「地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです」(マタイ5:35同)と・・。偉大な王とは、創造者なる天の父、またメシア、キリストである。まさにエルサレムは地上でただ一か所、「王の都」なのだ。それがなぜ、汚らわしい焼き場、死体焼却場のようになったのか。エレミヤのほおから涙が滝のように流れ落ちて止まらない。▼だが、哀歌は世の鎮魂歌とはちがう。それは悲しみの中にも、するどく自分たちの罪深さを意識しているのである。それこそが、哀歌に流れる生命的なものである。たとえば「彼女(エルサレムのこと)の多くの背きのゆえに、主が憂いを与えられたのだ」(5同)。そのほかにも、8節、9節、18節、20節がそうである。▼神は人が犯す罪に対しては絶対に容赦しない。たとえ大王の都であってもそこで罪が犯され続けるなら、ソドム、ゴモラのように一瞬のうちに焼かれるのである。エレミヤは地獄の光景を見ても「なぜですか?神よ」と言わず、私たちの背きの罪がこういう結果を招いたのです、という。この悔い改めこそ、私たち現代人が必要としている自覚なのだ。なぜか?▼人をキリストの十字架のもとへ連れて行くのは、この認罪意識しかないからである。そしてそれが、やがて来る永遠の審判から私たちを救い出す。人よ、哀歌をエルサレムに座って泣いたエレミヤとともに読みなさい、そのとなりに一緒に座り、くすぶる煙の都を見やりながら味わいなさい、御聖霊は今、そう呼びかけておられる気がする。


朝の露 哀歌5章 <私たちにわざわいあれ>

2018-06-26 | 哀歌

ゆすらうめ「私たちの心から喜びが消え、踊りは喪に変わりました。冠も頭から落ちました。私たちは、ああ、罪ある者となりました(ああ、私たちにわざわいあれ。・・3版)。」(15,16新改訳)

想像もできない悲劇と不幸に見舞われた時、なぜですか?と叫ぶ人は多い。しかしエレミヤのように、「私たちにわざわいあれ」と、神に向かって叫べる人はいるだろうか。心の底から自分の罪深さをおぼえ、認め、あなたがこのようにされるのは当然なのです、と告白できることは、じつは幸いなのである。▼哀歌は、硝煙くすぶる廃墟に佇(たたず)んだ詩人が、罪を言い表し、一切の栄光を神に帰しながら、涙の筆をおく。旧約聖書はここまでである。が、神は哀歌の祈りにお答えになった。イスラエルの罪を負い、永遠のあがないをなしとげるため、神の独り子が「いけにえの羊」として現れたのだ。モーセ律法でもなくエルサレム神殿でもない、その本体、永遠の律法、活ける神殿そのものが来られた。神の国が始まったのである。