しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主への贈り物として>

2022-10-05 | イザヤ書
「彼らはすべての国々から、あなたがたの同胞をみな主への贈り物として、馬、車、輿、らば、らくだに乗せて、わたしの聖なる山エルサレムに連れて来るー主は言われるーそれはちょうど、イスラエルの子らが穀物のささげ物をきよい器に入れて、主の宮に携えて来るのと同じである。」(イザヤ66:20新改訳)
キリストが地上に再臨され、世界平和が訪れると、バベルの塔事件と反対のことが起きるだろう。あのときはシナルの地から世界中に民が散って行ったが、今度は世界中から諸国民がエルサレムに集まってくる。しかも人々はイスラエルの子孫たちを丁重(ていちょう)に扱い、宝物のように大切にしながら連れて来るとイザヤは言う。▼イスラエル民族が迫害され、全世界に散らされた涙の歴史は無駄ではなかった。それによって遠い島々、五大陸のあらゆる場所に置かれた彼らが、今度は祝福の基(もとい)となって歴史の逆転が起きる、それが千年王国なのだ。日本は東の果てにある島国だが、ここからも選民が聖地に帰還するかもしれない。たぶん、あっと驚くような歴史と民族のふしぎが見られることになろう。

イスラエルの帰還については他の預言書も記している。「わたしが彼らを諸国の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集めるとき、多くの国々が見ている前で、わたしは彼らのうちにわたしが聖であることを示す。わたしは彼らを国々に引いて行かせたが、また彼らを彼らの地に集め、もう国々には一人も残さない。このとき彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知る。わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである。――神である主のことば。」(エゼキエル39:27~29同)


朝の露 <木の寿命に等しく>

2022-10-04 | イザヤ書
「彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」(イザヤ65:22新改訳)
本章17節以下には、やがて来る千年王国とそのあとに出現する永遠の新天新地が重なるように描かれている。千年王国では「人間の寿命が木の寿命に等しくなる」とあるから、驚くべき長寿社会が出現するのであろう。今でも米大陸には樹齢四~五千年のメタセコイアという木があるそうだ。人の寿命がこのようになるとは不思議ですばらしい事実である。そのときは悪魔が底無き穴に幽閉され、地上からいなくなるが、その結果としてこれほどの祝福が地に満ちるとは胸がおどるではないか。▼だが、その後に現れる新天新地の栄光はさらにすばらしい。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(17)と、神は約束された。私たちキリスト者が生涯のすべてをかけて目指すのは、死からよみがえり、この永遠の御国に入れていただくことである。アブラハムも使徒パウロも、いや世々の信仰者たちがいのちを捨てたのも、この希望があるからだった。▼「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。・・・しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」(Ⅱペテロ3:10~14同)

現在の世界情勢をみると、核戦争がそこまで迫って来ているような感じがする。しかし主イエスが言われた患難時代にはまだであろう。おそらくその直前のときといってよいのではなかろうか。キリストの名を名乗る者が大勢現れ(マタイ24:5)、戦争と戦争のうわさが飛び交うとき(同6)、民族間の対立と国家間の敵対(同6,7)、飢饉と地震など(同)、まさに主の仰せられた「産みの苦しみの始まり」(8同)であるのはたしかだ。▼パウロが述べるように不法の者(反キリスト)が出現したとき(Ⅱテサロニケ2章)が患難時代のクライマックスであるが、その前にキリストの花嫁なる教会の携挙、地上ではエルサレム神殿の再建が起きると思われる。かくして地上再臨したもうキリストと天の軍勢、そしてそれに挑みかかる地上勢力の戦いが最後に行われよう。悪魔はすべてを察知しているので、最後の戦いに備え、世界人類を軍事的、政治的、経済的かつ宗教的に統一しようとしてあらゆる努力を注ぎ込んでいる、それが今だと思われる。世界は一つ、人類みな兄弟、すべての隔てや差別をなくそう、というスローガンをしきりに強調する動きには注意をはらうべきであろう。むろんキリストの福音による一致は別である。▼いずれにせよ、私たちは何が起きてもあわてないように、目を覚まして祈り、みことばを落ち着いて読み、心静かに世界に行われていることを観察し、準備をしながら生活することが寛容である。明け方まだほの暗いとき、東の空にひときわ明るく輝く金星のように、主イエスは選びにあずかっているキリストの花嫁たちを迎えに来られると信じる。ご自身のみもとに復活、携挙させるために・・・。

朝の露 <御名を呼ぶ者>

2022-10-03 | イザヤ書
「しかし、あなたの御名を呼ぶ者はなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎によって、私たちを弱められました。」(イザヤ64:7新改訳)
荒廃したエルサレムと選民の霊的回復を願う悲痛な祈りがこの章に記される。かつてイスラエルが持っていた神への純粋な信仰ときよい歩みは消え失せ、その義は不潔な衣服と変わらなくなった。その上、そこから立ち上がって主を求めようとする真剣な祈りもない。あなたは御顔を隠したので、私たちはなすすべもなく地に倒れたままです。預言者イザヤの悲しみはとまらない、それでもあなたは私たちを苦しめ続けるのですか(12)と。▼だがイエスによって彼の悲しみは恵みへと変えられたことを私たちは知っている。すなわち神ご自身がイザヤの祈りをそのまま十字架で祈られたのだ。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34同)と。こうして神のひとり子は、イスラエルの罪と苦しみの真っただ中にお出でになり、そこを恵みによる救いの場所に変えられたのであった。

エデンの園を追放された人間の歴史は、罪と堕落、反抗のそれだった。だがその反面、父なる神のところに戻りたいという祈りの流れでもあった。「セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」(創世記4:26同)▼主なる神を慕い、ふたたびみもとに帰りたいとの祈りは、セツ系の人々に受け継がれて現代に至っている。今日、私たちキリスト者の心にある祈り、「御国を来たらせたまえ」はこの流れそのものといえるだろう。この哀願にこたえ、イエス・キリストは必ず再び来られ、神と人が永遠に共に住む復活の新世界をお始めになる。イザヤの祈りは、一見すると絶望の現れのように見えるが、そうではない。「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを」(イザヤ64:4同)という期待の祈りなのだ。▼だから私たちも「主の名を呼ぶこと」をやめないようにしよう。そのようにして来た無数の人々が大きな河となって歴史に存在しているのを見ているのだから・・・。「アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、・・・これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」(→ヘブル11章)

・父なる御神に いま帰らん この世を後ろに われ帰らん
・あだに日を過ごし いま帰らん 涙をもて悔ゆ われ帰らん
・汚れに飽きたり いま帰らん み誓い頼りて われ帰らん
・心は痛めり いま帰らん 力を賜えや われ帰らん
   帰らん帰らん われ帰らん 神よ愛の手 伸べたまえ
                            <新聖歌449 詞:William J.Kirkpatrick,1838-1921>






朝の露 <贖いの年が来た>

2022-09-29 | イザヤ書
「復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。」(イザヤ63:4新改訳)
復讐の日とは、今の福音時代が終わり、患難期の最後に起きるキリストの地上再臨をさすのであろう。そのクライマックスともいわれるのが、黙示録に記されているハルマゲドンの戦いである。「御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった」(黙示録14:19、20同)。▼人の心に内在する罪はそのままでは終わらず、歴史の最後に到達点を迎える。それを詳細に預言したのが黙示録である。世界の歴史は人間どうしが殺し合うにとどまらず、ついには神とキリストに総力をあげて挑みかかる結果となる。かつて、ナザレのイエスを十字架に至らしめた反逆心が、最後の日には世界規模で神に襲いかかる形になり、さばかれるのである。だからこそ恵みの時といわれる今のうちに、救われることが大切なのだ。

本章にはキリスト者にとり、恵みに満ちた聖句がある。それは、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った」(9同)である。自分の信仰生涯をふりかえると、さまざまな形での「危機」が幾度となくあった。これはだれにでもいえるのではなかろうか。▼しかしそのようなとき、主の奇蹟としかいいようのないことが起き、ふしぎな御手によって救われ、守られて来たのである。しずかに顧みると、自己の判断や力だけでは決して通り抜けられなかった事例が数多くあった。しかし守られ、支えられて今日がある。主の臨在の御使いとは、実際に天使であろうし、内住される御聖霊でもある。ああ、主はいかに私たちの弱さ、もろさを知り尽くした御方であろう。主はすべてをご存じの上で、私を召し、救い、支え、永遠の御国を継がせようとしておられる。これほどに感謝でもったいないことがほかにあるだろうか。

望みも消え行くまでに  世の嵐に悩むとき  数えてみよ主の恵み  汝が心は安きを得ん
主の賜いし十字架を  担いきれず沈むとき  数えてみよ主の恵み  呟きなどいかであらん
世の楽しみ・富・知識 汝が心をさそうとき  数えてみよ主の恵み  天つ国の幸に酔わん
   数えよ主の恵み  数えよ主の恵み  数えよ一つずつ  数えてみよ主の恵み
<新聖歌172 詞:Johnson Oatman,jr.,1856-1922(UN)>

朝の露 <主を休ませてはならない>

2022-09-28 | イザヤ書
「主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとするまで。」(イザヤ62:7新改訳)
神はエルサレムをどんなに愛しておられるか、その真情がここに吐露(とろ)されている。やがて神はエルサレムを御自身が臨在される場所として、輝く栄光の都に変えられる。そのときが来るまで、神に選ばれた信仰者たちは祈り続けなさいと命じられている。その命令に従って、人々は何千年にわたり、エルサレムの回復を祈り続けて来た。これはまさに歴史の不思議である。▼エルサレムの回復とはユダヤ民族の回復を意味している。この都が壮麗に飾られ、神殿が完成したとしてもそれだけでは意味がない。彼らが回復することが必要である。それは選民が涙の悔い改めと共に、イエス・キリストを真のメシア、救い主として信じ受け入れることだ。そのときはかならず到来するであろう。キリスト者たちはそれが祝福された永遠の時代の始まりであることを知っているので、熱心に祈っているのである。▼むろん未来は、地上のエルサレム回復だけで終わらず、新天新地におけるキリストの花嫁、神の都として最終的な姿に結実する。神とこひつじが花嫁と共に永遠に住まいする天の都エルサレム、世々の信仰者たちがあこがれ、夢にまで見た住居、それが実現するようにとの祈りが教会に与えられた「主よ御国を来たらせ給え」との祈りだ。御聖霊は今、地上で無数のはなよめたちを捕らえ、贖いの完成、永遠の御国の現れを求めて祈らせつつおられる、主よ来たりたまえ!と。

私が二十代の頃、ひとりで祈っていたとき、本章5節が臨んで来たことがあった。「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」(5同)が、私への個人的よびかけのように聞こえたのである。意訳すれば「主は救いにあずかったあなたを、個人的に、ちょうど花婿が花嫁を喜ぶように喜んでおられる」との御霊のお声であった。▼救われて十年にも満たない頃だったし、信仰的に幼かった私は、神というお方をなんとなく厳しく、厳格な御方としてとらえていた。ところが、はじめて「私個人を喜びのうちに愛し、受け入れておられる方」として意識したのである。それはおどろきであり、同時にこの上ない喜びであった。そのときから半世紀、イザヤ書62章5節は今も特別なみことばとして心に刻まれている。▼救い主の御血潮のゆえに、罪がゆるされただけでなく、愛され喜ばれている、という事実ほど私たちを平安で満たすものはないであろう。