「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」(ヨシュア記24:15新改訳)
ヨシュアが最後にイスラエルと結んだ契約はシエケムの契約といわれる。ここを見ると、民は何度もくり返して「私たちは神の律法を守り、そこから右にも左にもそれません」と固く誓ったことがわかる。そしてヨシュアは大石を樫の木の下に立てて不動の証拠としたのであった。だが残念にもそれは破られたことが王国の歴史、列王記、歴代誌にあきらかであった。▼この旧約の歴史は、ひとつの大きなメッセージになっていることが、今の私たちにはわかる。それはイエス・キリストの出現と彼によってなしとげられた十字架のあがないである。旧約歴史がどの時代を通しても、声をそろえて語りかけるのは、「人類と世界の歴史の永遠の解決はこひつじイエスにのみある」ということなのだ。▼歴史に中に、神の子がなだめのそなえものとなって現われた、これはわたしたちにとり、最高最大の啓示なのである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。み父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、み父また御子イエス・キリストとのまじわりです。」(Ⅰヨハネ1:1~3同)