しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <私と私の家は>

2024-10-21 | ヨシュア記
「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」(ヨシュア記24:15新改訳)

ヨシュアが最後にイスラエルと結んだ契約はシエケムの契約といわれる。ここを見ると、民は何度もくり返して「私たちは神の律法を守り、そこから右にも左にもそれません」と固く誓ったことがわかる。そしてヨシュアは大石を樫の木の下に立てて不動の証拠としたのであった。だが残念にもそれは破られたことが王国の歴史、列王記、歴代誌にあきらかであった。▼この旧約の歴史は、ひとつの大きなメッセージになっていることが、今の私たちにはわかる。それはイエス・キリストの出現と彼によってなしとげられた十字架のあがないである。旧約歴史がどの時代を通しても、声をそろえて語りかけるのは、「人類と世界の歴史の永遠の解決はこひつじイエスにのみある」ということなのだ。▼歴史に中に、神の子がなだめのそなえものとなって現われた、これはわたしたちにとり、最高最大の啓示なのである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。み父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、み父また御子イエス・キリストとのまじわりです。」(Ⅰヨハネ1:1~3同)

朝の露 <罠と落とし穴>

2024-10-17 | ヨシュア記
「あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠(わな)となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹(わきばら)にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たち神、主がお与えになったこの良い地から滅び失せる。」(ヨシュア記23:13新改訳)

ヨシュアはその生涯を終えるにあたり、イスラエルの全部族が真の神を離れ、堕落したときの恐ろしい運命をここに預言した。罠、落とし穴、むち、とげの五つは当時、猛獣(もうじゅう)を捕らえるとき使った道具であり、もしそこに毒でも塗ってあれば、捕らえられた動物は悲惨な運命になる。ヨシュアはそれを言おうとしたのである。▼占領した約束の地は、自然環境から見れば乳と蜜の流れるすばらしい豊穣(ほうじょう)の地であった。だがそこに住む住民たちの心は堕落し、霊的、宗教的には暗黒で満ちていた。つまりそれが罠であり落とし穴だったのである。▼悲しいかな、ヨシュアの警告は数百年後に現実となり、イスラエルは聖地から消えて行った。後に使徒パウロはテモテに「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(Ⅰテモテ6:12同)と書き送っている。ヨシュアによるカナン征服戦を、キリスト者は霊的・信仰的にとらえなければならない。なぜなら、私たちの敵は地上の人間とその権力ではなく、今なお天にいる霊的な勢力、悪魔とその支配下にある闇(やみ)の勢力だからだ。彼らはこの世に生きる信仰者たちを罪によって堕落させ、永遠のいのちを獲得(かくとく)しないよう、あらゆるワナと手段を用いて妨害している。これに打ち勝つことこそ、神の国に入るための条件であることを忘れてはならない。▼パウロの最後のメッセージを聞こう。「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:6~8同)

朝の露 <ルベン、ガド、半マナセ>

2024-10-16 | ヨシュア記
「私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫がそう言われたとしても、私たちはこう言うことができる。『私たちの父祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のささげ物のためでもなく、いけにえのためでもなく、私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ』と。」(ヨシュア記22:28新改訳)

ヨルダン川の東側に相続地を持った三部族、ルベン、ガド、半マナセは川によって分かたれることになったため、将来「お前たちは私たちと関係ない」と言われるのを心配した。そこで自分たちもまちがいなく十二部族の一員であると後の時代に証しするため、大きな祭壇を造ったのである。▼この杞憂(きゆう)は後に事実となった。マナセの一部ギレアデ人は、エフライム族から「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ」(士師記12:4同)とあざけられたからである。川の存在が民族を分断し、障壁(しょうへき)となることは多くの歴史が証明している。イスラエルは律法と礼拝を守るため不断の努力をしてこそ国が永続できたのだが、それをしなかったため分裂し、消えて行った。▼キリスト者の生命線は、毎日の歩みの積み重ねにある。一時的なこと、はでなことはむしろ無益であり、聖書をコツコツ読み、黙想し、祈ること、教会の集会と交わりを欠かさない事、謙遜な姿勢で主の奉仕に参加することなどがとても大切なのだ。▼サムソンは捕らえられ、頭を丸坊主にされて力を失ったが、来る日も来る日も牢獄で臼を引かされているうちに髪の毛が少しずつ伸びて行った。そしてペリシテ人がうっかり見過ごしている間に頭髪がもとのふさふさ髪の毛に戻った。それとともに神の大能力が回復したのであった。そして最後の奇蹟が起きた。「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」(士師記16:30同)

朝の露 <アロンの相続地>

2024-10-15 | ヨシュア記
「彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。」(ヨシュア記21:11新改訳)

大祭司アロンの一族にはくじで当たったヘブロンの地が与えられた。これには深い意味がある。ヘブロンはユダのカレブ族が所有し、もっとも信仰による支配が安定した町で、そこにアロンの一族も住むことになった。▼ヨシュアの時代にまだダビデは出現しておらず、エルサレムに神殿が建てられる構想はなかった。だがエルサレムから遠くないヘブロンに大祭司一族が住めば、エルサレム神殿での働きにはより便利であろう。神はなにもかもご存じで、アロンたちと将来の神殿を結び着けたにちがいない。▼ともあれ祭司とレビ族はイスラエル各地に分散して48か所の所有地を持つことになった。もし祭司とレビ族が一二部族の中に均等に住まなければ、長い間に律法の精神は薄れ、神への信仰が弱まり、結果として国力は衰退(すいたい)してしまう。レビ族が産業を持たず、神を自分たちの「産業」とすることは、とても重要なことだったのである。▼日本にも数千か所におよぶプロテスタント教会がある。小さいとはいえ、宣教200年の間に、これだけの数が列島各地にできたことは大きな意味があると思う。その上、キリスト者たちの家庭が多く存在し、各社会の分野にも信仰者が混じっていることは、決して小さくなく、大切な意味をもっている。塩が混じっていなければ、食べ物は日持ちしないで腐敗するように、聖書の教えに生きるキリスト者がいなければ、日本の道徳基準も知らず知らずのうちに低下していくであろう。福音なき江戸時代の偶像文化や淫蕩に満ちた風俗習慣がそれを物語っている。塩が塩気を失えば何の役にもたたない、と主イエスがおおせられたように、少数といえど、日本のキリスト者たちは聖書を信じ、その教えに忠実に立った人生を送る必要がある。なぜなら、知らず知らずのうちにそれが日本を腐敗から守る結果になるからだ。

朝の露 <逃れの町>

2024-10-14 | ヨシュア記
「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。』」(ヨシュア記20:2新改訳)

この章は「逃れの町」についての規定である。いつの時代でも、悪意がないのにあやまって人を殺してしまう事件は存在する。律法では「目には目を、歯には歯を」とあるように、個人的な復讐は許容されていた。しかし原因が正しく究明されずに、どんな殺人でも復讐してよいということになると、場合によっては殺し合いが限りなく続く結果となる。したがって私的、感情的な復讐を防ぐため、殺人者は逃れの町に避難することにより、正しい判決を受けることができたのであった。▼もちろん真の「逃れの町」はイエス・キリストご自身である。人間の心に憎しみや復讐(ふくしゅう)の心理が存在しているかぎり、逃れの町をいくら設けても、ほんとうの解決にはならない。それを放棄(ほうき)し、すべてを天の父にゆだねるときに平和な社会が実現するのであり、そのことはキリストの再臨によって世界を正義がおおうとき、はじめて成就することになる。