しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <家の聖別>

2024-05-01 | レビ記
「人が自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司がその良し悪しを評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。」(レビ記27:14新改訳)

モーセ律法では自分の家を神にささげ、聖別することができた。これは私たちキリスト者にも大切な示唆(しさ)を与える。▼家族がみな救われたとき、家長はわが家を教会に準じる聖なる場所とするよう力をつくしたい。みなが集まって家拝をし、清潔で静かな祈りの空気がただよう家として整えられたら、どんなに幸いであろう。また、まわりの信仰者たちが集まって来て、交わりと礼拝がもてるなら、幸いな憩(いこ)いの場となり、入信する人たちが起こされるにちがいない。▼テレビや音楽が大きな音量でひびいている環境は、かならずしも好ましいものではない。食事も感謝の祈りをもって一同でとるのが望ましい。わが国ではいつのまにかこのような光景が少なくなり、個室が増え、信仰の交わりが希薄(きはく)になってきた。救われる人たちが家庭から起きるよう努力すべきではないだろうか。

朝の露 <わたしは主である>

2024-04-30 | レビ記
「わたしは彼らのために、彼らの父祖たちと結んだ契約を思い起こす。わたしは彼らを国々の目の前で、彼らの神となるためにエジプトの地から導き出したのだ。わたしは主である。」(レビ記26:45新改訳)

モーセはレビ記を終えるにあたり、イスラエルが神に従った時に受ける祝福と、逆らったときにこうむる詛(のろ)いをくわしく記す。祝福はすばらしいが、詛いの具体的描写は読んでいて背筋(せすじ)が凍(こお)るほど恐ろしいものである(14~41)。残念にも、以後のイスラエルの歴史は詛いが成就(じょうじゅ)してしまった。特にキリストの十字架以後の民族史は悲惨(ひさん)なものとなった。▼しかし神はイスラエルと結んだ契約を決して忘れるお方ではなかった。ご自身の真実のゆえに、イスラエルを抹消(まっしょう)されなかったのである。ふしぎにも彼らは祖先の土地に帰って来て国を造り、すでに80年になろうとしているとは、だれが見てもおどろきでしかない。聖書はやがてヤコブの患難(かんなん)という時期が来ると記す。しかしそのあとのすばらしい霊的回復も約束していることを忘れてはならない。

朝の露 <ヨベル>

2024-04-29 | レビ記
「あなたはその第七の月の十日に角笛を鳴り響かせる。宥めの日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせる。」(レビ記26:9新改訳)

これはヨベルの年として、神が定めたもので、五十年ごとにめぐって来た解放の年のこと。負債をかかえていたものも一切が免除され、しもべとして売られていた人も自由になって家に帰ることができた。田畑も家も、もとの持ち主に戻ったのだから、全イスラエルに喜びが沸き起こったであろう。▼新約の光で見れば、ヨベルの年はキリストが地上に再臨したもう日として味わうことができる。すなわち、天空高く鳴り響く神のラッパとともに、イエス・キリストが地上に来られると、地の中に眠っていた信仰者たちがあらゆる時代や地域を超えてよみがえり、喜び叫びながら空中に携え上げられ、キリストのみもとに集まる。すなわち永遠のヨベルの開始である。「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」(マラキ4:2同)


朝の露 <供えのパン>

2024-04-25 | レビ記
「これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」(レビ記24:9新改訳)

幕屋の中には金でおおわれた机があり、そこに「主への食物のささげ物」として十二個のパンが供えられ、毎週新しいものに取り換えられた。そこから下げられたパンは最も聖なるものとして祭司アロンとその子らが食べたのである。これは聖餐式のひな型といえよう。▼イエス・キリストは御自身を天の父への純粋なパンとしておささげになった。三三年の御生涯は、いわば純粋な種なしパンで、御父が喜んでお受けになったものである。しかしそれと同時に、私たちキリスト者も活けるパンとして、主イエスを頂けるのである。天の父が食し、私たちもまた共に食することができる聖なるパン、それがイエス・キリストであるとは何とふしぎな事実であろう。主が「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネ6:51同)と仰せられたとおりである。

朝の露 <主の仮庵の祭り>

2024-04-24 | レビ記
「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日は、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。」(レビ記23:34新改訳)

これはユダヤ暦・三大祭りの最後にあたる仮庵祭(かりいおさい)についての規定である。主が地上に再臨され、千年王国が始まると、キリストと栄化された花嫁がエルサレムにとどまり、地上における祭司の民として回心したイスラエルが仮庵の祭りを行う。そして世界中の諸民族がこれに参加するため上って来る。▼ゼカリヤは、「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」(ゼカリヤ14:16同)と記し、さらに「地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない」(同17)とも述べている。▼祝福に満ちた地上の王国だが、世界の民が今の教会のように心から回心し、救い主を信じているのとは違う状態であることがわかる。