「人が自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司がその良し悪しを評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。」(レビ記27:14新改訳)
モーセ律法では自分の家を神にささげ、聖別することができた。これは私たちキリスト者にも大切な示唆(しさ)を与える。▼家族がみな救われたとき、家長はわが家を教会に準じる聖なる場所とするよう力をつくしたい。みなが集まって家拝をし、清潔で静かな祈りの空気がただよう家として整えられたら、どんなに幸いであろう。また、まわりの信仰者たちが集まって来て、交わりと礼拝がもてるなら、幸いな憩(いこ)いの場となり、入信する人たちが起こされるにちがいない。▼テレビや音楽が大きな音量でひびいている環境は、かならずしも好ましいものではない。食事も感謝の祈りをもって一同でとるのが望ましい。わが国ではいつのまにかこのような光景が少なくなり、個室が増え、信仰の交わりが希薄(きはく)になってきた。救われる人たちが家庭から起きるよう努力すべきではないだろうか。