しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <光の子ども>

2024-11-15 | Ⅰテサロニケ
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:4新改訳)

キリスト者は、再臨が切迫していると聞いても恐れる必要はない。それどころか喜びを抱いて主の日を待ち望むことができる、つまり私たちはこの世でいちばん幸いな人々なのである。▼世間ではいろいろな兆候(ちょうこう)を取り上げ、不安心理をあおる勢力が力をのばし、暗い情報を流し続けているが、そのとりこにならないように注意しよう。主イエスはおおせられた。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:3同)と。主がおられる所とは父なる神の右の座であり、栄光と愛に満ちた場所である。私たちはそこに導かれ、座らせられるだから、おどろくべき恵み、喜びではないか。しかもその時が、時々刻々(じじこっこく)と近づいている、これが再臨の真相なのだ。救われた確信を毎日抱き、主のお出でを待望しよう。▼「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界のもとい(基)が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」(ヨハネ17:24同)▼「勝利を得る者を、わたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」(黙示録3:21,22同)

朝の露 <神に喜ばれるために>

2024-11-09 | Ⅰテサロニケ
「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」(Ⅱテサロニケ4:1新改訳)

本章でパウロは三つの大切な教えを強調している。第一は聖化の大切さ(3~8)。第二は兄弟愛にますます励むこと(9~12)。第三はキリストの再臨と、そのときに起きる復活・携挙のすばらしさである(13~18)。▼テサロニケはギリシア偶像文化のただ中にあり、肉欲と放縦(ほうじゅう)が人々を支配していた。せっかくキリストの救いにあずかっても、福音の生命を固く保持して歩んでいなければ、恐ろしい誘惑の魔手(ましゅ)に呑(の)まれる可能性がある。そこで使徒は厳粛(げんしゅく)に「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と命じたわけである。▼与えられた御聖霊と共に歩み、汚れを憎み、兄弟どうしが愛によって助けはげまし合い、再臨の輝く希望に生きる、この三つが特に大切であるとパウロは強調した。これは二一世紀に生きる私たちにとってもまったく同じ警告である。黙示録2,3章に記された「アジアにおける七つの教会」への使信を読むと、称賛されている教会はスミルナ教会とフィラデルフィア教会の二つだけで、残りの教会は称賛とともにきびしい叱責(しっせき)が加えられている。つまりこれらの教会に生きるキリスト者たちは(全部ではなくても)、再臨のとき、携挙されない可能性があったのである。率から言えば、70%だ。これほどおごそかな警告はあるまい。まして終末の暗黒世界に生きる我らはどれだけ目をさましていなければならないことであろう。

朝の露 <苦難の中にあっても>

2024-11-08 | Ⅰテサロニケ
「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」(Ⅰテサロニケ3:3新改訳)

町から町へ追われ、迫害を逃れるしかなかったパウロは、せっかく生まれたテサロニケの信徒たちを残して南のアテネに移動することになった。しかし心配でたまらない。彼らは迫害者たちの攻撃にさらされ、離散して信仰をなくしているのではなかろうか。▼耐えきれなくなった使徒はアテネからテモテをもう一度テサロニケに戻し、人々が無事でいるか、教えを守っているかどうか調べさせた。すると信徒たちはみなしっかり信仰に立ち、もう一度パウロに会いたがっている、そのような報告を受けた。彼は喜び、手紙を書き送ったのがこのⅠテサロニケ書である。▼私たちは使徒が生まれてまもない信徒たちに抱く深い愛情に、心がゆさぶられる。そしてその愛は天におられる牧者であるイエス・キリストから出ていることを、改めて知るのである。主は今日も同じ愛をもって私たちを見ておられる。▼「わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ、悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(黙示録2:9,10同)

朝の露 <敬虔に、正しく>

2024-11-02 | Ⅰテサロニケ
「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。」(Ⅰテサロニケ2:10新改訳)

使徒パウロの宣教は、現代における私たち牧師が恥ずかしくなるほど、自己犠牲(じこぎせい)の精神に満ちていた。▼一例をあげれば、回心して教会員となった人たちから謝礼を受け取って当然なのに、パウロは決してそうしないで「昼も夜も自活しながら」伝道したのだ。また、父親が愛する子どもに向かうように、どんなことも耐え忍び、やさしく教えさとすように福音を伝えたのであった。▼ユダヤ人とギリシア人では言葉も風俗(ふうぞく)、習慣もまったくちがう。想像をこえた困難のなかで、福音の真理を説き明かすことには、気が遠くなるような忍耐が必要だったことだろう。そのすべてが、ほろび行く人々をなんとしても救い出したい、との神の愛から出ていたのであった。▼私たちもひとりの人が救われ、永遠のいのちにあずかるためなら、おしげもなくすべてを投げ出す者でありたい。涙とともに種を蒔(ま)く人だけが御国で大いなる喜びにあずかるのだから。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5,6同)

朝の露 <やがて来る御怒り>

2024-11-01 | Ⅰテサロニケ
「御子(みこ)が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」(Ⅰテサロニケ1:10新改訳)

やがて来る御怒りとは、黙示録が預言する患難(かんなん)時代を指し、人類歴史の最後に臨(のぞ)むものである。そして、そこから救い出してくださるとは、その直前にキリストの花嫁(はなよめ)である教会が、空中に携(たずさ)え上げられる携挙(けいきょ)をいう。▼この手紙は初めから終りまでキリストの再臨を強調していて、パウロたちが信徒たちに熱誠(ねっせい)をこめて教えさとしたことが想像できる。じつにテサロニケの信徒たちは、使徒の教えにより、この世の終りが近いことと、いっさいの悪が最後に審判されることを知り、きびしい迫害に耐(た)える力が与えられ、希望をもって生きるように変えられたのであった。▼そして、また、このことは同時に、現実に世界滅亡(めつぼう)の危険にさらされつつある現代教会にとり、ひときわ切迫感をもって迫るメッセージともなっている。まさに彼らの再臨待望は私たちと同じだったのだ。「その日は、全地の表(おもて)に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断(ゆだん)せずに祈っていなさい。」(ルカ21:35,36同)