「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Ⅰヨハネ5:12新改訳)
聖書がいうとおり、永遠のいのちはキリストご自身のことだから、この方を信じることなしにそれを所有することは不可能である。ある青年が主イエスのところに来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16同)と尋ねた。彼は目の前におられる方が永遠のいのちそのものであるとは知らず、イエスとは別にいのちが存在すると思っていたのであり、そこが根本的にまちがっていた。▼私たちもおなじで、この青年のように、あるいは不老長寿の秘薬を探した秦の始皇帝のように、イエスと別のところにそれを求めることをしてはならない。主がはっきりと、「まことに、まことに、あなたがたに言います。(わたしを)信じる者は永遠のいのちを持っています」(→ヨハネ6:47同)と言われるからである。▼つまり私たちは、「信仰は信仰、いのちはいのち」と別々に考えやすいが、御子イエスを信じる信仰と永遠のいのちは同時に起きることで、両者は切り離せない関係にあることを知らなければならない。もしだれかが「主よ、あなたを信じます」と心から告白したとき、その人には永遠のいのちが宿っており、時間差はない。両者は同一の体験として把握されるのである。誰でも主イエスを救い主と信じるなら、「私は今や永遠のいのちを与えられ、それを所有している」との自覚、確信がかならず生じるであろう。いのちとそういうものだからだ。これは本当にすばらしいことである。肉体が生きていることを感じるにまさって、永遠の生命が宿っていることをおぼえる喜びほど幸いなものはない。
私は60年前、教会に行き、主を信じたが、人生がすっかり変わってしまった。すなわち、言うに言えないふしぎな喜びが心に宿ったのであった。それは自分で造ろうとして造ったものではなく、心を変えようとして変わったのでもなかった。▼イエスを救い主と信じた、と言う以外に、なんら人為的なものはなかったのに、自分でもおどろくほど人格的に変化したのである。それ以来、今日までその喜びと満足が消えたことはない。だから私は「新しいいのち」というものが現実に存在するものであり、それが自分に与えられたことを露ほども疑ったことはないのである。▼救われた喜び、御子を心に宿したことによる満足、もしこれが架空のものであるなら、キリスト教が二千年存続することは不可能であったにちがいない。数えきれない迫害、キリスト教撲滅運動、その他ありとあらゆる反対が加えられてきたにもかかわらず、人々の心に宿った新しいいのちという現実を消すことは誰にもできなかった。これからもできない。新しいいのちの実体であるイエス・キリストが、いまも天に存在しておられ、同時に信仰者の心におられるからである。