「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。」(Ⅱテサロニケ3:1新改訳)
パウロは書簡の中で、しばしば「私たちのために祈ってください」と懇請している。彼はテサロニケの教会を産み出した人だから命じてもよかったが、そうしないで祈ってくださいと願った。理由は謙遜にあふれていただけでなく、祈ってもらうことがどんなに大切かを深く知っていたからであった。▼祈りは無力ではない。キリスト者たちが心をひとつにして天におられる大祭司キリストに懇願するとき、神の全能の力は現わされる。それは主ご自身が約束されたことだ。「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイ18:19同)▼パウロはその事実を日々体験していた。いのちが何十あっても足りないほど死の危険に満ちた宣教生涯、間一髪のところで危うく助け出された場面が何回あったろうか。ローマ各地の主にある兄弟たちが日夜、彼のため祈りの手を挙げていたからこそ、守られ続けたのであった。おなじように、私たちの地上生涯も、一人のようにみえて一人ではない。いつでも誰かがどこかで祈っていてくれるのである。それは人の意志もあるが、神がそのような祈祷の陣営を作って人材を配置し、囲んでくださっている、というのが真相なのだ。やがて天に行った時、私たちはあまりにも多くの人々が自分のために祈っていたことを知り、おどろくとともに、神の御名を心からほめたたえるにちがいない。