しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <私はあなたの次です>

2024-12-03 | ルツ記
「私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」(ルツ記4:4新改訳)

ボアズは昨夜のことを通し、ルツをどうしても欲しいと思ったであろう。しかし、彼はどこまでも神をおそれ、第一にする信仰者であった。すなわち、律法によればナオミの土地を買う権利は別人が持ち、その人を差し置いて行動することはゆるされなかったのだ。こうして判断は別人の気持ちにゆだねられたが、彼は途中であきらめ、ボアズに権利をゆずったのであった。▼ここにもすべてを支配し、運んでおられる神のみわざを認めることができる。私たちは、無理をしてでも自分の希望を押し通したい誘惑にかられることがある。しかしそこで一歩退き、すべての結果を全能者に手におまかせする謙遜と誠実さが必要なのだ。御名があがめられるために。▼「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」(ルツ記3:10~13、前夜にボアズが畑地でルツに約束した言葉)

朝の露 <ナオミの策>

2024-12-02 | ルツ記
「あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」(ルツ記3:4新改訳)

本章は神への敬虔人への誠実さに包まれている。とくにナオミの思慮深さは印象的だ。▼夜、若い娘が畑で休む男性に近づき、足もとをまくって寝るというのは、まかりまちがえば大きなまちがいに至るのは容易(ようい)に想像できよう。ましてルツは出自が淫蕩(いんとう)で有名なモアブ人だ。だが、嫁のルツと十年以上過ごし、その性格と信仰を知り抜いていたナオミは、信頼のうちに策を与えて送り出した。もう一つはボアズの人柄(ひとがら)もよく知っており、まちがいを犯すような者ではないことも見抜いていたからだろう。▼推測(すいそく)だが、ボアズがナオミ、エリメレクと同世代だとすればルツにとっては父親ほど年齢差(ねんれいさ)があることになる。若い者との再婚(さいこん)よりも、夫の家再興(いえさいこう)と信仰を第一にするモアブ出身の娘に、ボアズはひじょうな感動をおぼえたのであろう。こうしてダビデの系図が続くことになった。(このエッセイの前に、ぜひ3章全体を読んでほしい)

朝の露 <このはしための心に>

2024-11-28 | ルツ記
「彼女は言った。『ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。』」(ルツ記2:13新改訳)

ルツは思いがけなく、ナオミの親戚(しんせき)であるボアズの畑に入り、落穂(おちぼ)を拾うことになった。ここにも人の理解を超える神の導きを見出すことができる。▼彼女は謙遜であった。ボアズの好意にあまえることなく、私はあなたのはしための一人にも及びませんのに、と言いあらわし、しかもボアズがやさしくルツの「心の中に届く語りかけ」をしてくれたことに感謝している。風俗(ふうぞく)習慣のちがう異国の地で貧しい境遇に置かれた女性にとり、その言葉はどんなに嬉(うれ)しかったであろう。▼私たち異邦人キリスト者も、イスラエル人からみれば「野生種のオリーブ」が接ぎ木(つぎき)されたようなもの、心ぼそさを感じて当然の存在である。だが、イエス・キリストは「遠慮(えんりょ)せずに私のもとに来て、食事にあずかりなさい」と仰せられるのだ。その愛を深く受け止めたい。

           なにゆえ み神は
①何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど
②何ゆえみことば 信ぜしときに 安きを得たるか 知るを得ねど
③何ゆえ主イエスを 救い主と 信じ救われしか 知るを得ねど
④わが世の終わりに いかなること 待てるかは露も 知るを得ねど
⑤救い主イエスを いずれの日に 見たてまつるかは 知るを得ねど
(折返) わがより頼む主は ゆだねたる身と魂(たま)を
    守り得たもうと 確信するなり
                                                <新聖歌357 詞:Daniel W.Whittle.1840-1901 >

朝の露 <ナオミとルツ>

2024-11-27 | ルツ記
「ナオミは言った。『ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。』」(ルツ記1:15新改訳)

自分の民とその神々のところに、という言葉からわかるのは、当時の社会では民族神が中心にあり、人々はその信仰内で生活していた、ということである。つまりモアブにはモアブの神があり、ルツがそこから自由になるためには、イスラエルに移る必要があったのだ。▼たぶん彼女はナオミとの生活を通し、イスラエルの主こそまことの神にちがいない、との強い確信を抱いたと思う。それにしてもまったく見ず知らずのイスラエルに、貧しい二人のやもめが何のあてもなく帰ることは、あまりにも冒険的(ぼうけんてき)なことだった。記されていないが、ルツの友人、知人たちはひき止めたかもしれない。しかしルツの決心は固く、しかもそれは「イスラエルの神こそ本当の神」という純粋な信仰から出ていた。ただおひとり、天にいます父なる神は、ルツの信仰をごらんになり、おどろくべき将来を用意しておられたのであった。▼ところで士師記17章からルツ記までの物語には、ベツレヘムが関係している。この町(村といったほうがよいかもしれない)は、有名な王ダビデが出た所であり、のちに神の子イエス・キリストの誕生された場所でもある。そしてルツ記の美しいできごとに投影されているのは永遠の支配者キリストと異邦人から福音により選ばれるキリストのはなよめなのだ。おもえば士師記末期~ルツ記の時代は人間の罪深さと言う暗黒面と、その中にひときわ強く輝いた信仰の光の美しさの記録といえよう。

朝の露 ルツ記4章 <摂理のうちに>

2020-03-23 | ルツ記

キンセンカ

「するとその買い戻しの権利のある親類は言った。『私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。』」(ルツ記4:6新改訳)

律法によれば、土地所有者が子を残さずに死んだときは、親類のだれかが買い取り、その妻をも娶って子を得るべきであった。この場合、親類はエリメレクの畑を買い取り、嫁のルツによって子孫を設け、将来は畑と財産を一家に返還しなければならなかった。そうすればエリメレク家が後々まで続く。しかし相続のとき、生まれた子は親類の家とエリメレクの血筋にまたがるので、いろいろな問題の起きる可能性がある。買い戻しの権利のある親類はそれを心配し、辞退したのであろう。ボアズには何らかの理由で嫡子がいなかったのかもしれない。しかも彼は主を心からおそれる人物だったから、喜んで信仰の人ルツを迎えたのである。かくてボアズ家はルツとの間に生まれたオベデが継ぎ、やがてダビデ、ついにはマリアの夫ヨセフに至った。◆ここにはもうひとつ、神の恩寵の広さ、豊かさが輝いている。モアブ民族はロトが自分の娘との間にもうけた子孫であり、イスラエルに対する冷たい仕打ちのゆえに、神から呪われた民であった。しかもその偶像礼拝は有名だったのである。その民の中からルツが出て、メシアの家系に加えられたとは、いかに驚くべきことであったか。ルツ記はそれを語っている。すなわちどのような出自の人であれ、神を愛し敬い、ただ信仰によって従うなら、一切の呪いや不利益から救い出され、神の祝福の中に無代価で入れられると言う事実である。マタイの系図によれば、そこに記された四人の女性は本来なら祝福に遠い人ばかりであった。タマルは自分の舅ユダにより嫡子を設けたカナン人、ラハブは詛われた町エリコの出身、ルツはモアブ人、ウリヤの妻バテ・シェバは夫を殺され、殺したダビデの妻にさせられた人、本来であれば救い主の家系に入るのにふさわしくない人々ばかりである。◆だが、神はわざわざメシアの家系図にこの女性たちの名を特記するのを良しとされた。そこに輝くのは、「ただ一方的な恵みと憐れみによって」という神の栄光なのである。パウロとともに叫ぼうではないか。「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:6同)