主イエスが栄光に満ちて地上にお出でになると、世界中から偶像の神々が消し去られる。主を知る知識は大海のように全世界をおおうので、諸国の民に真の神への恐れと敬虔(けいけん)が生じ、人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝するようになるであろう。主の語られたとおりに。▼「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21~24、スカルの婦人に語られた主のことば)▼二一世紀の今日、偶像がすべてなくなったわけではないが、唯一の神とキリストを礼拝する人々は世界中に存在する。異国の島々のひとつ日本にさえ多くの教会が生まれ、聖日ごとに礼拝をささげているのは預言の成就といえよう。
「娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から、喜び踊れ。」(ゼパニヤ3:14新改訳)
シオンの娘よ喜べ、という呼びかけはイザヤ書やゼカリヤ書にも出て来るが、いずれもメシアの来臨と関係する箇所である。▼特にゼカリヤ書9:9は、イエスがろばの子に乗り、エルサレムに入られた日(棕梠の聖日)の預言として有名である。あの日たしかにエルサレムの人々は喜び歌って主を迎えたが、まもなく悲しみの金曜日となった。十字架刑が執行されたのだ。とはいえ、この預言はすたれたのではない。イエス・キリストが王の王として地上再臨されるとき、完全に成就することになる。患難時代の大いなる苦難を経て、生き残ったイスラエルの人々(12、13)は回心し、賛美と歓喜のうちに主を迎えるであろう。▼しかしなお幸いなのは、今の時代、御聖霊によって主を心にお迎えできた私たち、キリストの花嫁として選ばれた者たちである。もうすでに心の底から歓喜の生涯に入れられたのだから。◆それにしても、ゼパニヤが描く終末世界のありさまは、悲惨と喜びが織りなされる不思議な光景である。人口は戦争によって激減し、各国の都市は廃墟となり(6)、焦土そのものとなるであろう(8)、あの広島が一瞬のうちにそうなったように。それでも生き残った人々が存在する。それらの民はあらためてイエスこそ世界の王であることを知り、礼拝をささげるためにエルサレムに上って来る(9)。◆何よりも素晴らしいのは、イスラエルの人々が完全に砕かれ、回心し、心の底から主を信じ、喜び、かつてなかった平安を得ることである(17)。彼らは世界中から集められ、栄誉ある民族となり、主もまた彼らに今までの苦しみ、苦難を埋めてあまりある喜びと平和を与えられるにちがいない。こうして地上に神の国が出現する。自然界までもが癒され、沙漠に川がながれ、みどりの園と変えられることであろう。◆今の世界は、この望みがあるからこそ保たれている。被造物世界全体も絶望で瓦解しないのは、この望みゆえなのだ。「被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。」(ローマ8:20)◆そして、キリストの花嫁にも望みがある。だから心に忍耐が生まれる。「私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょう。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」(同24,25)
「これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の主の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。」(ゼパニヤ2:10新改訳)
8~11節はユダ王国に隣接していたモアブとアンモン人に対する刑罰の預言。▼モアブ人の高慢は諸国に有名だったらしい。イザヤは、「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ」(イザヤ16:6同)と言い、エレミヤも、「私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを」(エレミヤ48:29)とあきれている。今も周囲のひんしゅくをよそに、口を開けば自慢話をする者がいる。人々が心の中で眉をひそめているのも知らず、とうとうとしゃべる姿を見ていると、聖書にあるモアブ人はこういう姿をしていたのか思う。▼キリスト者は、高慢が悪魔の本質から発していることを肝に銘じなければならない。そして謙遜の徳をこよなく愛し、義と柔和に満たされることを熱心に求めるべきである。主の怒りの日にかくまわれるかもしれないから(3)。◆ところでモアブとアンモンの祖先はアブラハムの甥ロトである。アブラハムとロトの家畜が多くなり、いっしょにいることができず、両者は分かれることになった(創世記13章)。アブラハムはロトにゆずり、先に好きな土地を選ばせ、自分は後に回ったが、ロトはさっさと肥沃な地域を選んでそこに移動した。これは彼の自己中心と高慢、不敬虔がうかがえる態度であった。本来なら「とんでもない、おじさんこそ先に行くべきところを選んでください。私は甥ですから後になるのが当然です」と言うべきであったろう。◆しかしロトは肥沃な地域と町を選んだが、そこは悪徳の町々で有名なソドム、ゴモラがあった。そのため、ロトはやがてすべてを失う羽目になったのである。そして彼が自分の娘から生んだ民こそモアブとアンモンだったのだからおどろく(創世記19章)。ロトの子孫に脈々として流れる高慢という「遺伝子」、ここから自由になるには神への信仰に生きるしかない。そうしたのがモアブ人の貞女ルツであった。