しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <ペテロの変貌>

2025-02-09 | みことば静想
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。」(Ⅰペテロ1:8新改訳)

「使徒の働き」に出て来るペテロや、彼の書いた二通の手紙を読むと、福音書に記されたペテロとは別人のような感じがする。主イエスのゲッセマネから十字架に至るあいだの彼は、女中の言葉におびえ、だれが一番弟子かで争い、ここぞという場面では寝てしまうというていたらくであった。▼その彼が、ペンテコステ以後は一変し、議会に呼び出されても恐れず、堂々と弁明し、明日は死刑になるというのに、牢獄では熟睡しており、御使いに起こされたのである。▼この姿から教えられるのは、聖霊に満たされることのすばらしさであり、復活信仰の力強さである。三日前に死んで墓に葬られた主が、目の前に立ち、そのからだに触れ、話をし、食事を共にしたことは、弟子たちにあった死の恐れを完全に吹き払ってしまった。▼いわば、天において神の右に座した主イエスと、地を歩むペテロが相呼応(あいこおう)し、一つになって行動しているようにされたわけである。天と地が一つになった世界、キリスト者の歩みとはそこに生きることなのだと教えられる。

聖日の朝に <沈黙という罪>

2025-02-02 | みことば静想
「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。」(エステル4:14新改訳)

奸臣(かんしん)ハマンの計略により、ユダヤ人絶滅計画が立てられた時、エステルは王妃(おうひ)であった。自分がユダヤ人であることを黙(だま)っていれば、彼女はただひとり王宮で助かっていたかもしれない。しかしそれではいけない、神があなたに何を求めているかを考えなければならない、と養父(ようふ)モルデカイは諭(さと)した。その結果、エステルは文字通り自分のいのちをかけ、王に近づき、同族のため命乞い(いのちごい)をしたのであった。▼時と場合により、沈黙(ちんもく)は大きな罪になる。それは自己愛の最も卑怯(ひきょう)な現れとなって、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を生むかもしれない。主イエスがゲッセマネからゴルゴタへ進まれたとき、弟子たちをはじめすべての人々が沈黙し、見捨ててしまった。いっしょに十字架につこうと名乗り出る者は一人もいなかったのである。▼ああ私たち人間はなんと卑怯で罪深い存在なのであろう!恥ずかしさにふるえ、涙にむせびつつ刑場を去り、暗がりの中でひれ伏すことがほんとうの礼拝ではないだろうか。「召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。『この人はあの人たちの仲間です。』すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。』するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』と言った。すると鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして(外に出て行って・・・マタイとルカにはこの語がある)彼は泣き崩れた。」(マルコ14:69~72同)

聖日の朝に <イスカリオテのユダ>

2025-01-12 | みことば静想
「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(ヨハネ12:6新改訳)

イスカリオテ・ユダを見て思うのは、常習的に金銭を盗むことのもたらす結果の怖さである。▼主イエスと12弟子たち一行の金入れを預かるうち、欲望を抑えきれなくなり、少しずつ自分のふところに公金を入れていたのであろう。彼は主のなされる多くの奇蹟や不思議を目の当たりにしながら、罪のため心が曇り、神をおそれる敬虔さがなくなっていった。そしてとうとう悪魔の誘惑にはまり、主を敵に売り渡すという永遠の大罪を犯すに至った。▼「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」(ヨハネ13:2同)とあるように、最期は完全につかまったのである。「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。」(ヨハネ13:27同)▼こうしてユダは、いわば、サタンに心を羽交い絞め(はがいじめ)にされた。それは恐ろしい光景であった。いのちの君を十字架に渡すため、実行役とされた彼はたとえようもない力で悪魔の設けた道を走り、目がさめたときはすでに遅かったのである。▼人はウソをついたり、だましたりすることの重大性を深く考えようとしない。しかしどんなささいなウソでも、だましでも、闇の支配者、悪魔に淵源性(えんげんせい)をもっている。だから、ついには思っても見なかった結果をもたらすのであり、気づいたときはすでに遅かったということになる。ユダは三年半の生活で、主イエスの絶対的正しさをよく知っていた。だから自分の計略で祭司長らに逮捕されても、侮辱されたぐらいで釈放されると予想していたにちがいない。彼は見えない悪魔の恐ろしさを知らなかったのだ。▼ああしかし、悪魔はイエスを死刑に定めるのに成功したとき、あとは用がないといわんばかり、ユダを放り出し、ユダは我にかえった。そのとき彼ははじめて悟ったのであった。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」(マタイ27:4同)と。もちろんユダヤ人たちもユダを相手にしない。結局彼は首をつって自殺した。こうして彼は永遠の滅びに落ちていったのである。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(Ⅰテモテ6:10同)

聖日の朝に <山に向かって>

2025-01-05 | みことば静想
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1新改訳)

私たちの生涯には、時として解決不可能な問題、絶望とも思える困難が立ちはだかる場合がある。そのような時、どうすればよいのだろうか?▼ここで詩人は「山に向かって目をあげよ」と勧める。私の住む所には、すぐそばにI川がゆったり流れ、700m級のM山がある。私は散歩しながら、ときどき立ち止まっては川沿いの道から山を仰ぐと、なぜか心が落ち着くのである。Ⅿ山は富士山やアルプス連山から見れば、じつに小さな山で、山のうちに入らないかもしれない。▼だが、そんな山でも、人間には造れないだろうな、と思う。仮にブルドーザー何千台で土を積み上げても、ものすごい工期と手間がかかるだろうし、千年以上崩れないで形を保つことはおよそ不可能だ。Ⅿ山には無数の木々が生え、四季折々の山姿は見飽きることがない。その上、数知れぬ動物、鳥類、小さな生き物まで生息し、暮らしている。私はそう思いながら山を眺めると、天地を造り、今も保っておられる創造主のはかりしれない偉大さを思わずにいられないのである。▼天の父と呼ばれるこの創造主が、小さな小さな私にもいつくしみのまなざしを注ぎ、日々守っておられる事実は、なんとすばらしい平安であろう。そう考えるだけで、ふしぎにも、目の前の困難がいつのまにか消え去って行く。川沿いの道を歩きながら、私は最初の聖句を知らず知らずにくり返すのである。すると、続いて詩篇のことばが浮かんでくる。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:2,3同)▼願わくは、今日一日の歩みに、平安と安心、喜びと確信の実が豊かに結ばれますように。

聖日の朝に <王の王、主の主>

2024-12-29 | みことば静想
「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15~16新改訳)

パウロはダマスコへの途上で、天にいます神の光に接した。その栄光にほんの少しふれただけで地に倒れ、盲目となり、他人に手を引かれながらようやく町にたどり着いたのであった。そのときの経験がこのみことばにあらわれている。▼神のお姿を人間は絶対に見ることはできない。その周囲に放射されている虹のような輝きにわずかにふれることがゆるされるだけである。しかしイエス・キリストはその父のふところ深くに住んでおられる方だ。なんという神妙不可思議な両者の関係なのだろう。このキリストが人間となって地上に来られたという受肉の事実になると、もはや私たちの知識や頭脳ではとても理解できない奥義の世界といってよい。▼第三位の神・御聖霊だけが御父と御子の関係、交わりの深さを知りつくしておられる。そして私たちにそれを解き明かし、いのちの中に入れてくださるのである。