「あなた方自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」(Ⅰペテロ2:5新改訳)
ペテロの心に示されていたのは、やがて姿を現わす永遠の都エルサレムではなかったろうか。おなじ使徒であるヨハネの描写によれば、それは輝く宝石でできていたが(黙示録二一章)、硬い石ではなく、キリストのはなよめという生ける宝石であった。▼たぶん天のエルサレムとは、すべての時代のはなよめたちの生涯と行い、献身と愛のわざが美しい宝石となって結合した都だと思われる。なぜなら、その行いは結局のところ、内住の御霊によって成し遂げられたものであるから、聖霊ご自身の美であり、輝きなのである。その上、都は神殿そのものでもあり、御父と御子が中心にお住まいになっておられるものだ。だからこそ、そこに住まいする彼女たちは同時に永遠の祭司なのである。「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(黙22:3,4同)▼さらに驚くことは、このエルサレムの造営は私たちが生きている現在の地上でなされているのだ。キリスト者の生涯自体が、神殿の実質だとは、あまりにふしぎで信じられないようだが、事実だと私はおもう。たとえばその土台石には主の十二弟子の名が刻まれている。つまり一つには当然ペテロの名もあるに相違ない。それが生ける石であるということは、つまり彼の地上生涯そのものが土台石となっているわけである。このように私たちが毎日ささげる祈りと賛美、感謝と奉仕はすべて祭司のささげものとなってこの都の中心におられる神と子羊の御前を飾る。そのことを思えば、毎日の信仰生活はかぎりない喜びに満たされるではないか。
ペテロについていえば、彼の生涯には多くの失敗もあやまちもあった。主を三度もうらぎった涙の光景もある。もちろん、すばらしい証しのわざもあった。しかしそれらすべてが活ける石として天のエルサレムを飾る宝石になる。▼彼の地上における生涯の一部分だけが宝石ではなく、全部の全部がかがやく土台石であるにちがいない。なぜなら、とてつもない神の恩寵の栄光が光となって都全体を包んでしまうからである。私たちもまた、そのような存在として組み込まれて光を放つ存在になるのだ。だから自らの地上における歩みを決して恥じることなく、弱さも不十分さも、みな主の御手にゆだねながら感謝と賛美に満ちて走り通したいと願うのである。
「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Ⅰペテロ1:13新改訳)
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みとは、言い換えれば、再臨のときに信仰者たちが復活、栄化されることを指している。私たちにとり、これはどんなことにもまさって素晴らしい恵みである。なぜなら、キリストがお出でになったとき、永遠に滅びない復活世界が開始され、そこに入れられる者たちが決定するからである。たとえ今の世でどんなに繁栄して豊かに生きていても、福音を信じて生まれ変わり、御霊と共にきよい生活をしていなければ、御国の門から締め出されるであろう。そこで泣き叫んでも、入る機会は二度と永遠に来ない。使徒パウロもその日を最大の目標にしていた。「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10,11同)▼キリスト者は主の日に起きることをいつも心にとめ、世の快楽や罪深い生き方と決別し、敬虔な再臨待望生活につとめるべきである。
ペテロはここで特徴あることばを用いた。「また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。」(Ⅰペテロ1:17)▼寄留者の特徴は、ある地に住んでいても、一種の「疎外感」を常に抱いていることにある。つまり自分はこの地の者ではなく、別の目的地に向かっている者だ、との感覚をおぼえながら暮らしているのだ。この疎外感は価値観の違いや、生活すべての面においてキリスト者の人格を特徴づけずにおかないものである。そしてそれがまた、非寄留者には違和感を与え、時によっては反発を醸し出す動機になるものでもある。▼しかしペテロはそれを恐れていてはならない、と強調する。なぜなら私たちは、やがて全世界を審判される正義の神の御前に立たなければならないことを知り、その日に備えるために私たちのところに来られたお方・御聖霊とともに歩んでいるからであると‥。そして寄留者として聖なる生活をするところから生じる緊張、摩擦、軋轢、対立の意識こそ、じつは神が教会に期待しておられるものにほかならない。神の国の宣教とはそこから湧き出るメッセージだからであり、世の救いのためにぜひとも必要とされる「鳴り響く鐘の音」だからである。