しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ペテロの一生>

2025-04-04 | 1ペテロ書
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10新改訳)

ペテロのこの激励文(げきれいぶん)には、自分自身の回想がこめられている。▼彼は漁師をしていたとき、恵みにより、十二弟子のひとりとして召された。主は彼にペテロ(岩)という名前を与え、その上に教会を建てると言われたのであった。最初は、ゲッセマネでつまずき、失敗して涙と苦しみの中を通った彼だったが、ペンテコステの聖霊傾注(せいれいけいちゅう)により信仰を回復し、やがて不動の岩として初代教会を指導する者になっていった。▼彼の生涯ほど人の弱さと情熱の強さ、ひたむきな神への愛を率直(そっちょく)にあらわしているものはない。多くの失敗と挫折(ざせつ)をくりかえしながら、次第に成長し、大指導者になっていったペテロ、しかしそれはすべて恵みに満ちた神の一方的な働きかけによったのであった。すなわち、ペテロ自身の功績によるものではなく、百パーセント神の恵みだったのである。▼おもえば、どんなに美しい宝石でも自分で輝くことはできない。永遠の都エルサレムのおどろきに満ちた美しさ(黙示録20~22章)が描かれているが、もしその都の内に三位一体の神がお住まいになられなかったら、真っ暗で何も見えないであろう。教会はペテロを初めとして、すべてがこれと同じである。私たち信仰者は、今もこれからも、「ただ永遠の恵みという光源」があればこそ、光を放つことができる、という事実を心にきざみつけたい。


朝の露 <燃えさかる試練>

2025-03-29 | 1ペテロ書
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」(Ⅰペテロ4:12新改訳)

ヘロデ・アグリッパ王はエルサレムにできた教会に迫害の手を伸ばし、使徒ヤコブを剣で殺した(使徒12章)。これはユダヤ人以外の支配者から加えられた最初の攻撃であった。▼それに続き、ペテロが捕らえられ、死刑の決定がなされたが、エルサレム教会を抹殺(まっさつ)しようとする本格的な攻撃の火ぶたがきられたわけで、信徒たちの緊張(きんちょう)と覚悟(かくご)は最高潮(さいこうちょう)に達したと思われる。ここでペテロが「燃えさかる試練」と記しているのは、その事件を指したのではないだろうか。たぶん彼は自分の死を予想しており、平安のうちに獄中で過ごしていた(使徒12:6,7)。▼明日、刑が執行されるというのに熟睡していた彼の様子に、天的平安のすばらしさを見る。
私たちにも思わぬとき、思わぬ方法で試練がおそいかかることがあるかもしれない。しかしあわてふためいてはいけない。主の助けはまちがいなく与えられるのだから。

朝の露 <最後に言います>

2025-03-28 | 1ペテロ書
「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙遜でありなさい。」(Ⅰぺテロ3:8新改訳)

一つ思い、同情、兄弟愛、柔和、謙遜、これらはすべて御霊がキリスト者に結ばせる実である。ペテロはただ並べているのではなく、あのペンテコステのとき実際にその成就を見たのであった。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。」(使徒2:44~47同)▼実にペテロはその中心的指導者として、御霊に満たされた最初の教会の美しい姿を日々目撃し、体験していた。その彼が上記の勧めを記したと思うと、感慨深い。したがって、現代の教会が世に対して、福音の強い説得力を持つのは、私たちの集まりが、実際に聖霊によるこれらの徳性を持ち、それに生きることに尽きよう。それなしには、世の人々が教会に来て交わりに加わっても、神の愛を絵に書いた餅として見るだけにとどまるのはたしかだ。

朝の露 <不当な苦しみ>

2025-03-22 | 1ペテロ書
「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。」(Ⅰペテロ2:19新改訳)

ローマ帝国時代の遺跡としてカタコンベが残っているが、何層にもわたり、掘り下げられた地下墓所の様子と、その中で遺骸に囲まれつつ礼拝を守ったキリスト者たちを想像して胸をうたれる。暗黒、死の空気、明日をも知れない自分のいのちを思いながら、兄弟たちは粗末な物を分け合って食べ、やがて来る御国のすばらしさを想像して聖餐式を守ったのであった。彼らが抱いていた信仰が、聖霊による生命的なものでなかったら、初代キリスト者たちはその悲しみを喜びに変えることは絶対に不可能であった。▼このような信仰の苦しみは二一世紀も世界の多くの場所で続いており、殉教者たちは今なお生まれている。「この人たちは大きな患難を経て来た人たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(黙示録7:14同)▼もし今、私たちが天に上れば、彼らの数の多さを見ておどろくであろう。

朝の露 <永遠の資産>

2025-03-21 | 1ペテロ書
「また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」(Ⅰペテロ1:4新改訳)

朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産とは、具体的にいえば復活による新しい世界、新天新地と永遠の都・エルサレムのこと。▼使徒ヨハネがおどろきのうちに見た永遠の都エルサレム、新創造された天と地、それらの持つ栄光と価値は途方(とほう)もないものであった。今の私たちにはどんな言葉や表現を使っても、わかるように説明するのは不可能に近いであろう。ヨハネは黙示録で宝石や貴金属(ききんぞく)にたとえているが、それはこの世で最高に価値あるものがほかにないから、それらを用いたのであった。▼もし私たちが実際に自分の目でながめたら、想像していた栄光など問題にならないことがわかり、卒倒(そっとう)するだろう。シェバの女王の言葉を思い出す。「私は自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、なんと、私にはあなたの知恵のすばらしさを半分も知らされていなかったのです。」(Ⅱ歴代9:6同)