「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ『主がおまえをとがめてくださるように』と言いました。」(ユダ書9新改訳)
モーセが死んだ時のことについて、「主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない」(申命記34:6同)と記されている。▼たぶん埋葬に関わったのは天使ミカエルであり、悪魔はそれを妨害しようとしたのだろう。なぜなら、モーセの墓を作れば、それは一大聖地となり、世界中の人々が参集する場所になる可能性があったからだ。悪魔はそれをねらったにちがいない。偶像礼拝という「人間の持つ最大の罪深さ」は今も続いている。いったい、世界でどれだけの死者とその遺物が拝まれているか想像もつかない。敵は人間をたくみに唯一の神からそらし、自分自身を崇めさせようと画策している。教会とキリスト者は、御霊による知恵を満たして頂き、敵に打ち勝たねばならない。◆ユダ書が記された動機は、「にせクリスチャンたちが教会の中に入って来て、真の信仰者を攻撃し出した」ということであった。にせ者の特徴は何といっても「御霊を持っていない」(19)ことである。そこから教会の秩序に対する反抗、ひそかに金銭を愛すること、淫行と肉欲的な生き方を許容すること、などが幅をきかせるようになっていく。◆そこで私たちは、再臨の近いことを思い、もう一度自分自身を振り返る必要がある。はたして私は本当に救われ、聖霊を内に宿しているであろうか?と。さらにこのお方を宿しただけでなく、日々御霊とともに歩んでいるであろうか?と。そして、今夜終わりのラッパが鳴り響き、世界の終わりが宣言されるようなことがあっても、驚くどころか、かえって歓喜にあふれ、主の現れを迎えられるであろうか?と。これらのことを、静かにまじめに自らに質問してみるべきである。使徒ヨハネは言う、「ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全き者となっていないのです」(Ⅰヨハネ4:17,18同)と。
「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲(背倫の肉慾:文語訳)を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」(7新改訳)
不自然な肉欲の典型は同性愛で、アブラハムの時代(といえば、BC2,000年頃)から行われていた。▼21世紀の今日、性の解放を唱える運動が世界的に盛んになり、同性愛どころか、ありとあらゆる不自然な肉欲の行為が公然と行われるようになっている。神は性というすばらしい祝福を人にお与えになったが、同時にそれは正しい結婚により維持されるべきものと定められた。もちろん、正しい結婚とは一人の男と一人の女が互いに愛し合って作りあげるものである。「それゆえ男(単数)はその父母を離れ、妻(単数)と結び合い、ふたりは一体(一つの肉・英語訳)となるのである。」(創世記2:24同)▼この偉大な戒めを守らず、破るところから、男女のあらゆる不幸が発生するといっても過言ではない。しかもそれはただの不幸にとどまらず、永遠の刑罰につながっていく。◆明治から大正期に活躍した著名な作家にA氏がいる。彼は洗礼まで受けたが、後に信仰を捨てた。人生問題に悩み、肉の誘惑に煩悶しながらもその虜(とりこ)となり、最後は箱根別荘で他人の妻と心中した。「愛がこれほど甘美なもの、愛の前に死がこれほど無力なものとは知らなかった」という意味の遺書を残し、45歳で死んだのである。発見されたときの状態は悲惨で、蛆が建物の外まで這いまわり、見るに堪えない腐乱状態だったという。生きることに悩み、疲れ果てた結果と思えなくもないが、背倫の肉慾に走った事実は否めない。悪魔は永遠の後悔と滅亡への道を巧みに覆い隠し、たまらなく美味しい果実のように見せかける天才である。欺かれてはならない。◆◆しかし、私はここまで書いてくると、ある反論を思い出す。キリスト者で文学批評家のM兄が言われたことが今も耳朶に残っているのだ。A氏をはじめ、自ら命を絶った日本の文学者たちは、みな真面目であった。それゆえに、人が持つ罪性に人一倍苦しんだのである。◆むしろ彼らに、本当の福音を、はたして教会は与えたのか?という問いかけを受けるべきではないのか、と。肉欲、煩悩がどれほど甘美なものであろうと、キリスト・イエスを知ることは、それらにはるかに勝るものにちがいない。神の聖なる愛は宇宙を満たしてなお余りあるものだ。人間の情愛がいかに深いといっても、神の愛に比べれば太陽の前のろうそくにも及ばないであろう。◆教会はその真実を「絵に描いた餅」でなく、事実とし提供してきたのであろうか。文学者Aを切って捨てる前に、私たちこそ、神の前に跪くべきではないだろうか?と。
「あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。」(5)
ユダが主張するのは、洗礼を受けて教会に加えられた人たちが、百パーセント御国に入るわけではない、ということ。▼エジプトの地から救い出されたイスラエルの民は、ほとんどが荒野で死に絶え、約束の地に入れたのは、出エジプト当時20歳以下の人々だった。
ちょうどそのように、キリストが再臨されるとき携挙されるのは、聖霊により、たしかに生まれかわって聖潔の中を歩んでいる者だけで、あとは取り残されるのだ。恐ろしいことだが事実である、とユダは宣言する。
その日の厳粛さを心にきざみ、私たちはキリストのはなよめとして、信仰の貞節を守りながら日々歩むべきである。そうすれば、終わりの日、大きな喜びをもって栄光の御前に立つことがゆるされるにちがいない。