しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <信仰の戦いを立派に>

2024-12-14 | Ⅰテモテ
「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。」(Ⅰテモテ6:12新改訳)

テモテは故郷デルベで使徒パウロの弟子として生涯をささげたとき、多くの信徒たちを前に献身の誓いを言いあらわし、感動した人々の按手(あんしゅ)を受けて出発したのであろう。それから多くの年月が過ぎ、今ここでパウロはそのときを思い起こし、どこまでもその誓いどおりの宣教生涯を送るよう、はげましている。▼「テモテよ、我らの主イエスも、十字架につけられるとき、ローマ総督ピラトの前で、『わたしはあなたが言うとおりの者である』と告白し、従容(しょうよう)として万民のそなえものになって行かれた。そのイエス・キリストが王として再臨される日が近づいている。だからあなたは最後まで、非難されることのない信仰を保ち、私が与えた命令を守りなさい。特に富裕層(ふゆうそう)には『惜しみなくほどこし、喜んで分け与える』よう命じなさい。永遠に存続するものは神の愛だけなのだから。」

朝の露 <やもめと教会>

2024-12-13 | Ⅰテモテ
「ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。」(Ⅰテモテ5:14新改訳)

初代教会はすでに、生活手段を持たないやもめを経済的に支えることを義務としていた。現在のわが国には公的年金制度があるが、当時は教会が主の「互いに相愛せよ」という教えをいち早く実践していたのである。▼パウロはそれを認めつつも、やもめはなるべく再婚するか、それぞれ家族の世話を受けることが望ましいという。というのは、そうすることが教会の経済的負担を少なくし、そのぶん、本当に困窮(こんきゅう)しているやもめを助けることができるからだと説明する。▼現在は女性でも就業(しゅうぎょう)の機会は多くあるが、当時は考えられないことであった。この点において教会がうるわしい助け合いの精神を実行していけば、世に対して大きな宣教のチャレンジになるであろう。使徒の最終的願いは、教会があらゆる機会をとらえ、キリストの愛がただの教えでなく、生きた信仰の実践(じっせん)であることを証ししていくことにあったのだから。▼「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」(ヤコブ2:24~26同)

朝の露 <新しい律法主義>

2024-12-07 | Ⅰテモテ
「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。」(Ⅰテモテ4:3新改訳)

今日、化学物質による汚染が食物におよび、同時に分析技術やその他の知見が進んだことにより、あれは食べてはいけない、これは危険な物質が含まれているから警戒せよ、とかいう情報が洪水のようにあふれている。健康情報が私たちの身の回りに満ち、人々はふりまわされて右往左往している。まるで「新しい律法が世界を支配している」といってよいかもしれない。▼だがパウロは食物に関し、「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」(4同)と断言する。キリスト者は神経質にならないで、どんなものでも感謝し、神の名において喜びつつ食事をするべきだ、と私は思う。もちろん暴飲暴食はいけないし、節制や断食をすることも大切なのはいうまでもない。▼そして使徒は「神のことばと祈りによって、(すべてのたべものは)聖なるものとされるからです」(5同)と結論する。一同がテーブルに着いたとき、主の御名によって感謝祈祷をささげることは、その意味で非常に大切である。聖餐式だけではなく、食前祈祷は、たんなる「お飾り」ではない。私たちの口に入るあらゆる物を、御名によって聖なる物とし、無害な物に変え、神殿であるからだを養い育て、維持する神の祝福の現れなのである。

朝の露 <執事職の審査>

2024-12-06 | Ⅰテモテ
「この人たちも、まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事として仕えさせなさい。」(Ⅰテモテ3:10新改訳)

パウロはここで、教会の監督と執事たちを選ぶときの注意点をテモテに教える。使徒たちは世界宣教にたずさわっていたので、一か所に定住することはできなかった。そのため、あたらしく生まれた教会を牧会指導していくための監督や執事たちを選んで任命する必要があったわけである。▼ここで目立っていることがいくつもあるが、その中に「自分の家庭をよく治めている」(4、12)という条件があげられていることに注意したい。そしてパウロは、「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか」(5)とも言う。▼現代は個人の尊厳が重んじられる一方、家族の結び着きがともすれば軽視されやすい風潮を生んだ。つまり権威主義を極端に嫌う生き方であり、これが家庭の秩序を弱めているという指摘がある。これを正しい姿に戻すのは、神とキリストへの敬虔な信仰に親子が共に生きることに尽きよう。それを実証しているキリスト者が監督、執事としてふさわしいとパウロは言うのである。わが国では4代、5代と続いている信仰家庭はめずらしいが、ないわけではない。貴重なそれらの家庭を模範にしながら、ほんとうの家族形成に努めさせていただこう。

朝の露 <敬虔と品位>

2024-11-30 | Ⅰテモテ
「それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(Ⅱテモテ2:2,3新改訳)

テモテをエペソに残して来たパウロであったが、そこで二人が味わったのはきびしい迫害と騒乱(そうらん)であり、生命の危険にも及ぶものだった。偶像礼拝者たちは劇場に集まり、使徒たちを血祭(ちまつり)にあげようとくわだてたからだ(使徒19章)。▼しかし不思議にもそれを静めたのは、キリスト者ではなく、町の書記官であった。彼はパウロたちがいかに立派で紳士的(しんしてき)であり、品位ある人物かを論証し、群衆を冷静にさせた。その背景にあったのは、ふだんからパウロが聖書をもとに正義と節制を説き、誰からも非難されない正しい生活をしていたからである。▼「パウロの友人でアジア州の高官であった人たちも、パウロに使いを送り、劇場に入って行かないようにと懇願(こんがん)した」(使徒19:31同)とあることを見ても、宣教チームの評判がどんなに良いものであったかが知られる。