「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。」(コロサイ4:16新改訳)
当時(一世紀半ば)すでに、各地の教会にパウロの手紙が回覧され、大切な指導書として礼拝などで朗読されていたことがうかがえる。また使徒ペテロやヤコブ、マタイやルカの記した書簡も各教会で読まれ、複製され保存されたのであろう。加えて多数の筆になる聖文書らしき物も出回っていたにちがいない。やがて教会はそれら書物群から、真に霊感されたものを注意深く選び、新約聖書としてまとめたのであった。▼こうして使徒やその周辺の人たちが御霊に導かれて記した二七の書物が以後の二千年にわたるキリスト教歴史を支えたことは、不思議であり偉大な神のみわざとしかいえない。今日、私たちが福音の何たるかを悟り、主にある教会を形づくり、キリスト再臨の時まで歩む力の源として聖書を手にしているということは、神の測り知れない救いの御計画と、歴史の中に働く御聖霊によっているのである。
この章のあいさつの中にデマスの名が記されている。「愛する医者のルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(14)▼牢獄でくさりにつながれているパウロの世話をしていた医者ルカと弟子のデマス、二人はパウロにとり、大きな慰めとなっていた。まもなく裁判で使徒は無罪になり、釈放され、ふたたび宣教を開始したが、再び捕らえられ、獄に入れられた。二度目の裁判では釈放されずに死刑判決を受け、殉教したと伝えられている。二度目の獄にあって彼が絶筆として記したのがⅡテモテで、コロサイ書を記してから5年ぐらいは経っていたらしい。▼そこで、ルカとデマスの運命は分かれた。なぜならパウロが次のように記しているからだ。「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。ルカだけが私とともにいます。」(Ⅱテモテ4:10,11同)▼釈放された師のパウロが再び捕らえられ、今度は助からないようだ、そういう思いがデマスの心をゆさぶったのであろうか。困難に耐え、先生に仕えてよく働いて来たデマスは最後に信仰が弱まり、同時に一般社会の豊かさに郷愁と魅力を感じて、パウロのもとを去って行った。使徒の寂しさと孤独はいかばかりであったろう。しかしルカは去らなかった。幾ばくも無い地上のひと時を過ごすパウロの世話をし続け、たぶん医者としてのいたわりをもって務めを果たしたのである。ルカとデマス、両者はあの十字架上の二人のように対称的な生き方を私たちに見せてくれる。▼キリスト者の信仰生涯はマラソン競争に似て、途中をどんなに良く走っても、最後のゴールでテープを切らないと、すべてが水泡に帰してしまう。思えば、なんと多くの人たちが途中で走ることをやめ、横道にそれて行くことであろう。▼なぜかルカとデマスの名はパウロの手紙の中、3回ともいっしょに出て来る(コロサイ4:14、ピレモン24、Ⅱテモテ4:11)。そしてデマスは最後にこの世に戻り、消えて行ったが、ルカの名はルカによる福音書と使徒の働きの著者として今日まで言い伝えられることになった。
「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4新改訳)
使徒ヨハネは御使いから「あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」(黙示録21:9同)と言われた。彼が見ていると、夫のために飾られた花嫁のように整えられた聖都エルサレムが、天から降って来たではないか。その美しさと荘厳さに、彼は息も止まるばかり驚いたのではなかろうか。▼今の私たちは、その都こそキリストと共に現れた教会、すなわち自分自身もそこにいるのだ、と言われても信じられないであろう。だがまさしくそのとおりなのだ。パウロはコロサイの信徒たちに、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(コロサイ3:3同)と書いたが、それはこの新エルサレムが心にあったからであろう。その美しさ、尊さは御父だけがご存じであり、今は誰にもわからない。私たちはヨハネの筆から想像するだけだ。ともあれ、キリスト者なら幸福感で胸がいっぱいになるのは皆おなじであろう。
新しい世界に生きる信仰者の姿を垣間見せてくれるのは、あの変貌山で起きたことであろう。よほど印象的だったと見え、共観福音書すべてが記している。▼あるとき主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れ、祈るために(ルカ9:28)、高い山(マタイ17:1)に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わって太陽のように輝き、衣は白く光りのように輝き、その白さは世の「さらし職人」にはとてもできないほどの白さであった。さらに驚いたことに、そこにモーセ(約1400年前の人)とエリヤ(約800年前の人)が出現し、主とおなじ栄光の姿をしていて、三者が語り合っているではないか。その話の内容は、これから主がエルサレムで迎える御最後(つまり十字架のできごと)であった。▼ペテロは思わず「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(マタイ17:4同)と言った。これは何を言っていいのかわからなかったペテロが思わず口走ったのだ。しかしわかるのは、三弟子が目撃した光景は幻や夢でなく、目の前の現実、リアルそのものだったということだ。じつに私たちが入る神の国はこのような現実の世界である。なんと喜ばしい未来であろうか。そして旧約時代を代表する二人の聖徒が熱心にイエスと話していたのは十字架に関することであった。キリストのあがないのみわざこそ過去現在未来の出来事の中心そのものということが、ここからも知られる。▼「また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』」(黙示録5:11,12同)