「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」(ハガイ2:3新改訳)
聖地に帰還した人々の中には、70年前のソロモン神殿を見た人々もいた。今や高齢者となった彼らの目に映ったのは、荒れ果てた神殿境内、焼け焦げた石のみであった。神殿再建のため土台石が据えられたとき、あまりのみすぼらしさに彼らは泣いたが、その気持ちがわかる(エズラ3:12同)。▼しかし泣いてばかりはいられない。いかに粗末であっても前を向いて進まなければならない時が来ていた。宮を建てれば、礼拝儀式が復興する。それは信仰の復興につながり、ユダヤ民族がもう一度、信仰の共同体としてスタートできるのだ。かくて神との契約が確立し、ダビデの子孫としてお出でになるキリストを迎える準備が整うのである。このときから約500年後、幼子イエスがヨセフ夫妻に携えられ、この宮に来られたのであった。◆神殿の価値は大きさや豪華さにあるのではない。人となって来られたイエス・キリストがそこにおられる、という真臨在の事実にある。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19同)と主が言われたとき、ユダヤ人たちは笑い、軽蔑(けいべつ)した。彼等には豪華そのもののヘロデ神殿しか目に入らなかったのである。私たちが霊的盲目の状態にあるとき、罪を負い、みすぼらしいナザレ人としておいでになった神の子の謙卑の御姿は見えない。◆その御謙遜が天地宇宙を照らし、そこを満たし、御使いや被造物が賛美している事実がまったく見えないのである。科学者たちが高性能の望遠鏡で100億光年の彼方まで一生懸命ながめても、暗黒、ガス星雲、岩と塵でできた星、真空空間しか見えないのと似ている。が、自分自身の高ぶりに気がつき、恥じてひざまづき、悔い改めの姿勢をとるとき、イエスが輝くお方であることに目が開かれる。そして礼拝者としての生が始まるのである。◆帰還したユダヤ人たちは、再建した神殿があまりにも粗末なことに泣いた。しかしナザレのイエスはさらにみすぼらしいお方である。人の罪をお受けになり、ほふられる羔となられたからだ。
「そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。『わたしは、あなたがたとともにいる。―主の御告げ―。』」(ハガイ1:13新改訳)
バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは神殿を再建すべく工事を始めたが、現地人たちが妨害し、工事は中止のやむなきに至った(エズラ記四章)。周囲の反対があまりにも強かったので、ユダヤ人たちの信仰は萎縮し、「主の宮を建てる時はまだ来ないのだ」と工事を休んでしまった。それから約15年、預言者ハガイが立ち上がって「工事を再開せよ」と民を激励したのが本書である。▼帰還者たちにとり、たしかに状況はきびしかった。だが、異邦人の中で細々と暮らしていればいつかは呑み込まれ、神の民としての旗印は消滅してしまう。神殿を再建し、信仰の旗を高く掲げよ、神は私たちと共におられるではないか、とハガイは預言したのであった。▼日本の教会も、状況はよく似ている。不信仰と偶像文化の大海に浮かぶ小島のように、私たちは細々と信仰生活を続けて行かなければならない。長いものに巻かれよとばかり、妥協すればどんなに楽か、という誘惑が常にある。しかし私たちの地上でのあり方には「永遠」がかかっていることを忘れるべきではない。聖書は孤独の中で信仰の戦いをつらぬいた人々を目の前に見せてくれる。アブラハム、モーセ、ダビデ、王国時代の預言者たち、新約でいえば洗礼者ヨハネ、使徒パウロなどがその筆頭であろう。だが私たちの主イエスほど孤独であられたお方がいるだろうか。じつに御国に至る道は細く、孤独の道だ。だがそのような中で、ハガイを通して語られた神は私たちにも「わたしは、あなたがたとともにいる」と語られる。そして天からの力をくださる。▼あのゲッセマネで主が血の汗を流しつつ祈られたときも、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」(ルカ22:43同)。神は必ず必要な力を時に応じ与えられる。心配は無用である。「主が、・・・民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。」(ハガイ1:14同)