「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:18新改訳)
エペソ書を記したとき、パウロはローマの獄中で鎖につながれた日々を送っていたと思われる。それは不自由で苦しく、言葉にあらわせないつらさも伴っていた。▼彼にできることは祈りととりなしであった。来る日も来る日も、自分が巡回して回った諸教会の様子、信徒たちの顔を思い浮かべながら祈りに打ち込んでいた使徒の姿が想像できる。人生が終局に近づき、肉体も弱り、行動の自由も奪われた信仰者にとって、最後にできることは祈りである。しかもそれは、もっとも困難で忍耐のいる務めだ。神はそれをパウロに最後の働きとしてお与えになったのである。▼聖徒たちが地上でキリストのために払う祈りという労苦の大部分は目に見えず、表面に現れることはほとんどない。というのは、それらはやがて天上の大礼拝において、香の煙となって立ち上るよう定められているからである。この二千年、大祭司キリストが父なる神のそばで成しておられるとりなしも、地上の私たちの目にふれることはない。また、私たちの内におられる御霊のうめきにひとしいとりなしも、私たちには感知できない領域に存在する。なんとふしぎで妙なる事実であろう。それらがすべて神の経綸を進め、実現に至らせる絶大な霊界のエネルギーになっているのである。もし誰かが御霊に招かれ、人知れず奥まった孤独の場に連れて行かれ、そこで祈るように命じられるとしたら、それはもっとも崇高な招きである。▼この二千年、あらゆる時代に誰も知らない場に導かれ、だれも気付かない祈りの労を取った信仰者は、おそらく数えきれない数にのぼるであろう。彼らは決して表面に出ない、名もない器たち、人知れず使命を終え、消えて行った人たちにちがいない。彼らは主の御心深く存在する祷告者名簿に名前が記されている人々であり、秘密中の秘密である。香炉から立ち上った煙はしばらくは見えているが、空中に溶け、いつのまにか消えて行く。すべての煙は香となって神のいます第三の天にのぼっているのであろう。もし私たちが復活栄化して神の前に出たとするなら、天を包んでいる祈りの香という虹の雲を見るにちがいない。