- 御霊よ滅ぶる世人のため 我をも遣わし叫ばしめよ 御神は世人をいつくしむと
- 御霊よ聖徒に救い主の みかたち成るまで悩ましめよ 産みの苦しみもわれ厭わじ
- 御霊よ主イエスの花嫁らの 装い成るまで忍ばしめよ 耐えがたく思う試みをも
- 御霊よ誓いの時来たらば 我にも栄えを仰がしめよ そのとき嘆きは跡なく消えん
「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、主であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。」(ヨエル3:17新改訳)
地上に再臨された主はエルサレムに復活の栄光をもってとどまり、世界に神の国、いわゆる千年王国が始まる。キリストは活ける神殿なるお方ゆえ、エルサレムは初めて名実ともに神の都となるであろう。AD70年、ローマ軍が攻めて来た時、パレスチナのユダヤ人たちはエルサレムに逃げ込んだ。ここは神の都だから守られると信じ、全財産をもって避難したわけである。結果は悲惨で百万以上の人が死に、都は血の廃墟と化した。その有様は、ヨセファスのユダヤ戦記にくわしく記されている。▼神の都は、キリストが臨在されてこそ神の都となるのであって、美麗な建物群が満ちていても、それ自体に意味はない。これは私たちキリスト者にとっても、教会にとっても事実である。使徒パウロはコリント教会へ「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16同)と書き送った。▼現在、教会とキリスト者ひとりひとりには御聖霊が内住しておられるが、この事実を信仰によって受け止めるなら、私たちはすでに神の国に入れられ、千年王国に生きているのと変わらない。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3同)と主が仰せられたとおりに・・・。しかしはたして、この驚くべき事実を信じるキリスト者は果たしてどれぐらいいるであろう。かえって不平、不満、高ぶり、肉の欲の奴隷になっている信仰者が多いのではないだろうか。▼だから心貧しく、謙遜に生きる必要がある。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべての事に感謝しなさい、が自然に日々の生き方となるまで。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2:28,29新改訳)
この預言はペンテコステの日、エルサレムで成就した。そしてエルサレム教会が生まれた。現代はその続きであり、世界中のあらゆる民族、階級、いっさいの区別を乗り越えながら広がり、とどまるところを知らない。地域において強弱はあるが、恵みの大雨が降りしきっており、特に異邦人たちが次々に御国の門をくぐっているとは、嬉しいかぎりである。▼そして時が満ちると、今度はイスラエルにこの雨が降り出すにちがいない。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ」(ゼカリヤ12:10同)と明記されているからである。神はすべての民族、ノアの子どもたちをキリストにおいて一つに集め、来るべき永遠の御国を造りたもう。こひつじとはなよめの聖なる婚姻の日がそこまで近づいた。◆たしかに、主の教会はエルサレムから始まり、ユダヤ人たちが土台となった。が、しばらくすると福音は異邦人世界に広がり、今日に至っている。それは彼らの大部分がキリストを拒否し、福音を拒んで今日に及んでいるからだ。しかし、世の終わりにもう一度イスラエル全体が主イエスを信じ受け入れるときが来るであろう。◆教会は受肉した神のことば、ナザレのイエスにお会いしたユダヤ人たちから始まったが、歴史の終わりに、受肉した神のことばが再臨し、もう一度彼にお会いするユダヤ人たちによって締めくくられる。その間にはさまれるようにして異邦人の救いの歴史が造られているともいえる。パウロはそのことに言及して次のように言う。「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです」(ローマ11:25,26同)と。神の救いの御計画は、なんと妙なるもの、神妙不可思議としかいう言葉が見つからない。