「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:5,6新改訳)
キリスト者信仰の根底に必ず据えるべき事実は、主のお出でが近いということである。ヤコブも「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです」(ヤコブ5:8同)と警告した。▼しかしある人は、「もう二千年経った」と言うかもしれない。だが人個人の生涯はそれぞれ百年にも満たないわずかなもの。再臨前にそれが終われば、機織りの布が切り取られ、納められるように、あとは主の日を待つだけとなる。やり直しや変更はいっさい効かず、永遠が決定されるのだ。その意味で地上生涯は厳粛この上もない。だから私たちは一日一日を大切にし、御霊と共に歩み、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22同)に代表される聖霊の実を、豊かに結ばせていただこうではないか。かの日、喜びをもって愛する主にそれをささげるために。
ピリピの聖徒たちに書簡を送ったとき、パウロはローマの獄中にあった。当時の囚人の生活状態は劣悪なもので、困窮をきわめていたことが想像できる。彼は少数の弟子たちの支えにより、飢えをしのぎつつ皇帝の開く裁判と判決を待っていたわけである。▼たぶんピリピの信徒たちの耳にも使徒の貧しさと困難は伝わって来たのであろう。彼らは義援の品々をエパフロディトに託してローマに届けたのであった。パウロは大いに喜び、この手紙を書き送ったのだが、自分は困難の中にありながら、「すべての理解を超えた神の平安」(7)に満たされつつ毎日守られている、と証ししている。よく見れば彼の周囲に、明るい材料などひとつもない。数々の奇蹟と宣教の不思議で活躍していた頃ならともかく、獄中で死刑の判決を受けるかもしれない老囚人を、誰が相手にするだろう。巷にはキリストの福音を伝える人々は大勢いたろうが、パウロとその宣教を非難し、十字架の福音を否定する者たちも多数いた。彼らはパウロが形成した教会を巡り歩いては、「そのまちがいを指摘した」。その毒牙にかかったのがガラテヤの信徒たちである。▼牢獄で身動きのとれないパウロ、彼のできることは祈りと執り成しだけであった。しかしキリストの御霊により、不思議な境地に連れて行かれたのである。「何も思い煩うことなく、ただ感謝をもって各地の群れについて執り成しの祈りをささげるとき」、使徒の心はなぜか「すべての理解を超えた神の平安」により満たされ続けたのであった。▼この平安こそ、あらゆる時代のあらゆるキリスト者が戴くべきものである。それは天にいます大祭司キリストから地上に送られてくる神の平安だ。どんな事情境遇も、死の不安や脅かしも、貧窮も八方ふさがりもどうすることもできない全能者からの平安である。それは死と滅亡をうち破った復活のいのちであられるお方がもたらす平安である。キリスト者は各自がこの天的平安を内に宿すとき、いのちの書に名を記された人々の戦列に加えられた、といえるのである。