しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <私の喜び、冠>

2024-10-12 | ピリピ
「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。」(ピリピ4:1新改訳)

主が再臨されるとき、私たちは朽ちていく体から解放され、復活体に栄化する。これほどすばらしい約束を与えられているのだから、どんな困難があっても動揺(どうよう)しないで信仰に堅く立ってほしい、とパウロは勧(すす)めている。▼ここで使徒がピリピの人々を「私の喜び、冠(かんむり)」と表現しているのは感動的だ。思えば、御霊に迫られ、アジアからボスポラス海峡を渡って初めて足を踏み入れたのが、ヨーロッパの植民都市ピリピであった。そこで福音を伝えたパウロたちは、たちまち激しい迫害に会い、ムチで打たれ、足枷(あしかせ)をはめられ投獄された。喜びを抑えきれないパウロとシラス、賛美するうち獄屋の戸が地震で開き、看守の一家が救われ、すでに入信していたリディアたちと共に教会ができたのであろう。困難の中で生まれたピリピの教会、難産(なんざん)で産んだ母親のように、パウロの愛は特別であり、ピリピの信徒たちも一筋(ひとすじ)に彼を慕い続けたのであった。▼これは、今教会に臨んでおられる御聖霊の喜びがどこにあるかを説明する。それは教会が一筋に主を愛し、堅く信仰に立って歩むことである。父親がしっかり生きる息子を見て心に深い満足・喜びをおぼえるように、天の父のお喜びは教会が福音に生きること以外にはない。「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。」(Ⅱヨハネ4同)

朝の露 <私に倣う者と>

2024-10-11 | ピリピ
「兄弟たち。私に倣(なら)う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17新改訳)

パウロに倣う者とは、復活を最大の目標とすること、十字架を信じる以外に人が救われる道はないと悟ることの二点である。▼これは当時のユダヤ人たちがもっとも嫌った教えで、モーセの律法を遵守(じゅんしゅ)する以外、救いの道はないと信じ、ことごとくパウロに反対した理由であった。彼らはパウロだけでなく、すでに主イエスのときから「安息日を守らないナザレのイエス」と非難し、最後には主を十字架に殺すところまで行ったのである。▼だがパウロは絶対に妥協(だきょう)しなかった。自分の死さえも覚悟し、十字架以外に救いはなく、キリスト以外に復活の希望はないと、当時の世界中を巡回して福音を宣教し続けた。それは律法を実行して救いにあずかろうと死ぬような努力をした果てに、「十字架以外救いはない」と悟ったからだ。もちろん福音を彼に直接啓示されたお方こそ死からよみがえった主イエスご自身だった。▼「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11、12同)そこで私たちも永遠の救いに入ろうと願うなら、徹底してパウロに倣うべきではないだろうか。

朝の露 <思いを一つに>

2024-10-05 | ピリピ
「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」(ピリピ2:2新改訳)

ピリピ教会はパウロが大喜びするほど恵まれた教会だった。しかしそれでも、使徒はこの節で同じ思いになってほしい、同じ愛の心で一つになることを望む、と手紙に記した。これは教会の全信徒が、主に向かう姿勢でまったく一つになったとき、いかに強力な霊界の能力を発揮するかという事実を示している。▼逆にいえば、悪魔は知恵を傾けて、教会が分裂し、わかれ争うように画策していることの証明でもある。その典型は使徒12章にあるペテロ投獄の記事といえよう。初代教会最大の危機ともいえるこのとき、教会は完全にひとつとなり、来る日も来る日も全員でペテロの上に奇蹟が起きるよう祈ったのであった。その結果があざやかに記されている。▼教会が思いと愛で一つになって祈りの座に着いたとき、大きな岩山も崩れ去る、パウロはそれを経験から熟知していた。現代の教会にもまさにこれが必要である。「ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭り(それは1週間続いた)の後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(使徒12:4,5同)

朝の露 <パウロの死生観>

2024-10-04 | ピリピ
「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ1:24新改訳)

パウロのほんとうの願いは、この世を去り、一刻も早くキリストのみもとに行くことであった。彼はあまりにも天の世界を知り、主のご愛を間近に感じていたので、地上のことにはなんの魅力もおぼえていなかった。だが、諸教会はパウロの宣教と牧会指導、その深遠さに満ちた書簡を切に求めていたから、羊たちへの愛からこの世にとどまらなければと感じていたのである。▼この世の人たちは、自分の死期が迫るとあわてふためく。なんとかして病気や危険から逃れ、一日でも長く生きたいと、いかなる犠牲でも払う。それを思うと、パウロの死生観は、一般人となんとかけ離れていたことかと、あらためて心がゆさぶられる。はたしてキリスト者を自認する私たちはどうであろう。▼パウロのように、またエノクやモーセのように神の御霊によって歩み、天と地の区別がないほど主の臨在をおぼえながら日々を生きたいものだ。それが地上に残る人々にとって、永遠の希望となるにちがいないから。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私にはわかりません。私は、その二つのことの間で板ばさみになっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1:21~23同)

朝の露 <主は近いのです>

2022-02-19 | ピリピ

「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:5,6新改訳)

キリスト者信仰の根底に必ず据えるべき事実は、主のお出でが近いということである。ヤコブも「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです」(ヤコブ5:8同)と警告した。▼しかしある人は、「もう二千年経った」と言うかもしれない。だが人個人の生涯はそれぞれ百年にも満たないわずかなもの。再臨前にそれが終われば、機織りの布が切り取られ、納められるように、あとは主の日を待つだけとなる。やり直しや変更はいっさい効かず、永遠が決定されるのだ。その意味で地上生涯は厳粛この上もない。だから私たちは一日一日を大切にし、御霊と共に歩み、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22同)に代表される聖霊の実を、豊かに結ばせていただこうではないか。かの日、喜びをもって愛する主にそれをささげるために。

ピリピの聖徒たちに書簡を送ったとき、パウロはローマの獄中にあった。当時の囚人の生活状態は劣悪なもので、困窮をきわめていたことが想像できる。彼は少数の弟子たちの支えにより、飢えをしのぎつつ皇帝の開く裁判と判決を待っていたわけである。▼たぶんピリピの信徒たちの耳にも使徒の貧しさと困難は伝わって来たのであろう。彼らは義援の品々をエパフロディトに託してローマに届けたのであった。パウロは大いに喜び、この手紙を書き送ったのだが、自分は困難の中にありながら、「すべての理解を超えた神の平安」(7)に満たされつつ毎日守られている、と証ししている。よく見れば彼の周囲に、明るい材料などひとつもない。数々の奇蹟と宣教の不思議で活躍していた頃ならともかく、獄中で死刑の判決を受けるかもしれない老囚人を、誰が相手にするだろう。巷にはキリストの福音を伝える人々は大勢いたろうが、パウロとその宣教を非難し、十字架の福音を否定する者たちも多数いた。彼らはパウロが形成した教会を巡り歩いては、「そのまちがいを指摘した」。その毒牙にかかったのがガラテヤの信徒たちである。▼牢獄で身動きのとれないパウロ、彼のできることは祈りと執り成しだけであった。しかしキリストの御霊により、不思議な境地に連れて行かれたのである。「何も思い煩うことなく、ただ感謝をもって各地の群れについて執り成しの祈りをささげるとき」、使徒の心はなぜか「すべての理解を超えた神の平安」により満たされ続けたのであった。▼この平安こそ、あらゆる時代のあらゆるキリスト者が戴くべきものである。それは天にいます大祭司キリストから地上に送られてくる神の平安だ。どんな事情境遇も、死の不安や脅かしも、貧窮も八方ふさがりもどうすることもできない全能者からの平安である。それは死と滅亡をうち破った復活のいのちであられるお方がもたらす平安である。キリスト者は各自がこの天的平安を内に宿すとき、いのちの書に名を記された人々の戦列に加えられた、といえるのである。