しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅱペテロ3章 <すべてが崩れ去る>

2020-02-22 | 2ペテロ書

紫の花

「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう」(Ⅱペテロ3:11新改訳)

人間は目に見える具体的なもの、財産、名声、地位などを重んじ、それらを獲得したり維持することに、生涯のすべてを費やす。しかし主の日が来ると、天の万象も地そのものも消滅する、とペテロは断言した(10)。まさにソロモン王が「空の空、すべては空」と言ったことは正しかったのである。▼では私たちにとり、真に大切にしなければならないものは何か?といえば、物ではなく「生き方」である。パウロが愛の章で、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」(Ⅰコリント13:13同)と述べているのがその証拠に他ならない。そしてさらにいえば、イエス・キリストこそ、永遠に存続する敬虔な生き方が形となって現れたお方であった。そこで、信仰によってこのお方につながるとき、私たちは初めて永遠の滅亡、永遠の消滅から救われ、神の喜びに入れられるのである。◆たしかに私たちキリスト者は、今の世界に所有するに価するものはなにもない。しかし来るべき永遠の世界ではそうではない。ダビデは「主は私への割り当て分 また杯。・・・割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です」(詩篇16:5,6同)と歌ったし、ダニエルも「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(ダニエル12:13同)と言われている。だから、まちがいなく私たちには定められた相続財産である土地があるのだ。具体的には、新天新地に出現する永遠の都エルサレムがそれだと思う。キリストの新婦とされた者は宝石の都エルサレムに、永遠の相続地を持つのであり、想像するだけでも心がおどるのである。そして都はキリストご自身であり、永遠のいのちの実体にほかならない。旧約の諸聖徒たちは、信仰により、その都を望見して心おどらせ、その素晴らしさに圧倒されたので、地上では喜びのうちに天幕生活に甘んじながら生涯を終えたのであった。◆私たちもそうならせていただきたい。やせがまんや、無理をしてそう思うというのでなく、ほんとうにアブラハムやモーセのように、神が設計し、建設されつつある永遠の都の美しさに見とれ、我を忘れて地上を走り抜く者でありたい。


朝の露 Ⅱペテロ2章 <さばきの日まで>

2020-02-21 | 2ペテロ書

むらさき

「主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。」(Ⅱペテロ2:9新改訳)

この世では犯罪を犯し、逮捕されると、最終的な刑が決まるまで拘置されるが、見えない世界でもこれと同じである。▼ペテロによれば、罪を犯した御使いたちや人間は、さばきの日(最後の審判)まで、地獄とかハデスとよばれる暗闇の場所に鎖につながれて幽閉される。人がもし、この冷厳な事実に目が開かれれば、泣いて救いを求めるにちがいない。そこは後悔と涙が昼も夜も満ちている場所であり、もし私たちが今それを目撃したとすれば、狂気のように、ハデスへ落ちないため何でもするだろう。また、誰に反対されても伝道することを絶対にやめないであろう、特に家族や愛する人たちに対しては・・・。▼人は霊の世界に対し盲目だから平然と構えて人生を送れるのだ。そして悪魔は、信じない人々を罪と快楽の奴隷にし、気がつかないうちに地獄へ連行している。何という悲劇か。もし私たちキリスト者の心の目が聖霊によって開かれ、世界の本当の有様が見えたとしたら、そこは枯れたる骨が満ち、滅びの坂を転げ落ちつつある人々の悲惨極まりない叫びが絶え間なく聞こえるであろう。その声があなたの耳を24時間占領し、眠ることができなくなるはずである。天の御父の断腸の思い、御聖霊の呻きに同調し、人前もはばからず泣かずにいられない状態になる。▼なぜ、主が山に伏し、野にひざまずいて父に祈り、イスラエルの町や村を不眠不休で巡られたのか?その理由がわかるであろう。この世の華美はまったく偽りであり、怒涛のように暗黒の滝つぼへ落ちて行く無数の人々とその悲鳴を目の当たりにしたあなたの目から涙が滂沱と流れずにはおれない。そして怠慢と偽善の罪を恥じて悔い改め、すぐに祈りの部屋に駆け込む人とならずにはいられなくなる。◆「イエスが『おまえの名は何か』とお尋ねになると、彼は『レギオンです』と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。」(ルカ8:30、31同)

 

 


朝の露 Ⅱペテロ1章 <わたしの愛する子>

2020-02-15 | 2ペテロ書

バラ

「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』」(Ⅱペテロ1:17新改訳)

ペテロは本書で、キリストの再臨がただの作り話ではないことを明確に証言している。なぜなら、実際に主の変貌を目撃したからだ。主は弟子たちに、「ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます」と言われ、その六日目にペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子を連れて高い山に登られた。そして彼らの目の前で栄光に満ちた姿に変わられ、その上、モーセとエリヤが同じように光り輝く姿で現れたのだった(マタイ16:28~17:3)。▼三人の弟子たちは、やがて到来する復活の御国を、先取りするかたちで実際に見たのであった。しかもそこには主イエスだけでなく、モーセやエリヤといった過去の人間もよみがえってイエスと共にいるではないか。初代の聖徒たちが迫害の中、キリストを宣べ伝え、喜んで殉教していったのがよくわかる。◆もうひとつ注目すべきは、ペテロが「私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています」(14)と述べていることである。彼は主に示され、ほどなく殉教のときを迎えるのを予期していた。その最後の使信が再臨と復活であったことは、とても重要ではあるまいか。すなわち私たちは彼のように、栄光と復活の朝を明瞭にとらえながら地上の使命を終えるべく生かされている、信仰者はそうあるべきだ、というメッセージなのだ。使徒パウロもおなじことを語りながら殉教していった(→ピリピ3章)。そして彼は「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう」(ピリピ3:15同)と励ましていることを忘れてはならない。


朝の露 Ⅱペテロ3章 <再臨の日>

2017-08-19 | 2ペテロ書

松葉ボタン「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Ⅱペテロ3:16新改訳)

ペテロが注意しているのは、主の再臨について極端な解釈をし、信仰者らしくない無節操な生活をする人々のことだ。このことについては、パウロ自身も強く警告した。「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(Ⅱテサロニケ2:2同)▼まことしやかに書かれた偽の手紙にまどわされ、世の終わりが近づいたと不安になり、仕事をやめたり、騒ぎまわったりと、当時からそのような人々がいたのである。むろん、御霊による再臨信仰は決してそのようなものでなく、落ち着いて敬虔な生活を持続し、しかも主イエスを熱く愛してやまない心を持っていることである。▼よく考えてみると、ペテロほど熱狂して再臨を待ち望んでよい人物はいなかったはずである。なぜなら、愛し慕うイエス・キリストが死者の中から復活するという驚天動地の事実を目撃したのは彼が最初であった。復活した主に触れ、確かめ、共に食事し、会話を40日の間交わしたのだ。しかも、その主が目の前で天に上っていかれたのだ。夢まぼろしでなく、昇天を実際に目撃したのである。そのお方がまもなく来られる、じつにペテロほど再臨を慕わしく待ち焦がれて当然の人はいなかった。その彼が湖水のような静けさと平安、落ち着きを持ちながら、再臨を待ち望むように諭している、それが本書である。いつ再臨があるのか、その日は最愛の御子にさえ明かさない、御父はご自分の愛のふところにお住まいになっている「かけがえのないひとり子」にも秘めておられる。測り知れないできごと、摂理、経綸の中心なのだ。なんという神妙不可思議な御父の心、愛の御計画(みはかり)であろう。


朝の露 Ⅱペテロ2章 <にせもの>

2017-08-18 | 2ペテロ書

都会の田んぼ「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:3新改訳)

ペテロは、60代後半で殉教したといわれているが、そのころになると教会には多くのにせ教師、にせ預言者が現れ、信徒をまどわすようになっていた。▼ヤコブ書やユダ書なども、偽わりのキリスト者たちに対して警戒を怠らないように勧めているし、黙示録七つの教会へのメッセージにも、それが記されている。つまり、二千年のキリスト教史は、にせものとの闘いでもあったといっても過言ではない。そしてこの闘いは、21世紀の今も世界のキリスト教界で行われている。▼私たちは、聖書のみことばを心から信じ受け入れ、純朴・誠実な態度で主に従っていくべきはいうまでもない。そしてむやみに他人をさばくのではなく、自分がにせキリスト者にならないよう、最大の注意をはらうべきである。好色や金銭への執着、快楽や名誉心に対するあこがれなどはキッパリ十字架につけ、決別すべきだ。あのユダが最後にどうなったかを思い出しながら。▼たぶん、殉教を間近にしたペテロの脳裏には、目の前で神にさばかれ、滅びて行った人たちが次々に浮かんだことだろう。アナニヤ夫妻は地所の代金を一部だけささげ、「これで全代金です」と言ったが、ペテロの眼前で頓死した(使徒5章)。また、ヘロデ・アグリッパⅠ世はペテロを死刑にしようとしたが果たせず、反対に自分が主の使いに撃たれ、虫に噛まれて息絶えた(使徒12章)。使徒はイエスに召されてから、殉教に至るまでの生涯において、「世にある欲のもたらす滅び」(1:4)が現実であること、だからこそ「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととをたしかなものと」(1:10)しなければならないことを痛感してきたにちがいない。彼はまた主イエスのおことばを自分の耳ではっきり聞いた。「ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」(ルカ17:32,33)▼そう思うと、彼の最後の訴えが、いかに真にせまったものであるかをおぼえずにいられないではないか。