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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <冬の家と夏の家>

2023-06-01 | アモス書
「わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。―主のことば。」(アモス3:15新改訳)

北イスラエルの王侯貴族たちは贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の生活をしていたことがうかがえる。すなわち彼らは豪華(ごうか)な別荘を造り、夏は涼しく、冬は暖かく過ごしていたのである。しかもそれが象牙(ぞうげ)で飾り立てられていた、とはなんということか。▼そもそもイスラエルは吹けば飛んでしまう小国にすぎない。唯一の神への信仰と律法に従う敬虔な生活をしてこそ、周辺の国々から守られて存在していけるのだ。なのに、神への信仰をなおざりにし、弱者や貧者を虐(しいた)げ、金をまき上げては豪華(ごうか)な生活をしていたのである。▼アモスはするどい預言のことばをもって指導者や支配階級の人々を譴責(けんせき)する。まもなく北からアッシリアが襲来(しゅうらい)し、おまえたちの蓄(たくわ)えた財宝を根こそぎ持って行くのだ。その足音が聞こえているのに、安逸(あんいつ)をむさぼっている時か!と。私たち現代人もそうだ。キリストの再臨と神の審判の日を考えに入れない人生には何の意味もない。そのことに早く気がつくべきである。

朝の露 <イスラエルの背き>

2023-05-31 | アモス書
「主はこう言われる。イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物(はきもの)一足のために貧しい者を売ったからだ。」(アモス2:6新改訳)

北イスラエル王国の罪は神の聖なる律法を無視(むし)し、平気で不正を行い続けたことだった。モーセ律法には兄弟同胞(どうほう)を愛し、助け合わなければならないとあるのに、金もうけと利得だけが関心事になり、正しく生活している貧しい人々を差別し、奴隷として売り買いしたのであった。また弱い人々をあわれむどころか、足で踏みつけ、姦淫にふけり、神を礼拝する場所で酒を飲み、酔っている。しかもその費用は弱い人々から取り立てたお金や質物から出ていた。▼アモスの時代の北イスラエル(南ユダもたいして変わらなかったが)は、選民とは名ばかり、国のありさまは異邦人社会とおなじであった。この時の王はヤロブアムⅡ世でエフーの四代目の子孫であった。エフーといえば預言者エリシャに立てられ、あの悪王アハブを殺し、バアル教やアシェラ教をほろぼした改革者であった。しかしその改革は完全ではなく、彼自身もヤロブアムⅠ世が創設した金の子牛礼拝を続けていたのである。このように、北イスラエルは、アモスの指摘のように、一般人レベルでは偶像礼拝と不道徳に満ちていたのだ。エリヤやエリシャが現れ、必死で霊的改革に当たったが、悲しいかな、イスラエルの体制は変わらず、これがやがて国の滅亡につながっていった。▼神のことばを無視して生きる社会は、堕落(だらく)の坂道をころげ落ちていくボールと変わらない。現代の社会もおなじである。聖書のことばを無視し、人間の欲望を正当化して生きるところに、どうして正義があろう、個人でも国家でもそうである。アモスが言うように、神に対する真実の悔い改めだけが事態を変えうる。教会の使命は大きい。聖霊の火によって国を変えることができるかどうか、それが問われている。エリヤの叫びは、二千数百年たった今日でも、わが国に響き渡っている。「火をもって答える神、その方が神である。」(Ⅰ列王18:24同)


朝の露 <エルサレムから声を>

2023-05-30 | アモス書
「彼は言った。主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。」(アモス1:2新改訳)

アモスは南ユダ王国のテコア出身で、農夫であった。だが神から北イスラエル王国について預言するように命じられた人である。しかし彼はまず1章において、周辺の国々と諸部族に下される神の審判を預言する。その罪とはイスラエルとユダに対する残虐な行為であった。▼ダマスコに象徴されるアラム人はルベン、ガド、マナセの領地ギルアデに攻め入り、鉄の打穀機(だこくき)で住民を踏みにじった。アンモン人(ロトの子孫でイスラエルやユダとは親戚関係にあたる)はもっとひどく、ギルアデの地を奪うため戦いをしかけ、妊婦たちを切り裂くという極悪非道(ごくあくひどう)な行いをしたのである。その他、ツロはソロモンの時代、イスラエルと兄弟の契りを結んだのにうらぎった。ペリシテ人のガザも、エドムもそれぞれ選民に対して無慈悲な行いをして神に反逆した。これらの民の冷酷(れいこく)な仕打ちは、要するに神に対する罪であり、最後にはきびしいさばきをまぬがれ得ない、アモスはそう宣言する。▼私たちも、生涯において他人に愛のない行為、冷酷非情(れいこくひじょう)な行為をして苦しめるなら、神の審判の座の前に出てそれにふさわしい報いをかならず受けるであろう。とくに人を殺したり、傷つけたりすれば、まちがいなく永遠の火に投げ入れられるのを覚悟しなければならない。▼反対に、弱い人や力のない人に、愛情をもってなしたどんな小さな行為も、決して忘れられることはないであろう。

朝の露 アモス9章 <将来の祝福>

2018-11-22 | アモス書

石竹「わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。―あなたの神、主は言われる。」(アモス9:15新改訳)

旧約の最後を埋める預言者たちのメッセージは、罪と堕落を戒め、神の審判の迫りを告げる厳しさに満ちている。しかしそれにもかかわらず、各書の最後はイスラエルの回復と神の慰めが注がれるという約束で終っているのが不思議だ。▼アモス書もそうで、ここまで罪を糾弾してやまなかった預言者が、本章の後半から一転してイスラエルの回復を語り、しかも二度と引き抜かれることはないと断言する。神はなんと真実と愛にあふれたお方であろう。アブラハム、イサクに誓われたことばを成就しなければやまない熱心さをもって、選民の現在の状態にかかわりなく約束されるとは。「ヤコブの家を根絶やしにすることはない」(8)とあるように、過去2千年だけを見てもユダヤ民族は国を失い、世界中で流浪の民となり、機会あるごとに迫害され、殺され、追放されてきた。それなのに、消滅することはなかったのである。その原因を民族の優秀性に帰する人がいる。しかしそれは本当ではない。語られた神のことば、選びの約束と誓いこそがまことの理由なのだ。なぜなら主のお語りになったことばは、天地が失せてもなくならないからである。▼同時に、教会はアブラハムの信仰の子どもとして、イスラエルに勝る祝福のうちにあることも忘れてはならない。私たちは来るべき新天新地に、キリストのはなよめとして「植えられた」のだから。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16同)

 

 


朝の露 アモス8章 <その日が来る>

2018-11-21 | アモス書

かわいい花「その日には、―神である主の御告げーわたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」(アモス8:9,10新改訳)

アモスが預言した頃、北王国はヤロブアムⅡ世のもとで繁栄を謳歌(おうか)し、人々は贅沢な生活にふけっていた。もちろんそれは底辺にあえぐ貧しい人々を踏み台にした繁栄であったが。▼神の祝福としての豊かさならともかく、不正と暴力に基づく偽りの豊かさは空しく、神の怒りを積み上げるだけで、最後はみじめな審判に至る。アモスがいのちを賭(と)して伝えたのはそのメッセージであり、真実な悔い改めだけがそこから逃れる道だ、という勧告であった。▼それから約半世紀後、北イスラエル王国はアッシリア軍に侵攻され、むごたらしい最後を迎える。真昼に太陽が沈み、地は暗くなるとは霊的な意味であるが、全土が焼き尽くされ、煙と火でおおわれる有様の形容でもあろう。私たちも悔い改めなければ同じ運命を辿る。◆人は言うかもしれない、「アモスははるか昔、旧約時代の預言者。私たちとは関係ない」と。しかしペンテコステの日、ペテロは私たちによびかけた。「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」(使徒2:20,21同)と。だから私たちは、輝かしい復活の御国が現れるとき、そこに入るための備えをしておくべきである。すなわち「主の御名を呼び求める者」たちのひとりとなっているべきである。そのためにこそ、イエス・キリストは十字架につき、完全なゆるしの道を開き、福音の門を大きく開いてくださったのだから。