「わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。―あなたの神、主は言われる。」(アモス9:15新改訳)
旧約の最後を埋める預言者たちのメッセージは、罪と堕落を戒め、神の審判の迫りを告げる厳しさに満ちている。しかしそれにもかかわらず、各書の最後はイスラエルの回復と神の慰めが注がれるという約束で終っているのが不思議だ。▼アモス書もそうで、ここまで罪を糾弾してやまなかった預言者が、本章の後半から一転してイスラエルの回復を語り、しかも二度と引き抜かれることはないと断言する。神はなんと真実と愛にあふれたお方であろう。アブラハム、イサクに誓われたことばを成就しなければやまない熱心さをもって、選民の現在の状態にかかわりなく約束されるとは。「ヤコブの家を根絶やしにすることはない」(8)とあるように、過去2千年だけを見てもユダヤ民族は国を失い、世界中で流浪の民となり、機会あるごとに迫害され、殺され、追放されてきた。それなのに、消滅することはなかったのである。その原因を民族の優秀性に帰する人がいる。しかしそれは本当ではない。語られた神のことば、選びの約束と誓いこそがまことの理由なのだ。なぜなら主のお語りになったことばは、天地が失せてもなくならないからである。▼同時に、教会はアブラハムの信仰の子どもとして、イスラエルに勝る祝福のうちにあることも忘れてはならない。私たちは来るべき新天新地に、キリストのはなよめとして「植えられた」のだから。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16同)
「その日には、―神である主の御告げーわたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」(アモス8:9,10新改訳)
アモスが預言した頃、北王国はヤロブアムⅡ世のもとで繁栄を謳歌(おうか)し、人々は贅沢な生活にふけっていた。もちろんそれは底辺にあえぐ貧しい人々を踏み台にした繁栄であったが。▼神の祝福としての豊かさならともかく、不正と暴力に基づく偽りの豊かさは空しく、神の怒りを積み上げるだけで、最後はみじめな審判に至る。アモスがいのちを賭(と)して伝えたのはそのメッセージであり、真実な悔い改めだけがそこから逃れる道だ、という勧告であった。▼それから約半世紀後、北イスラエル王国はアッシリア軍に侵攻され、むごたらしい最後を迎える。真昼に太陽が沈み、地は暗くなるとは霊的な意味であるが、全土が焼き尽くされ、煙と火でおおわれる有様の形容でもあろう。私たちも悔い改めなければ同じ運命を辿る。◆人は言うかもしれない、「アモスははるか昔、旧約時代の預言者。私たちとは関係ない」と。しかしペンテコステの日、ペテロは私たちによびかけた。「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」(使徒2:20,21同)と。だから私たちは、輝かしい復活の御国が現れるとき、そこに入るための備えをしておくべきである。すなわち「主の御名を呼び求める者」たちのひとりとなっているべきである。そのためにこそ、イエス・キリストは十字架につき、完全なゆるしの道を開き、福音の門を大きく開いてくださったのだから。