しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

リンゴの木

2014-09-15 | インポート

Photo_2 今日は家内とふたりで、訪問のため、豊平区方面に出かけました。

途中、ある民家のお庭にリンゴの木が2本あり、たわわに赤く色づいた実が成っていました。札幌市内で鈴なりのリンゴを見るのは初めてです。

りんごの木は、植えておけば自然に食べられるような実がなる、っていうものじゃないでしょうね。これだけみごとなリンゴを、それも果樹園ではなく、大都市の町中でならせるなんて上手だなぁ!と感心しました。

私もクリスチャンのはしくれなので、「実を結ぶ」ということには心が惹かれます。御霊の実、とくに救霊の実を豊かに結ばせていただきたいものだ、シャッターを押しながら、つくづくと思った次第!

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)  「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(同15:5)


朝の露 創世記31章 <ヤコブの苦祷>

2014-09-15 | インポート

 Photo 「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」(25新改訳)

 神と格闘したヤコブの記事が指し示す霊的真理は、説明の及ばない深遠さを持っている。人が人であるとは、このようなことではないか、そう思う。

ヤコブにすれば、川を渡って兄エサウのところに行くのが神の求めておられることだと、痛いほどわかっている。しかしそれができない。できない何かが自分の本質にある、そこは神と格闘するしかない、人とはそのような存在だ、ということであろう。神と争い、腰骨をはずされなければならなかった彼の姿は、私たちも通らなければならない祈りの道の光景ではあるまいか。

苦祷の道は主イエスもお通りになった。「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように落ちた。」(ルカ22:44)

[写真:日曜日は一日中教会にいるSちゃん、ママと帰るところです]

 


明日は敬老の日

2014-09-14 | インポート

Photo_2 あしたは敬老の日、ピンポ~ンと鳴るので出ると、町内会の世話人S氏が立っておられました。見ると、お米の袋を抱えておられます。

70歳以上の方々に、お祝いの意味でお米を配っています。2キログラムの袋で、「ほしのゆめ」という銘柄米。「いやぁ、この町内だけで70歳以上が150人、これから配って歩くんですが、たいへんですゎ」

そういうSさんも昭和16年生まれ、私より年上の72歳。ご苦労様です。日本の高齢化社会、私の周りにひしひしと「潮が満ちる」ように迫って来たのを感じました。家内はうわぁ新米だゎ、早速食べましょうと喜んでいましたが・・・。


聖日の朝に <アブラハムとイサク ヘブル11:17~19より>

2014-09-14 | インポート

 Photo 「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」(ヘブル11:17)

人間にとり最高の幸福は、「すべてを尽くして神(天の父)を愛すること」にある。そのため神は、私たちにほんとうの愛を所有させようと試練を与えられる。アブラハムが出会ったのはそれであった。

百歳で生まれたイサクは彼にとり、いのちにも代えられない存在であったが、それだけに「神より愛するもの」になる可能性があったことは想像に難くない。だから神は「イサクをわたしに犠牲としてささげよ」とおっしゃったのである。

信仰者は、地上のどんなものも神と並列的に愛してはならない。かえって神への愛に含められる、つまりandではなくinであるべきである。本来、愛は存在において唯一であるべきだからだ。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16) 

天の父は、世(あなたや私)とひとり子イエスを並列的に愛されたのではない。「ひとり子をお与えになったほどに」世を愛された。すなわち、御父は世に対する愛を持たれたとき、かけがえのないひとり子への愛はその中に含まれてしまったのである。

驚くべきことだが、十字架はそのような愛の姿を私たちに突き付けてくる。モリヤ山上で現わされたアブラハムの神に向う愛、十字架で現わされた神の私たちへの愛、なぜか両者は同じ姿をしている。そして、やがて私たちの住む永遠の新天新地は、この愛が充満せる場所であり、キリスト者はそこに向かって進んでいるのである。

[写真:るりまつり by 小野淳子]

 


朝の露 Ⅰテサロニケ2章 <神へのお土産>

2014-09-13 | インポート

 Photo 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」(19新改訳)        

東洋では昔から、目上の人や初めての人に会う時、みやげ物を持って行くのは大切なことだった。邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を派遣した時、生口(奴隷)を献上したことが魏志倭人伝に記されているから、その歴史は古い。

ある意味で、私たちも卑弥呼のように、人間をお土産にしなければ主イエスを悲しませることになろう。

テサロニケの信徒たちは、パウロが宣教した結果生まれた救霊の実であり、再臨のとき主に献上すべき「みやげ物」だった。だから彼らが最後まで忠実な信仰に生きるなら、それは使徒にとり、この上ない喜び、誇りとなることはあきらかである。

私たちはどうだろう? 主イエス様への手土産=救われたたましい=を用意できただろうか。もちろん用意したからといって、自慢したり安心したとしたら、それは正しい在り方ではない。イエス様の喜ぶ御顔が見たい、その一心で用意させていただくのだ。

[写真:毎日不安定な札幌の空]