一昨日の、兵庫県篠山市「河原町妻入商家群」散策のつづきです。
『文禄2年(1593年)に、誓願寺覚山天誉大和尚の高弟、岸空本柳和尚を開山として、はじめ八上下村に創建され、東林庵と称していた。
ご本尊は、阿弥陀如来立像である。このご本尊について、次のような由来が伝えられている。
昔、小多田村に高聖寺という寺院があったが、明智光秀が織田信長の命により丹波攻めをし、八上城を攻略した天正六~七年(1578~1579年)ころに兵火のため焼失した。
岸空本柳和尚がその跡を訪ねると、法道仙人作という薬師如来像と阿弥陀如来像が、難を逃れて岩上にお立ちになっておられた。そこで、薬師如来像は善導寺に安置し、阿弥陀如来像を奉安すべく真福寺が建立されたという。
慶長14年(1609年)、篠山城が築かれ、その翌年、城主松平康重の指図によって、この地に移築された。境内に享保11年(1726年)に建立の観音堂がある。同じく、天和2年(1682年)に建てられた薬師堂があり、その薬師如来像は、藩主松平信庸(のぶつね)の侍女が乳の病の平癒祈願をし、完治したといい、乳薬師・耳薬師として信仰されている。』(「改訂ふるさとの探訪」より)
『文禄2年(1593年)に、誓願寺覚山天誉大和尚の高弟、岸空本柳和尚を開山として、はじめ八上下村に創建され、東林庵と称していた。
ご本尊は、阿弥陀如来立像である。このご本尊について、次のような由来が伝えられている。
昔、小多田村に高聖寺という寺院があったが、明智光秀が織田信長の命により丹波攻めをし、八上城を攻略した天正六~七年(1578~1579年)ころに兵火のため焼失した。
岸空本柳和尚がその跡を訪ねると、法道仙人作という薬師如来像と阿弥陀如来像が、難を逃れて岩上にお立ちになっておられた。そこで、薬師如来像は善導寺に安置し、阿弥陀如来像を奉安すべく真福寺が建立されたという。
慶長14年(1609年)、篠山城が築かれ、その翌年、城主松平康重の指図によって、この地に移築された。境内に享保11年(1726年)に建立の観音堂がある。同じく、天和2年(1682年)に建てられた薬師堂があり、その薬師如来像は、藩主松平信庸(のぶつね)の侍女が乳の病の平癒祈願をし、完治したといい、乳薬師・耳薬師として信仰されている。』(「改訂ふるさとの探訪」より)