最近、ABEMA TV(アベマTV)というのを見ることがあります
見逃したドラマや、邦画、洋画を無料で配信していたりするので、ありがたく拝聴しています
先日、洋画の無料配信で「バイオハザード」という映画のシリーズを、1話からファイナルまで配信していました
昔、プレイステーションというゲーム機器で、バイオハザードをいくつかプレイしたことがあるので、映画を見てみようという気になりまして
1話から順番に見ていきまして、結局ハマってしまって最後まで見てしまいました
それにしても、バイオハザードはなぜハリウッドでシリーズ化されたのでしょうか?
その理由として、なんとなく、「アメリカ人らしい死生観」が、「バイオハザードの世界観」に近かったのではないか?と感じます
日本発のシューティングゲームには、バイオハザード・シリーズのように「死者がゾンビとしてよみがえる」というのが非常に多いわけです
その「死者がゾンビとしてよみがえる」という感覚が、アメリカ人の感性に近く、共感を呼んだのではないでしょうか?
結論から言いますと、「死者がゾンビになって生者を食い殺す」という死生観は、はっきり言って、「宗教観の未熟さ」に原因があるように思います
肉体がウイルスに感染して、死んだ後に勝手に動き出す。。。ということは、魂の存在を理解しているものにとっては「ナンセンス」でありまして
映画の娯楽としては面白いのでしょうが、実際には、まったく理論が伴なっていないわけです
物質が魂の存在なしで勝手に動き出すなんてこと、本来は絶対にありえないのです
それは、「心は脳みそにあって、ウイルスに感染したら、脳の機能が失われ、ただ本能だけが残る」という考え方が根本にあるのであって
そもそも、脳に心があるという考え方は「唯物論」なのであって、つまり、アメリカ人の宗教観は唯物論と混じり合っているという事だと思います
漠然として、魂と言われてもよく分からない、心は魂ではなくて脳にあるような気がする。。。そんな感じなのでしょう
最近私は、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー(民主主義)」という本を読んでおりまして
その中に書かれていることは、ダラダラと色んなことを長々と書いているので、論点を簡潔に書くのは非常に難しいのですが
要はトクヴィルは、アメリカの民主主義というものは、「アメリカ人(移民)の信仰をもとに発展した唯物論信仰に端を発している」
と言いたいのではないか?と、私はそう感じ、そのように理解しています
中世ヨーロッパに見られたような、宗教的死生観から来る「人としての理想の生き方」を無くしてしまった
本来は宗教的意味合いのあった「平等」という言葉が、「誰でも物質的な豊かさを追求する権利がある」という意味に変わり
「物質的豊かさを求める権利を保障する制度こそ民主主義なのだ」と、アメリカ人はそのように考えている。。。
というわけです
私はトクヴィルの本を読むにつけ、アメリカの民主主義の本質をよく理解できたような気になってきました(笑
要は、「欲望を追求することを肯定する」のが、アメリカ人の民主主義なわけです
そこに「善悪を分ける宗教的価値観」というものがありません。。。
つまり、「物質的豊かさを求める権利」が、「善悪を分ける宗教的価値観」より大事なわけです
そのように考えると、アメリカの学問は、まさにそのような思想をベースに成り立っていることがよく分かります
よく日本の保守派が批判する「新自由主義経済学」は
まさにそのような、アメリカ的民主主義の価値観を持っている人々に支持を受けているわけです
私は、ハイエク教授などは、全然別の価値観を持たれた方であり、一口に「新自由主義」と切って捨てるべきではなく
むしろハイエク教授を良く学ぶべきだと思っておりますが
ハイエク教授の思想を支持する人々の中に、アメリカ的民主主義の価値観を持っている人が沢山いて、都合よく利用していることもまた確かです
話は変わりますが、最近はニュースで大手中古車販売業者「BIG MOTOR」の話題が沢山流れています
ビッグモーターが問題になっていることは、要は保険金詐欺問題なわけですが
このビッグモーター事件を見ていて、事の本質は、トクヴィルの「アメリカの民主主義」の抱える問題そのものなのではないか?
と思うわけです
要は、「人間として正直であること」というのが、人間の生き方として、非常に価値が低くなっているのではないでしょうか?
分かりにくい言い方になりましたね(笑
言い直すと、「正直に生きることとお金儲けをすること、あなたにとってどちらが価値がありますか?」ということなんです
ビッグモーターの社員たちは、もう感覚的に、「それは詐欺である」という罪悪感を失っていたのではないかと思います
会社の方針に沿って、「保険を使って、より簡単に儲ける方法」を、みんなが選んでしまった。。。という事だと思います
要は「バレなきゃいい」わけで、この価値観が、非常に「アメリカの民主主義」的なんですよね
努力して売り上げを伸ばすように努めるのではなく、手っ取り早く「保険会社を騙して豊かになろう」、というわけです
ここに、「人間として正直に生きる」という事の価値が失われているのを感じるわけです
結論を申しあげますと
私は、「人間は死ねばすべて終わり、来世も生まれ変わりもない」。。。そのような世界なら、アメリカの民主主義は肯定されるとおもいます
しかし、本来の世界はそのようなものではありません
私自身のつたない経験からも、「人間は死ねばすべて終わる」ようなものではないと、そのように私は理解しています
善悪を分ける宗教的価値観は、それほど価値の低いものでもありません
人間は、ただ金儲けをして成功することにこそ価値がある。。。わけではなく、その成功のプロセスの中に「魂の成長」がなければならないのです
人間は魂として何度も何度も生まかわってきていますが、その理由は
「何度も生まれ変わって心を磨くことが、一時的な物質的豊かさよりも価値がある」からです
実際、心の世界の価値観と、この世的、三次元的な価値観とでは、大きく異なるものがあります
それは、心の世界においては、「善悪の価値観」がはっきり分けられるということです
この世では詐欺を行って豊かになっても、努力して豊かになっても、その結果は変わりませんが
あの世では、両者の違いは明確になるわけです
過去、ユダヤ教もキリスト教も仏教もイスラム教も、世界宗教と呼ばれる根本宗教には、善悪の教えが必ず含まれています
汝、殺すなかれ、盗むなかれ、むさぼるなかれ、姦淫するなかれ
こうした教えは、ただのお題目ではないわけです
宗教的価値観。。。これが失われている事こそ、ビッグモーター事件の本質。。。今の日本の根本的な問題
人間として正直であること
この価値を見直すべき時にきていると思います
見逃したドラマや、邦画、洋画を無料で配信していたりするので、ありがたく拝聴しています
先日、洋画の無料配信で「バイオハザード」という映画のシリーズを、1話からファイナルまで配信していました
昔、プレイステーションというゲーム機器で、バイオハザードをいくつかプレイしたことがあるので、映画を見てみようという気になりまして
1話から順番に見ていきまして、結局ハマってしまって最後まで見てしまいました
それにしても、バイオハザードはなぜハリウッドでシリーズ化されたのでしょうか?
その理由として、なんとなく、「アメリカ人らしい死生観」が、「バイオハザードの世界観」に近かったのではないか?と感じます
日本発のシューティングゲームには、バイオハザード・シリーズのように「死者がゾンビとしてよみがえる」というのが非常に多いわけです
その「死者がゾンビとしてよみがえる」という感覚が、アメリカ人の感性に近く、共感を呼んだのではないでしょうか?
結論から言いますと、「死者がゾンビになって生者を食い殺す」という死生観は、はっきり言って、「宗教観の未熟さ」に原因があるように思います
肉体がウイルスに感染して、死んだ後に勝手に動き出す。。。ということは、魂の存在を理解しているものにとっては「ナンセンス」でありまして
映画の娯楽としては面白いのでしょうが、実際には、まったく理論が伴なっていないわけです
物質が魂の存在なしで勝手に動き出すなんてこと、本来は絶対にありえないのです
それは、「心は脳みそにあって、ウイルスに感染したら、脳の機能が失われ、ただ本能だけが残る」という考え方が根本にあるのであって
そもそも、脳に心があるという考え方は「唯物論」なのであって、つまり、アメリカ人の宗教観は唯物論と混じり合っているという事だと思います
漠然として、魂と言われてもよく分からない、心は魂ではなくて脳にあるような気がする。。。そんな感じなのでしょう
最近私は、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー(民主主義)」という本を読んでおりまして
その中に書かれていることは、ダラダラと色んなことを長々と書いているので、論点を簡潔に書くのは非常に難しいのですが
要はトクヴィルは、アメリカの民主主義というものは、「アメリカ人(移民)の信仰をもとに発展した唯物論信仰に端を発している」
と言いたいのではないか?と、私はそう感じ、そのように理解しています
中世ヨーロッパに見られたような、宗教的死生観から来る「人としての理想の生き方」を無くしてしまった
本来は宗教的意味合いのあった「平等」という言葉が、「誰でも物質的な豊かさを追求する権利がある」という意味に変わり
「物質的豊かさを求める権利を保障する制度こそ民主主義なのだ」と、アメリカ人はそのように考えている。。。
というわけです
私はトクヴィルの本を読むにつけ、アメリカの民主主義の本質をよく理解できたような気になってきました(笑
要は、「欲望を追求することを肯定する」のが、アメリカ人の民主主義なわけです
そこに「善悪を分ける宗教的価値観」というものがありません。。。
つまり、「物質的豊かさを求める権利」が、「善悪を分ける宗教的価値観」より大事なわけです
そのように考えると、アメリカの学問は、まさにそのような思想をベースに成り立っていることがよく分かります
よく日本の保守派が批判する「新自由主義経済学」は
まさにそのような、アメリカ的民主主義の価値観を持っている人々に支持を受けているわけです
私は、ハイエク教授などは、全然別の価値観を持たれた方であり、一口に「新自由主義」と切って捨てるべきではなく
むしろハイエク教授を良く学ぶべきだと思っておりますが
ハイエク教授の思想を支持する人々の中に、アメリカ的民主主義の価値観を持っている人が沢山いて、都合よく利用していることもまた確かです
話は変わりますが、最近はニュースで大手中古車販売業者「BIG MOTOR」の話題が沢山流れています
ビッグモーターが問題になっていることは、要は保険金詐欺問題なわけですが
このビッグモーター事件を見ていて、事の本質は、トクヴィルの「アメリカの民主主義」の抱える問題そのものなのではないか?
と思うわけです
要は、「人間として正直であること」というのが、人間の生き方として、非常に価値が低くなっているのではないでしょうか?
分かりにくい言い方になりましたね(笑
言い直すと、「正直に生きることとお金儲けをすること、あなたにとってどちらが価値がありますか?」ということなんです
ビッグモーターの社員たちは、もう感覚的に、「それは詐欺である」という罪悪感を失っていたのではないかと思います
会社の方針に沿って、「保険を使って、より簡単に儲ける方法」を、みんなが選んでしまった。。。という事だと思います
要は「バレなきゃいい」わけで、この価値観が、非常に「アメリカの民主主義」的なんですよね
努力して売り上げを伸ばすように努めるのではなく、手っ取り早く「保険会社を騙して豊かになろう」、というわけです
ここに、「人間として正直に生きる」という事の価値が失われているのを感じるわけです
結論を申しあげますと
私は、「人間は死ねばすべて終わり、来世も生まれ変わりもない」。。。そのような世界なら、アメリカの民主主義は肯定されるとおもいます
しかし、本来の世界はそのようなものではありません
私自身のつたない経験からも、「人間は死ねばすべて終わる」ようなものではないと、そのように私は理解しています
善悪を分ける宗教的価値観は、それほど価値の低いものでもありません
人間は、ただ金儲けをして成功することにこそ価値がある。。。わけではなく、その成功のプロセスの中に「魂の成長」がなければならないのです
人間は魂として何度も何度も生まかわってきていますが、その理由は
「何度も生まれ変わって心を磨くことが、一時的な物質的豊かさよりも価値がある」からです
実際、心の世界の価値観と、この世的、三次元的な価値観とでは、大きく異なるものがあります
それは、心の世界においては、「善悪の価値観」がはっきり分けられるということです
この世では詐欺を行って豊かになっても、努力して豊かになっても、その結果は変わりませんが
あの世では、両者の違いは明確になるわけです
過去、ユダヤ教もキリスト教も仏教もイスラム教も、世界宗教と呼ばれる根本宗教には、善悪の教えが必ず含まれています
汝、殺すなかれ、盗むなかれ、むさぼるなかれ、姦淫するなかれ
こうした教えは、ただのお題目ではないわけです
宗教的価値観。。。これが失われている事こそ、ビッグモーター事件の本質。。。今の日本の根本的な問題
人間として正直であること
この価値を見直すべき時にきていると思います