安い税金と小さな政府を切望するふきあえずのブログ

安全で暮らしやすい日本をつくりたい
そんな想いを綴っていくブログにしたいと思います

Aさんその後。。。霊言は本当にあるのか?

2023-03-12 03:14:07 | 政治
Aさんのその後について、少しふれておこうと思います
正直、私としてもここまで酷い霊障案件は経験がなかったので、私自身も彼女を立ち直らせることができるかどうかは未知数でした
どれほど酷いかというと、私と話している時に突然違う個性が出てきて話始めるわけです
精神医学的に言えば、完全に「多重人格症」というものでした

特に男性霊が出てくることが多いのですが、私が数えたところでは、個性として出てきたのは、男性4人、女性2人~3人でした
最初に出てきた個性は土佐弁を使う戦国武将を名乗る霊でした。。。この人が出てきたときは特に激しい怒り波動が強く
私が面談している時でさえ、バチバチとラップ音が鳴っていましたし、私にも刀が空を切るのが見えたりしました
物凄く念力が強く、最初は、この人がAさんの体を”ほぼ”支配していたように感じました
この霊が入ってくると、顔つきも口調もガラッと変わってしまうので、すぐに分かるわけです

次に出てきたのが、ある俳優を名乗る霊でした
この人も念力は非常に強く、特に女性に対する執着心が強く、色情系の地獄霊のようでした
相手には「愛してる」とか「僕は君だけを見てる」みたいなことを常に囁き、Aさんの体を支配して乗っ取ろうとする傾向が強く
肉体に対して特に強い執着を持つのが特徴で、つねに「君を心配しているんだ」とか「君を愛してしまって離れられない」
と、最後までAさんに絡み続けました。。。この霊にはほとほと苦労させられました

3人目に出てきたのは、Aさんの身内(親戚)の女性で、数年前に首吊り自殺をした方でした
最初の頃、私がAさんと面談をしている中において激しい言葉の応酬があり、この女性は「私がAさんをいじめている」ように見ていました
そして、この自殺女性が「私を懲らしめるため」と称して、なぜかAさんに自殺未遂をさせ、騒ぎを起こしました
その騒動のあと、私がAさんを通じてこの女性と面談をしたところ、この女性は本音として、最後はこんなことを語ってきました
「Aちゃんがあなたと話している時、私もAちゃんと一緒にいたの、それで私ももしかしたら救われるんじゃないか?って思って
それでAちゃんが自殺騒ぎをおこしたら、あなたが来てくれるんじゃないかと思ったの、でも、本当にAちゃんを殺すつもりはなかったの
ごめんなさい、本当にごめんなさい。。。どうしていいか、自分でもわからなかったの。。。気がついたらAちゃんの首を絞めていたの」
そこで私は、この女性が自殺した後、迷ってAさんの周辺や家族の周りをうろうろとさまよっていたことを知りました
自殺霊は死後の行き場所がなくて迷い、地縛霊となって、何度も何度もその場所で自殺を繰り返したり、他人を自殺に引きずり込んだりします

4番目に出てきたのは、最初に出てきた戦国武将の弟だったという人で、影武者を務めていた人物だと名乗ってきました
この人は迷っているのだろうとは思うのですが、それでも、この人がAさんに入ってくると、理性的な発言が多くなり
ガラッと発言の内容が変わるのです。。。まことに不思議でした
この影武者の霊は、最初の戦国武将が死の間際、息子の死によって精神的におかしくなってしまったことから
戦国武将を気遣い、彼を助けに来たと言っておりました

5番目に出てきたのは、Aさんのお祖父さんでした
この方は、幼い頃のAさんに精神的なトラウマを植え付けた方で、特に家長意識が強く、「家長であるわしが一番偉いんだ」
と言ってはばからなかったそうです
そういう性格なので、「わしの言うことを聞け」と言ってくることが多く、Aさんに「わしを供養しろ」と何度も言ってきました
特に、この方は弘法大師空海を強く信仰しており、何度も何度もAさんに般若心経をあげて供養しろと言ってきました

6番目に出てきたのは、Aさんの地元の神社に祀られている氏神を名乗る女性でした
この方は私が経文読誦するのを聞いて何か悟るところがあったらしく、泣きながら出てきて、私に何度もお礼を言っていきました
地元の氏神には戦国時代に滅ぼされた武将が祀られており、でてきたのはその武将の娘で
その時代に人質に取られていたらしいことを語っていました
Aさんが自分の部屋に、その氏神のお札を祀っていたので、その関係で縁が出来ていたのかもしれません

まだほかにも出てきたんですが、この6名とも、明らかにAさんとは個性も話し方も違いました
こうしてみると、霊媒体質というのは本当に厄介なものでもあります

Aさんを観察していてわかったことですが
割と最初に出てきた念力の強い男性霊に体を乗っ取られたときには
Aさんはほぼ記憶を無くしており、自分で何をしゃべったのか全く記憶がありませんでした
ですが、途中からでてきた親戚の自殺女性などが出てくるときには、比較的、出てきてしゃべりたがっている。。ということで
Aさん自身が、意図的に彼女たちを呼んでしゃべらせている感じでした
つまり、かかってくる憑依霊によって、完全に記憶を喪失する場合。。。つまり体を乗っ取られる場合と
ある程度コントロールできる場合と、2種類あったわけです

こうしてみると、やはり霊が体に入ってしゃべる「霊言」というものは、あると言わざるを得ません
私自身はやはり実体験からも、霊言はある、と思います
そして、霊言にはやはり2種類あって、「本人がコントロールできるもの」と「全くコントロールできなくて、体を乗っ取られるもの」
の2つのパターンがあるわけです
一つ目の例がいわゆる「霊言」であって、記憶を失わず、自分の理性を保ちながらしゃべる方法。。。Aさんは理性を保ってはいませんでしたので
完全な霊言とまでは行かないと思いますが。。。むしろイタコに近いかもしれません
そして二つ目の例は、いわゆる「イタコ」とか「口寄せ」とかいうものです
トランス状態になって、霊に体を支配させてしゃべるもので、こうなると極めて危険な状態になります

今現在のAさんですが、最初の頃に比べて、随分と心のコントロールができるようになってきました
まだ少し霊障気味ですが、それでも最初の頃のひどさを知っている私としては、希望を持てる状態になりつつあります
ときどき、理性を喪失しそうになることもありますが、今後のAさんの精進次第で、もっと良くなるのではないかと思います

今日も遅くなりました。。。これぐらいで終えたいと思います
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神道の寄進や浄財は基本的に商売の理論の延長でしかない

2023-03-11 01:50:17 | 日記
新宗教に対する寄付やお布施を勘違いしている人がとても多いのに驚きます

四国八十八か所には、昔から「お接待」という風習があります
「お接待」とは、四国八十八か所を回るお遍路さんに、一夜の宿をお貸ししたり、お茶やお菓子、ご飯などの賄いをすることです
随分廃れたとはいえ、こうした、心温まる昔ながらの風習が、いまだに四国では見られます
ところが。。。弘法大師空海をこよなく敬愛し、信仰している私の知り合いの方がいるのですが
その方が「お接待」の本当の意味を知らなかったのに驚いた経験があります
その方が、お接待を素晴らしい風習だとして弘法大師をほめちぎるのですが、実はその意味を理解していなかったのです

「お接待」とは、実は「布施行」なのです
それも、「在家の仏教徒(優婆塞うばそく:出家していない仏教徒のこと)の仏道修業」そのものなのです
昔、お釈迦様の時代に、お釈迦様は弟子たちにこう教えていました
「お前たちは乞食ではない、だから布施を受けるときは毅然として受けなさい、お前たちは在家の者たちに布施の尊さを教えているのである」
釈迦教団の出家者たちは、心の修業をする人びとでした
ですから、厳しい心の修業をしており、在家の人々に、心の大切さを説く仕事をしていました
そういう尊い修行者に対して布施をすることは、これは在家の人々にとって、「心の修業」つまり
「尊いものに自らの収入の一部を分け与える。。。布施する」という仏道行為だったのです
つまり、「何が一番尊い事なのか?」を教えるために、布施行というものがあったのです
在家の人たちは修行者や釈迦にお布施をするが、お釈迦さまが在家の人々に与えるのは、実は「心の教え」そのものでした
お釈迦様は、「心の教え」こそが本当に尊いものであり、それを伝える僧侶たちに供物を布施することは尊い事である、と教えていたのです
この前提をよく覚えておいてください。。。仏道修行の「布施行」とは商売じゃないんです
「お金を払って品物を買う」。「お金を払ってこの世的な利益を得る」というものではないのです

そしてももう一つ、仏道修行の布施行には、重要な修行徳目がありました、それが「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」です
三輪とは「施者」、「受者」、「施物」の三つを言います
つまり、布施を出す者の心、布施を受け取る者の心、布施そのもの、この三つに穢れがあってはいけなかったのです
布施を出す者が盗みを行っていたり、人をだましていたり、布施を出しても見返りを求めていたりすると、清浄ではないとされます
布施を受ける人の場合も施者と同じ、心に穢れがあってはダメなのです
そして、施物。。。つまり、人を騙して得たお金だとか、人を殺して得たお金だとか、そういうものは布施として認められません
こうしたことが、釈迦教団では重要な布施の徳目としてありました

また、仏教には「心の教え」がありましたが、なぜ「心の教え」が尊いとされていたのでしょうか?
それはつまり、仏教には霊的な世界観の教えがあったからだ、と言っておきたいと思います
人間は偶然にできたタンパク質の塊じゃない。。。人間の本質は魂であり、本来は霊である
だから、人間の死後、どのような世界に帰ることになるか?は非常に重要なことだったわけです
仏教は「善因善果、悪因悪果」を教えました
心と行いが良ければ良い世界(天界)に帰り、悪ければ悪い世界、つまり地獄に帰ることになる。。。
世界宗教となった宗教には、いずれも生前の生き方に応じて死後の世界の善悪が分かれる、という教えがありました
それが世界宗教の普遍性であり、世界基準なのです

そしてここからが本題ですが。。。これを日本神道に当てはめたらどうなるでしょうか?
実は、神道には死後の世界があるようでないのです
実際、神道の神主さんなどに、「死後の世界」について聞いても、ほとんどの人が「分からない」と答えます
それはそうです。。。神道では、あの世の世界ですら曖昧な世界であり、天国地獄があるのかさえも、教えの中に存在しないのです
つまり、「善因善果、悪因悪果」がはっきりしないのです
恨みつらみをもって死に、死後に怨霊になっても、「あんたは神様だ」と言って祀り上げてしまいます
怨霊をなぜ神様扱いするか?それは、「生きた人に祟りが来ないようにするため」です
つまり、この世に生きている人が安泰に暮らすために、怨霊を神様として祀り上げるわけです
だから、「怨霊が地獄に落ちて悪魔になってる」なんてことを言い出しては困るわけです(笑)
でも、実際には怨霊になった人は地獄に落ちているでしょう。。。
そして、地獄に落ちた人を神様に祀り上げる人などいないでしょう。。自分も地獄に引きずり込まれては困りますのでね

神道の寄進や浄財についても同じことが言えます
神道の寄進は、「あの世」もなければ「天国・地獄」の区別もないので、寄進や浄財を投げ入れるのは何のためかというと
基本的に「現世利益のため」という事になります
「結婚」「出世」「金儲け・商売繁盛」「家内安全」「厄除け」
こうしたことです
神社では、たまに社殿を建て替えるための寄進などもありますが、これもまた、成仏を願うためというよりも、商売繁盛のためなどでしょう
つまり、心の教えを広げたり、来世の幸福を祈ったりするためではないわけです
基本的に神道の寄付行為はギブ&テイク、つまり、商売と同じ理論という事になります。。。身もふたもない言い方ですけどね
「お金を出すからおかげ(現世利益)を頂戴ね」というわけです
しかも、お願いする相手が怨霊だったり妖怪だったりするわけですね(笑)

まあこうしたことが本日の結論です
異論がある方もいらっしゃるでしょうが、基本的に日本人が「布施の精神」を誤解しているのも
神道の現世利益を求める祈り方や礼拝に根本的な原因があるような気もします

それでは、長くなりますのでこのへんで
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永田町は八百万の妖怪の集い来たる場所

2023-03-09 01:04:54 | 政治
前回の格俳句の出来が自分なりにたいへん気に入ってしまったので、感じるままに思ったことの続きを書きます

前回の格俳句②の解説に書いたように、とあるユーチューブのコメントで書かれていた内容が、私の心に非常にヒットしてしまいました
まさに「我が意を得たり!!」の心境でした
考えてみれば、古事記にも日本書紀にも、心の教えらしきものはほとんどありませんが、よく出てくるのは、「怨霊を鎮める処世術の話」です
例えば、高天原の天照大神の意向で、出雲の国の大国主に「国譲り」をさせたという事、これは国を譲らせたと書いてはいるが
実際は、「武力による威圧によって国を明け渡させた」ということでしょう
日本神道は基本、「勝てば官軍」なので、勝った高天原勢力の側がその正当性を主張し
「神の意向により」みたいなことを書いているのは、これはよくある「権威づけのための創作神話」でしょうね
しかしながらその高天原勢力は、「天から降りてきた神々」とされてはいますが、実にこの世的・現実的で、処世的な神として描かれています

これまで、「日本神話は神話として、そのまま受け入れることが正しい」、「日本神話の最高神は天照大神」
という神話をそのまま受け入れることが美徳とされ、私もそれを良しとして受け入れてきたわけですが
最近、この天照信仰に疑問があり、本当に最高神としての資格をお持ちなのだろうか?と、疑問に感ずるところがあります
私は、これまでならそれを受け入れてもいいと思っていましたが、今は少し意見が違います
なぜなら、やはり天照信仰は「形だけの形式や儀礼はあるが、教えの中身がない」と率直に感ずるからです

正直、私は今、相当きわどいところまで切り込んでいる自覚があります。。。正直、やばい感じも受けるのですが
それでも、「神道に世界宗教としての資格があるか?」ということは明らかにして
「その教えを世界に広げるだけの資格があったのか?」ということは、後世の歴史において問われるべきでしょう
大東亜戦争においては、「八紘一宇」という精神をアジアに広めようとしたわけで、「何を世界に広げようとしているのか?」
を問うことは、人間心で考えるよりも、もっと重要な意味を含んでいるように思うからです

先ほどの「出雲の国譲り」の神話の話に戻りますが
出雲の国を国譲りさせた後、高天原勢力の末裔たちは、出雲の大国主と民たちを、「壮大な社を建造して神様に祀り上げる」
という見事な処世術を見せました。。。要するに、出雲の国民の恨みを恐れたわけです
そして、後世の天皇家と大国主の子孫との婚姻関係を結び、「親戚づきあい」を始めたわけですよ
要は、処世的に懐柔したわけですね
これが、「神の正義」が高天原側にあったというならば、怨霊封じも、処世的な懐柔も、せずともよかったわけです
それで、怨霊封じや懐柔を行ったうえで、「われらに神の正義があった」と、古事記などで控えめに神話にして、自らの正当性を主張しているわけです
どうもね。。。こんなのを見ると、今の永田町の妖怪が使う調整の論理と相通ずるものを感じてしかたないのですよ、私はね
日本神話を神話と見てそのまま受け入れるのはいいんですが、とても不純に見える永田町の論理が、そのまま古事記の世界なのです
これはいかんともしがたいですね

まあ、こういった話は今後も続けていきますので、少しずつ、慌てないでやっていきましょう
それではまた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の保守を名乗る人たちが唯我独尊である理由。。。これで合点がいった話

2023-03-08 15:31:37 | 政治
今日は格俳句(かくはいく)風に書くとします
各俳句とは、5・7・5調にとらわれることなく、思いを言葉にする俳句だそうです

俳句① 神様の、生まれ変わりはやはり唯我独尊か?

解説)日本の天皇陛下大好きな保守の方たち、いつも思う事だが、彼らから自分の非を認める発言や「自分が間違った」という謝罪を聞いたことがない
特に保守の人で仲が悪い人は多いらしい、そりゃそうでしょ。。。唯我独尊が神道の八百万の神々の本質、ならばその生まれ変わりも。。。。。。。
日本の保守の方々はいったい誰の生まれ変わりなのか?

俳句② 怨霊を、怒らさぬすべこそ「調整」か?永田町には八百万の妖怪ばかり

解説)あるユーチューブのコメント欄に秀逸なコメントがあった。日本神道には教えがなく、あるのは「怨霊を怒らせないための祀り上げ処世術」と、「本音と建て前を使い分け、敵を作らないようにするための処世術としての礼儀作法」の教えがメイン
考えてみれば、日本神道には怨霊を折伏したり説得したりする心の教えがない、いつも怨霊や呪いを恐れ、他人から恨まれないようにしながら、のらりくらりと責任を回避し、相手を「神様だ」とおだて上げたりする。。。まるで永田町を見ているようだ。。。日本神道の神々は永田町と親和性がある?


たま~にこんなのもいいですね


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本神道の本質は半唯物論的ご利益信仰?

2023-03-08 00:16:58 | 日記
詳細は申せませんが、私は仕事柄、高齢者とのお付き合いがとても多い人間です
ですので、個人的お付き合いのある高齢者もとても多いわけですが、その限られた人間関係の中でも、「信仰」を持つ方はとても多く
その「信仰」が原因と思われる、「霊障」がとても多いことに驚くことがあります

特に多いのが、「お札」と称するものを持っている高齢者ですね。。ヘビの絵が描かれたものや
我々には意味不明な梵字が書かれたような「お札」など、諸々ですね
梵字などは、修験道の開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)が、優婆塞(得度していない在家の仏教徒)でもあったことから
神道系の修験道の「お札」などが、そういう梵字で書かれてるものも沢山ありますし
それから、稲荷信仰や犬神信仰や大蛇信仰のお札やお守り、掛け軸などですね。。。こうしたものも案外多いようです
私が見るに、信仰深くてお札や掛け軸などを沢山持っている人に、重度の霊障になっている人が多く見受けられる傾向があります
これはまあ「触らぬ神に祟りなし」とよく言いますけれども、その「神」に触ってしまったわけです

そういう、信仰深くて、かつ霊障になっている人に多いのが、アニミズム系の「ご利益信仰」ですね。。。これは明らかだと思います
私がよく話題に出す高齢者女性Aさんも、以前は滝つぼに祀られている竜神信仰の熱心な信仰をお持ちでした
そのAさんが数年前、私に助けを求めてきたときに、私に切々と語った言葉が
「こんなに長年まじめに信仰を続けてきたのに、いまさら何でこんな思いをして苦しめられなければならないのでしょうか?」
ということでした。。。そう、つまり、信仰を長く熱心に続ければ続けるほど霊障は酷くなり、抜き差しならないものになるのです
こうした信仰に共通しているのが、だいたい「ご利益系の信仰」なのです
Aさんも、最初は軽い気持ちで信仰に入ったようですが、人生の折々において、「信仰のご利益を得た」という事で
このご利益信仰から離れられなくなったようです

こういうご利益信仰にどっぷりつかった方の傾向として、「この世の出世やお金などが得られれば信仰する」という傾向が強いのです
要するに、物欲が強い傾向があるのです。。。出世欲や名誉欲なども同じです
ですから、非常にこの世的で唯物論的傾向が強いのが特徴です
この手の信仰をお持ちの方は、傾向としては「神頼み」で、利益や出世、名誉を求める傾向があります
何かが上手くいかなかったときには、「信仰心が足りなかった」と考える傾向もあります
つまり、S学会系の信仰も同じですが、「上手くいかない人は信心が足りない」と考える傾向があり、ますます信仰にのめり込みます
私が見ている限り、そこには「微妙なすり替え」があるように思うのです

つまり、「上手くいかないのは自分の努力精進が足りないから」と考えるのが、まっとうな人の考え方ですが
ご利益型の信仰をお持ちの方はどちらかというと、「自分の努力不足や考え方の間違い」を反省する傾向が少ないのです
これが、「信仰しても救われない」人の傾向性ですが、長年熱心に信仰を続けていると
「こんなに信仰深いのに、何で私は救われないのか?」と、本当に意味が分からなくなってしまうようなのです
私は最近、弘法大師空海への熱心な信仰を持っていたある男性が、死後迷ってお孫さんに「供養しろ」と何度も言ってくるのを真の当たりにして
「信仰が、ご利益を求める事が中心の信仰になると、自分の生き方の間違いに気がつかなくなる」という事に気づきました
そうです、弘法大師への信仰であっても、弘法大師に「ご利益」を求めるだけの信仰では、死後救われないのです

もちろん、神社への参拝を悪いことだとは私は思わないんですが
神道は、基本的にご利益型の信仰がとても多いのです。。。
信仰形式も「学業成就にご利益がある」とか「結婚や縁結びにご利益がある」、「お金儲けにご利益がある」などです
本来、信仰にはそのような現世利益ばかりを求めるべきではなく、ちゃんと、来世の幸福も約束されるべきだと私は思います
神道の根本的な欠点として、私は「神道の世界観には天国も地獄も存在せず、この世しかない」ということをあげておきたいと思います
不十分ながら、キリスト教には「来世の幸福」や「天国に帰るための思想」がありましたし
最近のご利益型で唯物論的な仏教ではなく、原始仏教にはもっとカッチリとした「来世の幸福」のための思想がありました
ここは、最近のアニミズム傾向を強める、最近の神社ブーム、パワースポット巡りブームに警鐘を鳴らしておきたいと思います
「触らぬ神に祟りなし」なんですよ皆さん。。。現世利益を求めてパワースポット巡りばかりしていると
余計なおまけまでくっついてきて、あとで取り返しがつかないことになる。。。やもしれません

今日は長くなるのでここまでとします
いつも私のつたない日記をご覧いただき、誠にありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする