新宗教に対する寄付やお布施を勘違いしている人がとても多いのに驚きます
四国八十八か所には、昔から「お接待」という風習があります
「お接待」とは、四国八十八か所を回るお遍路さんに、一夜の宿をお貸ししたり、お茶やお菓子、ご飯などの賄いをすることです
随分廃れたとはいえ、こうした、心温まる昔ながらの風習が、いまだに四国では見られます
ところが。。。弘法大師空海をこよなく敬愛し、信仰している私の知り合いの方がいるのですが
その方が「お接待」の本当の意味を知らなかったのに驚いた経験があります
その方が、お接待を素晴らしい風習だとして弘法大師をほめちぎるのですが、実はその意味を理解していなかったのです
「お接待」とは、実は「布施行」なのです
それも、「在家の仏教徒(優婆塞うばそく:出家していない仏教徒のこと)の仏道修業」そのものなのです
昔、お釈迦様の時代に、お釈迦様は弟子たちにこう教えていました
「お前たちは乞食ではない、だから布施を受けるときは毅然として受けなさい、お前たちは在家の者たちに布施の尊さを教えているのである」
釈迦教団の出家者たちは、心の修業をする人びとでした
ですから、厳しい心の修業をしており、在家の人々に、心の大切さを説く仕事をしていました
そういう尊い修行者に対して布施をすることは、これは在家の人々にとって、「心の修業」つまり
「尊いものに自らの収入の一部を分け与える。。。布施する」という仏道行為だったのです
つまり、「何が一番尊い事なのか?」を教えるために、布施行というものがあったのです
在家の人たちは修行者や釈迦にお布施をするが、お釈迦さまが在家の人々に与えるのは、実は「心の教え」そのものでした
お釈迦様は、「心の教え」こそが本当に尊いものであり、それを伝える僧侶たちに供物を布施することは尊い事である、と教えていたのです
この前提をよく覚えておいてください。。。仏道修行の「布施行」とは商売じゃないんです
「お金を払って品物を買う」。「お金を払ってこの世的な利益を得る」というものではないのです
そしてももう一つ、仏道修行の布施行には、重要な修行徳目がありました、それが「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」です
三輪とは「施者」、「受者」、「施物」の三つを言います
つまり、布施を出す者の心、布施を受け取る者の心、布施そのもの、この三つに穢れがあってはいけなかったのです
布施を出す者が盗みを行っていたり、人をだましていたり、布施を出しても見返りを求めていたりすると、清浄ではないとされます
布施を受ける人の場合も施者と同じ、心に穢れがあってはダメなのです
そして、施物。。。つまり、人を騙して得たお金だとか、人を殺して得たお金だとか、そういうものは布施として認められません
こうしたことが、釈迦教団では重要な布施の徳目としてありました
また、仏教には「心の教え」がありましたが、なぜ「心の教え」が尊いとされていたのでしょうか?
それはつまり、仏教には霊的な世界観の教えがあったからだ、と言っておきたいと思います
人間は偶然にできたタンパク質の塊じゃない。。。人間の本質は魂であり、本来は霊である
だから、人間の死後、どのような世界に帰ることになるか?は非常に重要なことだったわけです
仏教は「善因善果、悪因悪果」を教えました
心と行いが良ければ良い世界(天界)に帰り、悪ければ悪い世界、つまり地獄に帰ることになる。。。
世界宗教となった宗教には、いずれも生前の生き方に応じて死後の世界の善悪が分かれる、という教えがありました
それが世界宗教の普遍性であり、世界基準なのです
そしてここからが本題ですが。。。これを日本神道に当てはめたらどうなるでしょうか?
実は、神道には死後の世界があるようでないのです
実際、神道の神主さんなどに、「死後の世界」について聞いても、ほとんどの人が「分からない」と答えます
それはそうです。。。神道では、あの世の世界ですら曖昧な世界であり、天国地獄があるのかさえも、教えの中に存在しないのです
つまり、「善因善果、悪因悪果」がはっきりしないのです
恨みつらみをもって死に、死後に怨霊になっても、「あんたは神様だ」と言って祀り上げてしまいます
怨霊をなぜ神様扱いするか?それは、「生きた人に祟りが来ないようにするため」です
つまり、この世に生きている人が安泰に暮らすために、怨霊を神様として祀り上げるわけです
だから、「怨霊が地獄に落ちて悪魔になってる」なんてことを言い出しては困るわけです(笑)
でも、実際には怨霊になった人は地獄に落ちているでしょう。。。
そして、地獄に落ちた人を神様に祀り上げる人などいないでしょう。。自分も地獄に引きずり込まれては困りますのでね
神道の寄進や浄財についても同じことが言えます
神道の寄進は、「あの世」もなければ「天国・地獄」の区別もないので、寄進や浄財を投げ入れるのは何のためかというと
基本的に「現世利益のため」という事になります
「結婚」「出世」「金儲け・商売繁盛」「家内安全」「厄除け」
こうしたことです
神社では、たまに社殿を建て替えるための寄進などもありますが、これもまた、成仏を願うためというよりも、商売繁盛のためなどでしょう
つまり、心の教えを広げたり、来世の幸福を祈ったりするためではないわけです
基本的に神道の寄付行為はギブ&テイク、つまり、商売と同じ理論という事になります。。。身もふたもない言い方ですけどね
「お金を出すからおかげ(現世利益)を頂戴ね」というわけです
しかも、お願いする相手が怨霊だったり妖怪だったりするわけですね(笑)
まあこうしたことが本日の結論です
異論がある方もいらっしゃるでしょうが、基本的に日本人が「布施の精神」を誤解しているのも
神道の現世利益を求める祈り方や礼拝に根本的な原因があるような気もします
それでは、長くなりますのでこのへんで
四国八十八か所には、昔から「お接待」という風習があります
「お接待」とは、四国八十八か所を回るお遍路さんに、一夜の宿をお貸ししたり、お茶やお菓子、ご飯などの賄いをすることです
随分廃れたとはいえ、こうした、心温まる昔ながらの風習が、いまだに四国では見られます
ところが。。。弘法大師空海をこよなく敬愛し、信仰している私の知り合いの方がいるのですが
その方が「お接待」の本当の意味を知らなかったのに驚いた経験があります
その方が、お接待を素晴らしい風習だとして弘法大師をほめちぎるのですが、実はその意味を理解していなかったのです
「お接待」とは、実は「布施行」なのです
それも、「在家の仏教徒(優婆塞うばそく:出家していない仏教徒のこと)の仏道修業」そのものなのです
昔、お釈迦様の時代に、お釈迦様は弟子たちにこう教えていました
「お前たちは乞食ではない、だから布施を受けるときは毅然として受けなさい、お前たちは在家の者たちに布施の尊さを教えているのである」
釈迦教団の出家者たちは、心の修業をする人びとでした
ですから、厳しい心の修業をしており、在家の人々に、心の大切さを説く仕事をしていました
そういう尊い修行者に対して布施をすることは、これは在家の人々にとって、「心の修業」つまり
「尊いものに自らの収入の一部を分け与える。。。布施する」という仏道行為だったのです
つまり、「何が一番尊い事なのか?」を教えるために、布施行というものがあったのです
在家の人たちは修行者や釈迦にお布施をするが、お釈迦さまが在家の人々に与えるのは、実は「心の教え」そのものでした
お釈迦様は、「心の教え」こそが本当に尊いものであり、それを伝える僧侶たちに供物を布施することは尊い事である、と教えていたのです
この前提をよく覚えておいてください。。。仏道修行の「布施行」とは商売じゃないんです
「お金を払って品物を買う」。「お金を払ってこの世的な利益を得る」というものではないのです
そしてももう一つ、仏道修行の布施行には、重要な修行徳目がありました、それが「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」です
三輪とは「施者」、「受者」、「施物」の三つを言います
つまり、布施を出す者の心、布施を受け取る者の心、布施そのもの、この三つに穢れがあってはいけなかったのです
布施を出す者が盗みを行っていたり、人をだましていたり、布施を出しても見返りを求めていたりすると、清浄ではないとされます
布施を受ける人の場合も施者と同じ、心に穢れがあってはダメなのです
そして、施物。。。つまり、人を騙して得たお金だとか、人を殺して得たお金だとか、そういうものは布施として認められません
こうしたことが、釈迦教団では重要な布施の徳目としてありました
また、仏教には「心の教え」がありましたが、なぜ「心の教え」が尊いとされていたのでしょうか?
それはつまり、仏教には霊的な世界観の教えがあったからだ、と言っておきたいと思います
人間は偶然にできたタンパク質の塊じゃない。。。人間の本質は魂であり、本来は霊である
だから、人間の死後、どのような世界に帰ることになるか?は非常に重要なことだったわけです
仏教は「善因善果、悪因悪果」を教えました
心と行いが良ければ良い世界(天界)に帰り、悪ければ悪い世界、つまり地獄に帰ることになる。。。
世界宗教となった宗教には、いずれも生前の生き方に応じて死後の世界の善悪が分かれる、という教えがありました
それが世界宗教の普遍性であり、世界基準なのです
そしてここからが本題ですが。。。これを日本神道に当てはめたらどうなるでしょうか?
実は、神道には死後の世界があるようでないのです
実際、神道の神主さんなどに、「死後の世界」について聞いても、ほとんどの人が「分からない」と答えます
それはそうです。。。神道では、あの世の世界ですら曖昧な世界であり、天国地獄があるのかさえも、教えの中に存在しないのです
つまり、「善因善果、悪因悪果」がはっきりしないのです
恨みつらみをもって死に、死後に怨霊になっても、「あんたは神様だ」と言って祀り上げてしまいます
怨霊をなぜ神様扱いするか?それは、「生きた人に祟りが来ないようにするため」です
つまり、この世に生きている人が安泰に暮らすために、怨霊を神様として祀り上げるわけです
だから、「怨霊が地獄に落ちて悪魔になってる」なんてことを言い出しては困るわけです(笑)
でも、実際には怨霊になった人は地獄に落ちているでしょう。。。
そして、地獄に落ちた人を神様に祀り上げる人などいないでしょう。。自分も地獄に引きずり込まれては困りますのでね
神道の寄進や浄財についても同じことが言えます
神道の寄進は、「あの世」もなければ「天国・地獄」の区別もないので、寄進や浄財を投げ入れるのは何のためかというと
基本的に「現世利益のため」という事になります
「結婚」「出世」「金儲け・商売繁盛」「家内安全」「厄除け」
こうしたことです
神社では、たまに社殿を建て替えるための寄進などもありますが、これもまた、成仏を願うためというよりも、商売繁盛のためなどでしょう
つまり、心の教えを広げたり、来世の幸福を祈ったりするためではないわけです
基本的に神道の寄付行為はギブ&テイク、つまり、商売と同じ理論という事になります。。。身もふたもない言い方ですけどね
「お金を出すからおかげ(現世利益)を頂戴ね」というわけです
しかも、お願いする相手が怨霊だったり妖怪だったりするわけですね(笑)
まあこうしたことが本日の結論です
異論がある方もいらっしゃるでしょうが、基本的に日本人が「布施の精神」を誤解しているのも
神道の現世利益を求める祈り方や礼拝に根本的な原因があるような気もします
それでは、長くなりますのでこのへんで