おそらく、今から11~12年ほど前のことです
当時の私は、自分の「魂のルーツ」というものに、非常に興味を持っており、それゆえに、様々な神社を巡ることがよくありました
有名な神社から地方の村社まで、パワースポット巡りと言うわけではありませんが、「何かを感じ取るため」に訪れていたわけです
その中で、「空っぽ」に近い神社もあれば、「怨念」のようなものを感じる神社もあり、様々な霊感を受けておりました
忘れもしませんが、愛媛県大洲市に少彦名(すくなひこな)神社、という神社があります。。。ここを訪ねた時のことです
神社のあらましを書いておきますが、この神社は少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)と言いまして、少彦名は大国主と一緒に諸国を巡って開拓を行い
愛媛で道後温泉を発見したのち大洲に渡り、最後は肱川を渡ろうとして溺れ、常世(あの世)に行ってしまったと伝えられています
伝説では、大洲市菅田の同神社の裏山そのものが、少彦名の御陵として、山そのものを神として祀っていたものだと伝えられています
まあそうした神社なのですが、私がそこを訪ねて行ったとき、なんと言いますか、それこそあまり良くない「気」のようなものを感じました
建物も、なんというか「うらぶれた」感じがするのです
御陵の山には、どなたかが祀られている感じはあるのですが、なんというか近寄りがたいものを感じさせました
いまにして思えば、その「気」は、廃神社特有のもののような気がするのですが
どうやらこの少彦名神社、十数年ぐらい前まで、廃神社に近い状態だったようなのです
私が訪れた時には、地元有志の和菓子会社の社長様が音頭を取られ、復興に向けて手を尽くされていたようですし
ふもとにほど近いところには、少彦名の名を冠した温泉なども作られており
なんといいますか、観光で有名にすることで、社そのものも復興させている感じが致しました
それでも少しずつ、復興しているようには感じます
ただ、私がこの神社を引き合いに出したのは、単にそういうところだと言いたかったわけではなくて
神社に祀られている神様が、なんというか、「わしを祀らないで、ないがしろにしているのは許せん」みたいな感じで怒っている感じを受けていて
どうも、私の受けた感じだと、神様そのものが何かを妬んでいるか、もしくは怨霊化しているか、のように感じられました
正直私は、日本の八百万の神様には、こういう「嫉妬深さ」や「やっかみ」を感じることがあるわけです
「自分を祀らないなら祟るぞ」みたいな、少し神様としては俗人的な感じで、人間っぽいと言えばいいのでしょうか?
ただ、祀られている神様が本当に少彦名命なのかどうかは私には分かりません。。。
神道系の神様の特徴として、社(やしろ)に祀られている神様は別人であることも多く、決して正体を明かさないことが多いからです
この「正体をあらわさない」、「名前を隠したり偽って名乗ったりする」というところがいかにも妖怪的であり
実は八百万の神々には「妖怪」が多いと、「妖怪にならないための言葉」で紹介されている通りなのではないかと思うわけです
私はこのようなことを書いているわけですが、当然のことながら、日本神道を否定しているわけでも何でもありません
むしろ日本神道の、八百万の神々が好きな人間であることは間違いありませんが
ただ、同書に書かれていることとして
「妖怪は、外見や所作が美しければ心も美しいと考えるが、心が美しければ外見や所作が美しくなる、とは考えない」とあり
まさに、礼儀や所作を重んじるのが日本神道ではありますが、「心の穢れを取り除く方法」については、あまり教えがないのも事実です
「全くない」とは言いません、ですが、心の汚れは大麻(”おおぬさ”と読む、神道の祭司道具の一つ)でお祓いをすれば取れるものではありません
怨霊に対し鎮魂(”みたましずめ”と読む、神道の用語の一つ)をすれば、怨霊の心が清められるわけでもないのです
確かに神道を信仰し、信仰深く神社参拝を続けている方は素晴らしいと思いますが、それだけで天国に帰れるかと言えば、そうはならないわけです
心が美しくなければ、天国には帰れない。。。いかに神社参拝の姿が美しくとも、心が汚れていた場合はダメなのです
八百万の神々が、自分に信仰を集めたがる理由はよくわかります
妖怪は、自分の本音である「嘘やごまかし」を上手に隠して、美辞麗句を使って自分に信仰を集めようとします
それは、信仰を集めることで、霊力が増すからです
日本の民族神の歴史は、争いの歴史であり、「強い方が官軍となり表の世界に君臨する」わけであって
「勝って霊力を増したものが一番正しい」と考えてきたからです
ただ、日本神道が世界宗教にならなかったのは、その教えの中に「普遍性」が欠けているからだと私は思います
何が正しくて何が間違っているのか?世界宗教になった仏教やキリスト教には、善悪を分ける「普遍性のある教え」が存在します
妖怪がメジャーになれば「勝った者には反省は必要ない」ということになります。。。これは普遍性のある考え方ではないと思います
神道はそれだけで普遍性を持つことはできませんでした
日本が素晴らしい国になった背景には、仏教や儒教などを取り入れた、「武士道」があったからです
自分の中に眠る妖怪性。。。今回これを反省するきっかけができたこと、本当に幸運でした
心より著者に感謝の思いをささげたいと思います
当時の私は、自分の「魂のルーツ」というものに、非常に興味を持っており、それゆえに、様々な神社を巡ることがよくありました
有名な神社から地方の村社まで、パワースポット巡りと言うわけではありませんが、「何かを感じ取るため」に訪れていたわけです
その中で、「空っぽ」に近い神社もあれば、「怨念」のようなものを感じる神社もあり、様々な霊感を受けておりました
忘れもしませんが、愛媛県大洲市に少彦名(すくなひこな)神社、という神社があります。。。ここを訪ねた時のことです
神社のあらましを書いておきますが、この神社は少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)と言いまして、少彦名は大国主と一緒に諸国を巡って開拓を行い
愛媛で道後温泉を発見したのち大洲に渡り、最後は肱川を渡ろうとして溺れ、常世(あの世)に行ってしまったと伝えられています
伝説では、大洲市菅田の同神社の裏山そのものが、少彦名の御陵として、山そのものを神として祀っていたものだと伝えられています
まあそうした神社なのですが、私がそこを訪ねて行ったとき、なんと言いますか、それこそあまり良くない「気」のようなものを感じました
建物も、なんというか「うらぶれた」感じがするのです
御陵の山には、どなたかが祀られている感じはあるのですが、なんというか近寄りがたいものを感じさせました
いまにして思えば、その「気」は、廃神社特有のもののような気がするのですが
どうやらこの少彦名神社、十数年ぐらい前まで、廃神社に近い状態だったようなのです
私が訪れた時には、地元有志の和菓子会社の社長様が音頭を取られ、復興に向けて手を尽くされていたようですし
ふもとにほど近いところには、少彦名の名を冠した温泉なども作られており
なんといいますか、観光で有名にすることで、社そのものも復興させている感じが致しました
それでも少しずつ、復興しているようには感じます
ただ、私がこの神社を引き合いに出したのは、単にそういうところだと言いたかったわけではなくて
神社に祀られている神様が、なんというか、「わしを祀らないで、ないがしろにしているのは許せん」みたいな感じで怒っている感じを受けていて
どうも、私の受けた感じだと、神様そのものが何かを妬んでいるか、もしくは怨霊化しているか、のように感じられました
正直私は、日本の八百万の神様には、こういう「嫉妬深さ」や「やっかみ」を感じることがあるわけです
「自分を祀らないなら祟るぞ」みたいな、少し神様としては俗人的な感じで、人間っぽいと言えばいいのでしょうか?
ただ、祀られている神様が本当に少彦名命なのかどうかは私には分かりません。。。
神道系の神様の特徴として、社(やしろ)に祀られている神様は別人であることも多く、決して正体を明かさないことが多いからです
この「正体をあらわさない」、「名前を隠したり偽って名乗ったりする」というところがいかにも妖怪的であり
実は八百万の神々には「妖怪」が多いと、「妖怪にならないための言葉」で紹介されている通りなのではないかと思うわけです
私はこのようなことを書いているわけですが、当然のことながら、日本神道を否定しているわけでも何でもありません
むしろ日本神道の、八百万の神々が好きな人間であることは間違いありませんが
ただ、同書に書かれていることとして
「妖怪は、外見や所作が美しければ心も美しいと考えるが、心が美しければ外見や所作が美しくなる、とは考えない」とあり
まさに、礼儀や所作を重んじるのが日本神道ではありますが、「心の穢れを取り除く方法」については、あまり教えがないのも事実です
「全くない」とは言いません、ですが、心の汚れは大麻(”おおぬさ”と読む、神道の祭司道具の一つ)でお祓いをすれば取れるものではありません
怨霊に対し鎮魂(”みたましずめ”と読む、神道の用語の一つ)をすれば、怨霊の心が清められるわけでもないのです
確かに神道を信仰し、信仰深く神社参拝を続けている方は素晴らしいと思いますが、それだけで天国に帰れるかと言えば、そうはならないわけです
心が美しくなければ、天国には帰れない。。。いかに神社参拝の姿が美しくとも、心が汚れていた場合はダメなのです
八百万の神々が、自分に信仰を集めたがる理由はよくわかります
妖怪は、自分の本音である「嘘やごまかし」を上手に隠して、美辞麗句を使って自分に信仰を集めようとします
それは、信仰を集めることで、霊力が増すからです
日本の民族神の歴史は、争いの歴史であり、「強い方が官軍となり表の世界に君臨する」わけであって
「勝って霊力を増したものが一番正しい」と考えてきたからです
ただ、日本神道が世界宗教にならなかったのは、その教えの中に「普遍性」が欠けているからだと私は思います
何が正しくて何が間違っているのか?世界宗教になった仏教やキリスト教には、善悪を分ける「普遍性のある教え」が存在します
妖怪がメジャーになれば「勝った者には反省は必要ない」ということになります。。。これは普遍性のある考え方ではないと思います
神道はそれだけで普遍性を持つことはできませんでした
日本が素晴らしい国になった背景には、仏教や儒教などを取り入れた、「武士道」があったからです
自分の中に眠る妖怪性。。。今回これを反省するきっかけができたこと、本当に幸運でした
心より著者に感謝の思いをささげたいと思います