アメリカでの生活は、言葉の面では大変だったけど
実家のことを考えなくていい分、快適だった。
渡米中に、実家から荷物を送ってもらったことが2回ある。
普通に頼んだって、どうやって送っていいか分からないって言われるだろうし
何よりも送料がかかるから、渡米前にどうやって荷物を送ったらいいのか
丁寧に紙に書いて母に預けた。
1年3カ月の滞在予定だから、半年置きに2回送ってもらえるとして
考えられる最大の送料+手数料。
余ったお金は母に渡るように考えてお金を渡した。
そこまでしないと、ぜ~ったいに荷物なんか送ってくれない。
私宛の郵便物は実家宛てにしていたし
送ってもらう前提にしないと、平気で捨てられちゃうし。
滞在中に確実に1回だけパーティの予定があったから
母の着物を借りて、さすがに帯は自分で買って、持って行った。
着物は着て良かった。『着付け』を習っていて本当に良かったと思った。
もちろん帰国後、着物はクリーニングに出した後にちゃんと母に返した。
帰国後しばらくしてから、長女を妊娠。
その当時、福岡に引っ越していたんだけど
『出産=実家に帰る』が当たり前の雰囲気だったから
私も実家に帰ることにした。
予定日よりも10日遅れた時点で、入院することになった。
母は車の免許を持っていないから、もちろん実家に車はない。
入院中に足りないものがないように念入りに荷物をチェックして
(母には持ってきて欲しいなんて、頼めるわけもなく)
地元の同級生のお父さんがタクシーの運転手をやっていて
母のお客さんということもあり
病院のある市に行く時はうちのタクシーを利用して欲しい!と頼まれていたから
そのお父さんに病院まで連れて行ってもらった。
(もちろん、ちゃんと料金は発生し、片道5000円だった)
あんまり遅れても!と、陣痛促進剤で次の日の朝、6時55分に長女を出産した。
廊下に私を待っている人がいるわけでもなく
自分で自分を励ましながらの出産。
出産後、助産師さんが
連絡つけたい人がいれば連絡をつけてくれるように言ってくれたから、
福岡にいる夫と、実家の母に電話を入れてもらうことにした。
電話から戻ってきた助産師さんが困ったように
私の実家に電話をしたら母が
『こんな朝早い時間に電話されても、電車がないから行けないんですけど!』と
結構な剣幕で言ったそうで…
別に、来て欲しいなんて言ってないし。
『生まれた=見に来い』って言われたみたいだったのが
どうも腹が立ったみたいで。
タクシーで行くのはお金がかかるから嫌だったらしい。
(片道5000円だからね)
本当に、母の発言にはいつも失望する。
これ以上失望することはないんだろうなぁ…と思っていた以上に失望する。
その時に心に誓った。
『私は絶対に死ねない!』
こんな祖母、遺された長女が預けられたら可哀そうすぎる。
もし私が死んだら、夫は一人じゃ無理だとか言って
うちの母に預けそうだと思った。
夫の母は育児をしていないから、もっと無理。
『そして、強い強い母親になろう!』と。
その後、母が来たのはお店が休みの日1回だけ。
退院後、実家に戻ったけど
母が私を休ませるわけもなく…
自分も産後は休んでいないという理由で
アレを買ってこい!とか、普通にお使いを頼んでくる。
一番近いスーパーは片道20分弱。
町内会の用事とかも私に頼んでくる。
だから、産後と言えど、寝ていられなかった。
たま~に昼寝をしていると、母に起こされた。
幸い、長女はよく寝る子で。
長女が寝ている隙に用事を済ますようにした。
びっくしていたのは、ご近所の人達。
あれ?出産したよね?寝てなくていいの?と
遠くまで歩いて用事を済ます時に会うと、車に乗せてくれた。
『あの母親(うちの母の事)じゃ、そういうことさせるよね~』と
私の前で母の悪口を言う人もいた。
伴侶を亡くし、女で一つで3人の子ども達を育て上げた健気な人というのが
母自身の自分のイメージだったんだろうけど
見ている人はちゃんと見てくれているんだなぁ…とちょっと嬉しくなったことを覚えている。
ご近所で、一番若くして祖母になったという、ちょっとした自慢もあり
しばらくハイだったけど
3週間が過ぎた頃から、長女が泣くから、うるさくて眠れない!と言い出して…
長女の1か月健診を終えてすぐに福岡に戻る予定にしていたから
その判断は間違ってなかったと自分を褒めた。
あれ以上実家に長居をしたら
どれだけブチギレされていたか…
もちろん、滞在費はちゃんと払いました。