パフォーマンスを自分の仕事にして34年、いろいろな所に行きました。
汎マイム工房時代には日本の全ての県に行ったと思います。
当時の化粧品会社はテレビCMでキャッチーな曲を有名アーティストに作曲させ春はリップスティク、夏はファンデーション、秋にはチークと季節ごとにメイン商品を決め大々的なツアー商戦をやってました。
ソレガシはカネボウ担当で全都道府県を巡るツアーに参加させてもらいました。
大手デパートの化粧品売り場、ピエロ(クラウン)の扮装で人形振りをやり集客するのが主な仕事です。集まったところでMCさんとモデルさんが登場してプロモーションが始まると言うショー構成でした。
「自分の好きなことをやって、お金がもらえるなんて!」
うひゃうひゃ時代だったなぁ~( 〃▽〃)
海外公演にも2回参加させてもらい(イタリア、フランス)
師匠あらい汎先生には、いろいろなテクニックを伝授して頂きました。
退所してからは遊園地の定点ポイントパフォーマーとして出演。
横浜ドリームランド、西武園ゆうえんち、としまえん遊園地、東京ジョイポリス、ナムコ・ワンダーエッグ、サンリオ・ピューロランドなどで1984年からストレートダンスとパントマイムをミックスした表現でオリジナルショー作りに熱中していました。
「師匠の構成、振り付けじゃなくて、自分で考えたショーがやれるなんて~!」
うひょうひょ時代だったなぁ~(^-^)v
つくば科学万博や横浜大道芸(第二回目から)、大道芸ワールドカップin 静岡(1996年から19回出演)などパフォーマンスブームと共にやってきました。
長野マイムフェス、北九州マイムフェス、韓国マイムフェス、タイ王国マイムフェスなどパントマイムを広める試みの企画には、ソレガシ、スケジュール調整が可能なかぎり参加させて貰ってます。
1981年からの20年は、東京生活。その後は両親の介護の関係もあり福岡に移り住みました。
8年の介護活動の末、両親は他界してしまいましたが、いま考えると本格的にマイム指導をする土壌を作れたことは、とてもラッキーだったと思います。
1週間ほどアメリカ、ラスベガスでのイベントにも出演させてもらい、良い勉強になりました。
日本と海外の観客さんの違いなんですけど海外では、自分が面白いと感じたら他の人が反応しなくても拍手したり笑ったりします。しかし日本では、どうしても周りに気をつかってしまい自分のリアクションが、とりづらい状況があるようです。
もしかしたら基本テレビ文化だったりするからかも知れません。
テレビに向かって拍手したり歓声をする人は、あまりいませんもんね。
それと大道芸などでパフォーマーを見ながら同時に他の観客に見られている感を感じているということかも知れません。
ともあれ奥ゆかしさを尊ぶ国民性が影響しているのは確かだと思います。
それを良い悪いという問題ではないのですが、演技しながら不思議な気はします。
最近は、パフォーマンス中に大いに盛り上がり楽しく演技出来る環境になってきましたね。
常々、思うんですけどソレガシにとってのパフォーマンス感とは、表現者と観客の間に生まれる空気がパフォーマンスという空間になるんだと思います。
卓越した表現者と豊かな感性の観客の間に流れる時間がパフォーマンスなんだ!と思います。
お互いのリスペクトなしではパフォーマンスは成立しません。
自分のパフォーマンスショーを探していた1983年に、ある書籍に出会いました。
マリア・ガブリエル・ヴォジーン著の「神聖舞踏 神々との出あい」です。
内容は、パントマイムとは無縁でしたが、とても興味深かったです。
その本によると世界の舞踊は神事に通じる的な解釈でした。ソレガシ、その本の表紙が魅力的で購入した様な気がします。
購入したCDもそのほとんどがジャケット買いです。
(参考写真その8)
(神聖舞踏の表紙、顔が沢山あるところは、仮面パフォーマンスに、手が沢山あるところは、手いっぱいのジャケットのダンスへと、アイデアが広がりました)
10ヶ月のリハビリ期間の休憩中、繰り返し読んでいました。
古本屋に売らなくて本当に良かったです(笑)
ソレガシは読書は子供の頃から苦手でした。
それでもナカハラ・チュウヤやカネコ・ミスズやタニカワ・シュンタロウなど読みやすそうな本は読んでました。
足が使えなかった期間は映画DVDも沢山みました。
ソレガシはアクション映画好きなので、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェン、ジェイソン・ステイサム、トニー・ジャーなど徒手格闘系のアクション映画を観てました。
そのアクションコーディネーターや振り付け家のセンスに刺激を受けモチベーションを上げてました。
今、振り返ると何とか現場復帰するための起爆剤にしたかったんだと思います。
(つづく)
TEN-SHO
汎マイム工房時代には日本の全ての県に行ったと思います。
当時の化粧品会社はテレビCMでキャッチーな曲を有名アーティストに作曲させ春はリップスティク、夏はファンデーション、秋にはチークと季節ごとにメイン商品を決め大々的なツアー商戦をやってました。
ソレガシはカネボウ担当で全都道府県を巡るツアーに参加させてもらいました。
大手デパートの化粧品売り場、ピエロ(クラウン)の扮装で人形振りをやり集客するのが主な仕事です。集まったところでMCさんとモデルさんが登場してプロモーションが始まると言うショー構成でした。
「自分の好きなことをやって、お金がもらえるなんて!」
うひゃうひゃ時代だったなぁ~( 〃▽〃)
海外公演にも2回参加させてもらい(イタリア、フランス)
師匠あらい汎先生には、いろいろなテクニックを伝授して頂きました。
退所してからは遊園地の定点ポイントパフォーマーとして出演。
横浜ドリームランド、西武園ゆうえんち、としまえん遊園地、東京ジョイポリス、ナムコ・ワンダーエッグ、サンリオ・ピューロランドなどで1984年からストレートダンスとパントマイムをミックスした表現でオリジナルショー作りに熱中していました。
「師匠の構成、振り付けじゃなくて、自分で考えたショーがやれるなんて~!」
うひょうひょ時代だったなぁ~(^-^)v
つくば科学万博や横浜大道芸(第二回目から)、大道芸ワールドカップin 静岡(1996年から19回出演)などパフォーマンスブームと共にやってきました。
長野マイムフェス、北九州マイムフェス、韓国マイムフェス、タイ王国マイムフェスなどパントマイムを広める試みの企画には、ソレガシ、スケジュール調整が可能なかぎり参加させて貰ってます。
1981年からの20年は、東京生活。その後は両親の介護の関係もあり福岡に移り住みました。
8年の介護活動の末、両親は他界してしまいましたが、いま考えると本格的にマイム指導をする土壌を作れたことは、とてもラッキーだったと思います。
1週間ほどアメリカ、ラスベガスでのイベントにも出演させてもらい、良い勉強になりました。
日本と海外の観客さんの違いなんですけど海外では、自分が面白いと感じたら他の人が反応しなくても拍手したり笑ったりします。しかし日本では、どうしても周りに気をつかってしまい自分のリアクションが、とりづらい状況があるようです。
もしかしたら基本テレビ文化だったりするからかも知れません。
テレビに向かって拍手したり歓声をする人は、あまりいませんもんね。
それと大道芸などでパフォーマーを見ながら同時に他の観客に見られている感を感じているということかも知れません。
ともあれ奥ゆかしさを尊ぶ国民性が影響しているのは確かだと思います。
それを良い悪いという問題ではないのですが、演技しながら不思議な気はします。
最近は、パフォーマンス中に大いに盛り上がり楽しく演技出来る環境になってきましたね。
常々、思うんですけどソレガシにとってのパフォーマンス感とは、表現者と観客の間に生まれる空気がパフォーマンスという空間になるんだと思います。
卓越した表現者と豊かな感性の観客の間に流れる時間がパフォーマンスなんだ!と思います。
お互いのリスペクトなしではパフォーマンスは成立しません。
自分のパフォーマンスショーを探していた1983年に、ある書籍に出会いました。
マリア・ガブリエル・ヴォジーン著の「神聖舞踏 神々との出あい」です。
内容は、パントマイムとは無縁でしたが、とても興味深かったです。
その本によると世界の舞踊は神事に通じる的な解釈でした。ソレガシ、その本の表紙が魅力的で購入した様な気がします。
購入したCDもそのほとんどがジャケット買いです。
(参考写真その8)
(神聖舞踏の表紙、顔が沢山あるところは、仮面パフォーマンスに、手が沢山あるところは、手いっぱいのジャケットのダンスへと、アイデアが広がりました)
10ヶ月のリハビリ期間の休憩中、繰り返し読んでいました。
古本屋に売らなくて本当に良かったです(笑)
ソレガシは読書は子供の頃から苦手でした。
それでもナカハラ・チュウヤやカネコ・ミスズやタニカワ・シュンタロウなど読みやすそうな本は読んでました。
足が使えなかった期間は映画DVDも沢山みました。
ソレガシはアクション映画好きなので、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェン、ジェイソン・ステイサム、トニー・ジャーなど徒手格闘系のアクション映画を観てました。
そのアクションコーディネーターや振り付け家のセンスに刺激を受けモチベーションを上げてました。
今、振り返ると何とか現場復帰するための起爆剤にしたかったんだと思います。
(つづく)
TEN-SHO