月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第31回(長井直樹さん(2))

2019-09-25 21:07:49 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第2回は、名作「黎明記」の頃の活動について語っていただきました)

阿部(以下、A) その頃、気球座の在籍が長い方は、ひろみさんのほか、長井さんしかいなかったのですか?
長井(以下、N) いえ、自分らの上にはサブちゃん(原衛三郎)という飯田橋でシェフをしている方とマーちゃん(藤田真由美)、マーちゃんの旦那さんの安田君が気球座に残っていました。
佐々木(以下、S) 長井さんの東マ研(東京マイム研究所)の同期には、誰がいたので
すか?
N 同期には、女性2人がいました。長谷川みかさん(※下の名前の表記は不明です。ごめんなさい)と、高橋真理子さんです。お二人とも、パントマイムを専門の職とはしていなかったのですが、しいなまんのように趣味と一言では片付けられないような、セミプロみたいな方々でした。半年ずれて入ったのがマルさん(丸岡達志)、1年後輩でヒデちゃん(鈴木秀城)、チカちゃん(チカパン)らが入ってきました。
A 長井さんは気球座だったのですか?
N 89年に卒業後公演後、同年に入団しました。その頃の気球座は、5人しか在籍していませんでした。自分の半年前に、前田坊(前田泰男)さんがいたのですが、彼はプロジェクトPさんに移籍しました。安田君とマーちゃんは結婚して2人でイベントすることになったので、早めに辞めてしまったのです。サブちゃんは、結構キャリアを積んでいたのですが、シェフがメインになっていく雰囲気があって、仕事でイタリアに修行に行きました。最後に「ラプソディ」を上演したのはサブちゃんです。
S 藍木二朗さんは?
N 二朗さんは、もう少し後にメンバーが増えてきた頃に入ってきました。実質的に2人しかいなくなってから、その頃は、細川さんとイベントに行ってたり、学校の公演を気球座の正メンバーではなかったのですが、奥田雅史さん、ましゅ(ましゅ&Keiのましゅ)さん、トシちゃん(畠山敏男)らと上演していました。
S 89年に「プレイゾーン」を上演していますが、どのような公演だったのでしょうか。
N 映画みたいな冒険活劇をやりたいという構想があって、当時はインディ・ジョーンズの映画が公開された頃でしょうか。あのような単純明快な冒険活劇をやりたいということで、上演しました。
S どういう方が出演したのでしょうか。
N 細川さん、長井、二朗さんがメインの3人を務め、おいしいとこでちょっとだけ出るのがしいなまん。
S しいなまんさん、おいしい(笑)。
A 気球座のアトリエ公演を、その頃は上演していましたよね。アトリエ公演というのは、中野坂上のスタジオでの公演で、「プレイゾーン」のほかに、ホテルの一室を舞台にした…。
N 「カウントダウンシリーズ」という、1~10という数字に関係して継続した公演の構想がありました。結局、1回だけしか上演できませんでしたが…。「カウントダウンシリーズ№.10」では、同じ場所に色々な人が関わっていくというコンセプトで、ホテルの一室に日替わりで泊まる客の話を上演しました。
S 非常にお芝居的な設定ですね。
N ビジネスホテルに、(夫婦)喧嘩して飛び出してきて泊まることになった女性を細川さん、自分は探偵、二朗さんがサラリーマンかな、それぞれ演じました。その作品がアトリエ公演として最初のアンサンブル公演だったと思います。それまでは、それぞれのソロ公演を上演していました。
S 長井さんもソロ公演を上演したのでしょうか。
N うん、「の~てんき」というタイトルで上演しました。その時に何を上演したのかは、あっ、3分間写真は覚えてます。アトリエ公演でソロ公演を上演したのは、卒業公演ともう1回、全部で2回だったと思います。
S 卒業公演では、何を上演したのでしょうか。
N 卒公は、「3つの願い」というコメディ作品を上演したことを覚えてます。

A ところで、長井さんがいた頃は、並木先生が事務局を担当しておられた日本マイム協会はあったのでしょうか。
N 最後の日本マイム協会の公演(87年12月頃?)には出演しました。
A えっ、出たのですか。
N 並木先生の作品で「風が」という作品に、津野さん、愛也さん、羽鳥さんが出演し、研究生として、自分もアンサンブル作品に出演しました。この当時は錚々たるメンバーでした。細川さんももちろん出演し、当時の東マ研の研究生と気球座劇団員(ほとんどがそののち、プロジェクトPさんに移籍しましたが…)が参加しました。
S 「風が」は、どんな作品でしょうか。
N 「風が」というのは、死の灰が降ったあとを、日々どこに行くあてもなく彷徨って歩いて、で、ふと後ろを振り返ると廃墟になった新宿の高層群があり、そこからストップモーションに入り、7~10分程度ゆっくり時間をかけて崩れ落ちるという作品です。
A それって映像が残っていましたか?ないですよね。では、みんなの話で聞いていたから、勝手にイメージがふくらんで観たような感覚で残ってます。「ストライプトストリート」は、終わりにストップして、ストップモーションがありますよね。その続きですか?
N みたいなニュアンスを持ってます。で、その稽古が週1程度であったのだけど、並木先生が(時間を測って)まだ10%だよってダメ出しをして、キツかったね。

S 並木先生の代表作の一つ、90年9月上演の「黎明記」は、どういう経緯から上演することになったのでしょうか。
N 並木先生の中では、元々常に未来に対しての不安というか警鐘のイメージがあったようです。「ストライプトストリート」については、冷たい戦争の時代が頭の中にあり、最後は核爆弾が落ちた後の死の灰が降ってくる。「黎明記」を作った頃は、冷たい戦争はもう終わったので、次に恐怖としてあるのは、飽食の時代、過密の時代みたいなものがテーマとして入っていました。
A 私は、青山円形の時は知らないから、東マ研に入って、記録ビデオを観てスゴイと感じたから続けたいと思ったのです。
S 「黎明記」は、どれくらい稽古をしたのでしょうか。
N 確か3ヶ月はみっちり稽古したような気がします。週2~3で2ヶ月くらい、みっちりと並木先生の頭の中のパーツパーツを切り取っての、命題を与えられてのインプロビゼーションの稽古が多かったかな?それを見て、構成を考えながら、また別の命題が出され…、という感じで少しずつ先生の頭の中で構築され、メンバーはまだどうなるのかは予想もつかず…。1ヶ月前くらいになんとなく全貌が見えてきたみたいな…、そんな記憶があります。その時は、気球座で最後に人数が多い時期で、静岡の浜松で稽古合宿もやりました。
A ビデオでしか観たことがないけど、パントマイムのアンサンブルでは、私の中であの作品が一番だと思います。
N 円形舞台の360度を活用をしたのが初めてって、青山円形劇場の方がおっしゃっていました。で、その当時の照明は、360度の舞台だから、ホリゾント幕が使えなくて照明効果が非常に大変でした。そこで、天井に光を当ててホリ替わりにというのが、どっちが先かは分からないですが、それで冒頭の新聞のシーンが生まれて。影絵で時代背景を見せました。
A あの新聞がゴーッと上がる瞬間の音と照明が本当に良かった。
N あの音良かったよね。藤田赤目さんが作った音が。
S あの新聞は、ビデオで見て、かなり大きかったのですが、どうやって作ったのでしょうか。
N 新聞を作る作業も大変でしたね。スタジオでパーツを繋げて、今はもうないのですが、某区立の体育館でパーツを一つに張り合わせる作業をした覚えがあります。かなりの広さが必要とされましたからね。そして、当時の円形劇場は渋谷消防署がすぐ裏にあったのかな、消防法のチェックが厳しくって、あの大きな一枚の新聞に防災加工、非燃焼処理をしなくては上演が許可されず、大変だった気がします。予定外の制作費ですねぇ~。そして、よく破れずに全公演もってくれました(笑)
S その頃は、並木先生の御身体は大丈夫だったのですか。
N うん、まだ、気づいてはいない。でも、当時から多分、もう何か起こってたのじゃないかな。トイレに行って中々出てこないことがよくあったから。
S その頃は、並木先生は舞台にあまり出演していなかったのでしょうか。
N もうその頃は、全然出ていません。
S ええっ。まだ40代前半なのに。
N やっぱり調子が悪かったのじゃないかな。名古屋公演(90年8月上演)の時も並木先生が音響を担当していたのだけど、オペ室からよくいなくなっていたんだ。
(つづく)


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