月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『追悼 本多愛也さん』第2回(小島屋万助さん(2))

2016-05-12 01:02:20 | スペシャルインタビュー
佐々木 80年代後半から90年前後に舞台活動していた頃って、PROJECT.Pとは。
小島屋 時期がまったくかぶってますね。プロPは、いわゆる劇団でもなく、僕や本多君のように舞台に特化してやろうということでもありません。いわゆるストリートパフォーマンスから始めて、ステージもやるし、テレビにも出演しますし。
阿部 昔、新宿の歩行者天国でゲリラ的に大道芸をやってたそうですね。
小島屋 毎週土曜かな、半年くらいしかやらなかったね。バブルの頃だったせいか、名刺を置いていく人が結構いました。良い時代だったね。今度イベントがあるけど出ないかって声をかけられました。
佐々木 仕事になっていたのですね。
小島屋 なってたけど、プロPだけの仕事ってあんまり多くなかったので、津野くんが大道芸を始めて僕も真似して始めました。そのうちにイベントの仕事がいっぱい来るようになりました。だって、昔は、人形振りだけで、お金になったからね。
佐々木 あの頃は、そうだったのですね。
小島屋 結構、色々なことがリンクしてるね。
佐々木 PROJECT.Pには、どういう方が参加したんですか。
小島屋 ツノ(津野至浩)君がリーダーで、カセカズノリ君、前田泰男さん、入れ替わりがいくつかあって、ツノ君の奥さんのモリシゲヒサコさん、後半になってチカさん(チカパン)が入りました。もちろん、本多君、小島屋、羽鳥も常にメンバーでした。

佐々木 どんなステージだったのでしょうか。
小島屋 僕も本多君も結構ステージをやっていた関係で、メンバーも面白そうなことできそうだから、みんなで作る勢いがあった頃でした。最初に上演したのは、多分、新宿のタイニイアリス。その後に原宿のライブハウスでも上演しました。その頃は、みんな舞台とか色々頑張っていて、作品のネタが中々できないじゃないですか。でも、作らなきゃダメでしょというわけで、「長い目で見て下さい」という企画を立てました。これが無謀な企画。明石スタジオさんとの提携公演で平日に小屋を安く借りて、月1でソロ作品1本発表とか色々な作品を上演する会を1年続けました。
佐々木 すごいですね。
小島屋 この企画は、表現なら何でもありな感じで、プロPのメンバーが中心でした。なかなか作品ができず、次第にへとへとになって、みんなコロコロと休みだして、1年で辞めてしまいました。それを引き継ぐ形で、しいなまんさんらがその後を続けたんです。2ヵ月に1回のペースで。えっと、タイトルは…。
阿部 「パンピンプー」です。
小島屋 そうです。そこで色々な人が育って、2年くらい続いたでしょうか。今からみれば面白いことをやっていたと思います。

佐々木 1988年から出演されていたイメージCINEサーカスについて、何かご存知でしょうか。
小島屋 その前から、彼は、いち早く才能を認められて色々なところに出演する中で、IKUO三橋さんが企画するイベントや舞台にも出演しました。主に親子劇場が多いのですが、パントマイムの仕事をもらってバリバリ活動していたのです。
阿部 そうなのですか。
小島屋 一緒にやっていた中で、最初に彼が“食える”ようになったんだね。その流れでイメージCINEサーカスという、三橋さんの事務所が企画した、色々なマイム系の芸人を集めた舞台に出演するようになりました。観た人もいるかと思いますが。
阿部 当時観ました。色々な映画のワンシーンを上演していましたね。
小島屋 そうそう。後半になって僕も1回だけ参加したことがあります。ヨーロッパ公演にも一緒に行ったことがあるんですが。
佐々木 91年に、フランスやスイスの演劇祭にも参加して、当時は大人気だったそうですね。
阿部 光洋さんとかが出演していましたね。
小島屋 出ていました。本多君は、最初から加わっていて、たび彦さん、雪竹太郎さん、亀田さんと一緒に活動していました。最後に、僕と光洋さんと橋本フサヨさんが一緒に入りました。僕は1回で抜けましたが。スイス公演の時に、14歳くらいの若い女の子が本多君に惚れて打ち上げに来て、でも本多君は英語が分からないから、光洋さんが全部通訳して、戻ってきた光洋さんがいきなり「畜生」と(笑)。すごい可愛い女の子でした。

佐々木 その頃からモテモテだったんですね。TORIOは、95年に結成されたそうですが、結成のきっかけは何だったのでしょうか。
小島屋 3人とも舞台やソロで色々活動していたのですが、イメージCINEで仲良くなって1回3人で公演をやろうという話が持ち上がりました。本当は4人だったのですが、「小倉君演出で、マイム界のすごい4人を集めてやろうぜ」って感じで。さて、もう1人は誰でしょう?
阿部 えーと、その1人がいないから、そうしたら、ちゅうサン?
小島屋 いやいや、実は鈴木秀城さん。
佐々木 あっ、秀城さんか!
小島屋 当時から彼は、ソロがすごく面白かったので、誘って稽古を始めたら2日目で急に出演を辞退すると言いだして。
阿部 なんで辞めちゃったのでしょうね。
小島屋 多分芸風の違いがあったと思います。当時は、くだらない稽古をしていたのです。
佐々木 どんなのですか。
小島屋 兵隊もので、本多君が“変態止まれ”というのをやってみようと言いだして。それは、兵隊のように行進して、「右前方何度にワンレン、ボディコンの女発見!年齢推定23歳」と言って、ガチャガチャと動いて。
佐々木&阿部 笑
小島屋 秀城君は辞退しましたが、1995年に明石スタジオで公演を1回上演しました。それからどう展開しようとか思っていなかったのですが、当時はバブルが終わって、ちょっとずつ仕事が減ってきた時期でした。できれば、3人とも舞台でやりたくて、光洋さんが中心になって、親子劇場の企画に出したのです。それが当たって、最初の年に30何ステージも仕事が入りました。
阿部&佐々木 すごいですね。
小島屋 おまけに、ギャラを高めに設定しているから、すごい儲かっちゃったと思ったら、次の年は9ステージ、3年目で3ステージに減ってしまって、3年で辞めました。

佐々木 どんな舞台だったのですか。
小島屋 代表的な作品としては、トリオということで、3人のじいさんの作品がありました。知らないかな、伝説の超面白い作品。それを本当は、本多君が生きていたら今年3月の還暦祝いライブでやろうと思っていたのです。
佐々木 そうだったんですか。光洋さんのリレー日記に以前書いてあったのが、これだったんですね。
小島屋 3人のデブという作品が最初にあって、これは、こんなに(手でジェスチャー)デブのオペラ歌手の作品。すごく下らないことをオープニングでやって、あとは、光洋さんと本多君のソロを1つずつ入れたりしました。
阿部 聞いてるだけで面白いですね。
小島屋 韓国やタイなどで上演して、北九州でも確か上演したと思います。そんな感じで、3人は色々つかず離れずやっていました。

佐々木 小島屋さんは、その頃はどんな活動をしていらっしゃったのでしょうか。
小島屋 僕は、日本で94年からアジアマイムフェスという企画を立ち上げて、韓国、タイのフェスでは、本多君とほとんど一緒に行きました。二人で作品を上演したり、ソロでやったりして、毎年続いていました。最初の頃は、毎年のように春川に行っていました。もちろん、光洋さんも含めてね。
佐々木 アジアマイムフェスでは、必ず出演するような感じだったのですか。
小島屋 そうだね。本多君、光洋さんは必ず。マイムで面白い人は意外と少なくて、地方公演で人を集めるには、本多君や光洋さんに出て頂かないと。逆に僕は、あんまり出てないですね。
佐々木 やはり、韓国とかタイでも愛也さんは、大絶賛だったのでしょうか。
小島屋 絶賛だったね。特にタイはね。亡くなった時もFacebookですごい事になりました。どんな形になるか分かりませんが、今年のタイのフェスで、本多愛也追悼みたいなニュアンスで何か考えています。例えば、僕と本多君がやった「床屋」というコメディ作品があって、それをタイ人と僕とでやろうという話が出ています。まあできたらいいなという感じですが。

佐々木 アジアマイムフェスが終わってからは、どんな活動をしていたのでしょうか。
小島屋 長野のフェスが終わってから、北海道に行き始めたんですよ。勿論、タイには毎年行っていました。97年だけ小島屋万助劇場で行ってましたが、98年からは、小島屋万助劇場with本多愛也という名称で5年間ずっと北海道ツアーでまわりました。これは、吉澤さん演出です。ここから吉澤さんが演出で関わるようになりました。
阿部 そうなんですか。吉澤さんとは、どういう関係だったのですか。
小島屋 僕が参加していたTAICHI-KIKAKUの代表のオオハシヨウスケ君と吉澤さんが早稲田の劇研で同期だったのです(←彼とは、を削除)。
阿部 そうなのですか。
小島屋 だから、結構前から一緒に酒を飲んで友人だったんです。94年に日本でフェスをやらなくちゃならなくなって、その前の年に韓国公演で一緒に照明で来てもらった時に、手伝ってくれないかと話をしたら快諾してくれました。それから、ずっとフェスティバル関係は一緒にやっています。当時、遊機械の音響をずっと担当し、TAICHI-KIKAKUの演出をしていた小倉君は、本多君の舞台で演出するようになって。色々なことがリンクしてるね。吉澤さんと本多君がかなり近くなったのは、北海道の公演の時に、彼が演出というか構成に関わって、それからちょっとずつ演出的に関わるようになってきたんです。でも、マイムの公演に関して、彼は作った時からできているようなところがあるからね。
阿部 では、本当に愛也さんは突出していたんですね。
小島屋 そう思うね。
(つづく)
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