「環境」というのは個人にとって社会とか自然・地球とか、あるいは生活とか仕事とか、様々なことを意味するし、それはチェアウォーカーである僕も同じなのだけれど、でも、チェアウォーカーだからこその、健常者には無い、恐らくはチェアウォーカー当事者にしか分からないであろう「環境」というものが存在する。
それは「車椅子」。
車椅子が変わるというのは、全てにおける日常、生活が変わる、そこに変化が生じるということ。
まさに「環境が変わる」ということなのだ。
車椅子も様々な部品で構成されているけど、そのパーツ一つを変更するだけで結構な変化が生じる。
背負う障害の内容によって日常生活における車椅子への「依存度」は異なるけれど、その依存度の高い人であればあるほど、生活という環境における車椅子の存在はより大きなものになる。
僕は脊髄損傷だけれど、両足の機能を失っているだけでなく、胸から下の体幹部分も感覚を失っているので、腹筋背筋も機能せず背筋を伸ばすとか安定した姿勢の維持ができない。だから車椅子に求めるものは移動という車輪の仕事だけでなく、「姿勢」を補う背もたれ部分もとても重要になる。その角度や形状一つで日常生活は一変するし、それが体に合わないものであれば、車椅子に乗っている時間は移動の自由を得る喜びのものではなく、まさにストレスの時間となってしまうのだ。
さらにそれだけではなく、車椅子に乗っている時間が長いからこそ、その姿勢がどうあるかで身体に及ぼす影響はすごく大きいものと考える。姿勢がどうあるかで骨格の状態が変化するだろうし、それによって関節の稼働範囲も変化すれば、使う筋肉も異なってくるだろうから、身体や健康に及ぼす影響は思う以上に大きなものだと思う。
まさに、僕らチェアウォーカーにとっての車椅子は自分を取り巻く大きな「環境」であるのだ。
そんな僕が、その環境の変化にチャレンジしてみた。
影響の大きなことであるだけに、計画的に、時間をかけて挑んだ。
スポーツ活動を行なっていくうちに自分自身の身体の変化、ある意味成長は実感していて、それによって今の車椅子では「身体に合っていないのではないか?」と思うようになり、また、以前は出来なかったけれど今ならこれは出来る、あれも可能だ、といった思いからも、更なる高みを目指す為に「チャレンジ」を選択したのだった。
結果的に、そのチャレンジは「成功」したと現時点では確信している。
得られるものは大きかった。それもまた確信的であり想定の範囲内なのだけれど(笑)
他の人が車椅子をオーダーする際にどのようなリクエストをしているのかは分からないけれど、自分がイメージする車椅子は明確だったので、まず自分が求めるその形の有無を確認した上での決断であり、さらに特殊なオーダーはないけれどそれなりに細かな注文をさせていただいたのではないかと思っている。
そうして自分の「環境」に変化を「生じさせた」。
案の定、その変化を実感している。いや、痛感している。
同じトレーニングをしても、負荷が変わった。
だから、同じ負荷で同じ回数をやっただけなのに、筋肉痛が生じた(笑)
筋肉痛が生じていないメニューでも、体感する負荷は異なった。
慣れの問題でもあるだろうけど、この違いは明らかに身体の動き、或いは姿勢の維持に変化が生じているからであり、それが継続した場合に身体への影響がどう現れるのかが不安でもあり楽しみでもある。
そして、僕にはさらにその先にも見つめるものがある。
人から与えられる、ある意味植え付けられる情報をただ鵜呑みにして生きていきたくはない。自分で得た、これだと確信出来た情報を元に、自分の人生という道を歩んでいきたい。それこそまさに車椅子で。
そうやって自分の環境を自分自身で変化させ、高みを目指して自分自身を成長させていきたいのだな。
自分を取り巻くマクロの意味での環境は絶えず変化しているし、それを自分でコントロールするなんてことは一人の人間で出来るレベルではない。けれど、そうした環境変化の中で自分がどう生き抜いていくのか、それは自分で変えることの出来るミクロな環境、自分で選択出来る環境の変化によって変わるものだと思うし、でもそれをその場の思いつきでたまたま成功しましたなどではなく、明確なベクトルを持つことによる正しい判断を重ねて、それこそ確信的に成長していきたいし生き抜いていきたいものだ。
環境の変化により活動におけるマネージメントにも若干の変更、修正が必要だと思うようになった。それが「アップデート」なのだと考えると、日常の楽しみがまた一つ増えた感じで嬉しく思える。
幸せだ(笑)
東京に限らず日本全国、いや世界中で、コロナ危機は深刻さを増している。
僕自身の活動もまた春の自粛期間と同様のものを想定したりもしているし、いつそうなっても不思議ではないとも思っている。
けれど、顔は前を向いて、気持ちは上を向いて、たとえ引きこもり活動を強いられる状況となっても、それでも出来ることはあるし、既に一度経験済みなわけだから、それを全く否定するものではなく、でもそうなって欲しくはないわけだから、そうならずに済む選択を自分自身が正しく出来るように取り組んでいきたい。
コロナ禍の終息、直接的には僕個人が出来ることはただ祈るだけかもしれないけれど、間接的には僕の行動がそれに小さな影響を与えることも出来る。
チリも積もれば山となる。大好きな言葉だ。
大きな環境に対しての自分の存在はまさにちっぽけなもの。
でもそれを悲観しない。
僕1人の行動が社会の進む方向を、分度器上の90度から90.00001度へと変化させるならば、僕の行動はまさに環境への変化を与えている。
どんなに小さくても、ここにチリは存在しているのだ。
ミクロな環境の変化という小さな成功体験が心に大きな栄養を与えてくれる。
さぁ、筋肉痛に怯むことなく頑張っていこう!(笑)