朝日新聞に載っていた川柳の一つである。
マネシタ電器とは、言わずと知れた「松下電器」の事である。
10月からは社名を「パナソニック」に統一するとの事。
松下電器と言えば「松下幸之助」と言うほど、「松下幸之助」と言う名は有名であるが、多くの人は、「松下幸之助は経営の神様」と言うことを忘れている。
そもそも「経営の神様」とは、いかなるものであろうか?。
「経営の神様」とは「商いの神様」と言うことで、「商売が上手」と言うことが出来るだろう。
何事によらず「売らんかな」と言うのが関西商人。
「マネシタ商品」だって、「売れさえすれば結構」と言う土地柄、「売れてナンボ」と言う精神は、「義理人情」を重用する関東商人との大きな違いである。
とかく日本人は「有名な人(人に限らないが)を崇拝する」と言う傾向が有る。
そして、一度広まってしまうと、なかなか其処から抜け出す事が出来ない。
マネシタ電器の事を書いたので「技術の日産」についても書いてみたい。
少し前までは、メーカー自体も「技術の日産」を「表看板」にしていたが、一時期「先進技術の日産」と言い換えたりもしたが、さすがに最近は使わなくなった、と言うより「使いたくても恥ずかしくて使えない」と言うのが本音かもしれないのだが・・・。
さて、この「技術の日産」と言う言葉の根拠を知っている人は、どれ程いるのだろうか?。
その真相を知らずに、「皆が言っているからそうなんだろう」と単純に考えている人が多いと思う。
技術の日産と言う言葉が出てきたのは、「今から50年位前(昭和30年ごろ)の話」で、当時まだ純国産車は、クラウン、セドリック、コロナ、ブルーバードの4車種しかなかった「昔の話」である。
「昔の話」は誇張ではない、当時の田舎では「お爺さんが山へ芝を刈りに行き、お婆さんが川で洗濯をする」と言う事は「極当たり前の事」だったのだから。
つまり、「それ程昔の話」と言うことで、純国産の車を作っていたのは、トヨタと日産しかなかった頃の話で、巷では両社を比較する時に、「技術は日産のほうが上で、トヨタは販売に強い」と言われていた。
この言葉がつまって「技術の日産、販売のトヨタ」と言う言葉が出来、最終的に「技術の日産」と言う言葉だけが残ったのである。
カルロスゴーンが社長になるより大分前の話であるが、週刊誌のタイトルに「技術なき技術の日産再生への道」「日本で一番技術のない日産の将来は?」などと皮肉られていた時期も有る。
トヨタについては、今でも「販売のトヨタ」と言ってよいであろう。
しかし、この「販売のトヨタ」をもってしても、「自社製スポーツカーを売る事が出来なかった」と言う事実が、一体何を意味するのか・・・・・。
このような話は、他にも幾らでもある。
何故このようなことが起きるのであろうか?。
その根底にあるのは「勝てば官軍」と言う考え方ではないだろうか・。
勝てば官軍=売れたもの勝、と言う理論が適用されているのである。
必ずしも「正義が勝つ」と決まっているわけではない、「悪が勝つ」と言う事だってけして珍しい事ではない。
勝者=正義、沢山売れている物=良い物、と言う保障は何処にもない。
何を信じようが「個人の自由」であるが、「個人の自由」である以上、その結果については「自己責任」と言う事になる。
情報化社会と言われているが、その中には「かなりいい加減な情報」も多い。
シッカリとした「情報を見極める目(能力)」を養っておかないと、「知らないうちに情報に振り回さてていた」と言う事になるので、気を付けなくてはいけない。
「数字ばかりの経済大国」にはなったが、「もっと大事なもの」を何処かに忘れて来たように思えてならない。
マネシタ電器とは、言わずと知れた「松下電器」の事である。
10月からは社名を「パナソニック」に統一するとの事。
松下電器と言えば「松下幸之助」と言うほど、「松下幸之助」と言う名は有名であるが、多くの人は、「松下幸之助は経営の神様」と言うことを忘れている。
そもそも「経営の神様」とは、いかなるものであろうか?。
「経営の神様」とは「商いの神様」と言うことで、「商売が上手」と言うことが出来るだろう。
何事によらず「売らんかな」と言うのが関西商人。
「マネシタ商品」だって、「売れさえすれば結構」と言う土地柄、「売れてナンボ」と言う精神は、「義理人情」を重用する関東商人との大きな違いである。
とかく日本人は「有名な人(人に限らないが)を崇拝する」と言う傾向が有る。
そして、一度広まってしまうと、なかなか其処から抜け出す事が出来ない。
マネシタ電器の事を書いたので「技術の日産」についても書いてみたい。
少し前までは、メーカー自体も「技術の日産」を「表看板」にしていたが、一時期「先進技術の日産」と言い換えたりもしたが、さすがに最近は使わなくなった、と言うより「使いたくても恥ずかしくて使えない」と言うのが本音かもしれないのだが・・・。
さて、この「技術の日産」と言う言葉の根拠を知っている人は、どれ程いるのだろうか?。
その真相を知らずに、「皆が言っているからそうなんだろう」と単純に考えている人が多いと思う。
技術の日産と言う言葉が出てきたのは、「今から50年位前(昭和30年ごろ)の話」で、当時まだ純国産車は、クラウン、セドリック、コロナ、ブルーバードの4車種しかなかった「昔の話」である。
「昔の話」は誇張ではない、当時の田舎では「お爺さんが山へ芝を刈りに行き、お婆さんが川で洗濯をする」と言う事は「極当たり前の事」だったのだから。
つまり、「それ程昔の話」と言うことで、純国産の車を作っていたのは、トヨタと日産しかなかった頃の話で、巷では両社を比較する時に、「技術は日産のほうが上で、トヨタは販売に強い」と言われていた。
この言葉がつまって「技術の日産、販売のトヨタ」と言う言葉が出来、最終的に「技術の日産」と言う言葉だけが残ったのである。
カルロスゴーンが社長になるより大分前の話であるが、週刊誌のタイトルに「技術なき技術の日産再生への道」「日本で一番技術のない日産の将来は?」などと皮肉られていた時期も有る。
トヨタについては、今でも「販売のトヨタ」と言ってよいであろう。
しかし、この「販売のトヨタ」をもってしても、「自社製スポーツカーを売る事が出来なかった」と言う事実が、一体何を意味するのか・・・・・。
このような話は、他にも幾らでもある。
何故このようなことが起きるのであろうか?。
その根底にあるのは「勝てば官軍」と言う考え方ではないだろうか・。
勝てば官軍=売れたもの勝、と言う理論が適用されているのである。
必ずしも「正義が勝つ」と決まっているわけではない、「悪が勝つ」と言う事だってけして珍しい事ではない。
勝者=正義、沢山売れている物=良い物、と言う保障は何処にもない。
何を信じようが「個人の自由」であるが、「個人の自由」である以上、その結果については「自己責任」と言う事になる。
情報化社会と言われているが、その中には「かなりいい加減な情報」も多い。
シッカリとした「情報を見極める目(能力)」を養っておかないと、「知らないうちに情報に振り回さてていた」と言う事になるので、気を付けなくてはいけない。
「数字ばかりの経済大国」にはなったが、「もっと大事なもの」を何処かに忘れて来たように思えてならない。
30以上の年の差があると言うことが、「大きな状況の変化」をもたらしています。
比較する事は出来ないのだが、同じ人であっても「全く違う環境」で育ったとすれば「全く違う考え方」を持つことでしょう。
時間の経過は時として「大きな状況の変化」をもたらします。
敗戦後によく言われていた、「日本製品は、安かろう悪かろう」と言う言葉は、今では聞く事はありません。
今中国で問題になっている「模倣製品」も、当時の日本では当り前の事だったのです。
昔日本でしていた事を、今の中国がしているにすぎないのです。
勝てば官軍、と言う社会では仕方ない事でしょう。
余り気にしないように。