しばしばちゃんのなかなかいい写真を見て思い出す。
「私たちはなにもの?どこから来てどこいくの?」とは、科学だけではなく宗教、哲学などあらゆる人間の思考の根幹にあるけれど、大昔の人は何を考えたのかね?
紀元前8世紀、ギリシャのヘシオドスという人は、じっと水平線を夜も昼も眺めていた。暇だったのかな?悩みの多い人だったのかな?きっと暇だった。今のような娯楽もない。自然の中でうろうろするのが娯楽。夜は満点の星。昼は暖かい太陽。それが天空。そして水平線の下は大地(ガイア)。
「そうか!最初に世界が出来た時はこの水平線が出来たのだ!」と思った。それまでは天空も大地も区別のない世界「カオス」であったと。カオスが破られ、ついに天空と大地が出来た!と。
今流にみれば、これって、無秩序から低エントロピー世界が生まれる地球創成「進化」のはじまりとして、正解である。
神話ではあるが、自然や世界への人の思いが綴られたはじまりである、と西洋哲学ではなっている。東洋でお釈迦様が生まれる(紀元前5世紀or4世紀)ずっとずっと前の話である。
さて、次は海。世界の哲学の祖はタレス。かれは海と大地をどう見ていたと思う?
実はタレスの地球観が、デカルトに至るまでの長い間、人間の地球観であった。デカルトは17世紀の人であり、タレスは紀元前6世紀の人であるから、実に2000年以上の気の遠くなるほど長い間である。
実はその見方は大地は海に浮かぶ「ひょっこりひょうたん島」である、とする地球観である。
(学生)「エ!まさか!あのどんぶらこんぶら、の「ひょっこりひょうたん島」??」
(楽学)「そうです。私も中学生のときNHKドラマひょっこりひょうたん島を見たくて毎日飛んで家に帰ったものです」
(なんか、また会話調になってきたな?ま、いいか)
(学生)「でもそのネタがまさか、ギリシャ時代だったなんて!」
(楽学)「ひょっこりひょうたん島の前に西欧で大ブレークした、「ドリトル先生航海記」が実はひょっこりひょうたん島のネタなんだがね」
(学生)「え!それって剽窃?」
(楽学)「いやいや、そんな大げさな。ただ島がどんぶらこんぶら、そこが同じだということ」
(学生)「んで?」
(楽学)「タレスは(水!水!水!)って叫んだんだ」
(学生)「それってヤバいんじゃないですか?運動しすぎて喉がからからだったか、それと末期の水を求めていたとか?」
(楽学)「そうじゃなく、エーゲ海の出口に近いミトレスという街でいつもいつも海と地平線を眺めていたんだね。そして季節、生命の生死、荒れる海、静かな海、巡り、移ろう世界の中で変わらないものは何だ?と考えたとき、水!とおもったんだね」「世界理解の鍵は水にあると」
(楽学)「目の前は海。川はたどると山に登り、そこでは大地から水か湧き出ている。流れる水は大地にしみ込む。この大地の下は水に満ち満ちあふれているに違いない。そういえば地震の時に水が吹き出る!(噴砂?)」なんてね。これは私の勝手な想像だが、だってギリシャって地震国だから。だから大地は海に浮かんでいる、と思った。」
このことは旧約聖書にも「大地は海の上、大河の上にできた」と書いてあるってんだから本当に長い間、少なくともルネッサンス以降、そして17世紀、科学が聖書を捨てるまで、みんな信じていたということになる。いまじゃ、そう思っていたことすら信じられなくなっているがね。だから大地の下が、びっしり石で埋まっていると思うこと自身が実は、新しい地球観だった。
(学生)「水平線を見ながら瞑想してみよう」
(楽学)「そうそう、その瞑想が研究を前へすすめる!」
「私たちはなにもの?どこから来てどこいくの?」とは、科学だけではなく宗教、哲学などあらゆる人間の思考の根幹にあるけれど、大昔の人は何を考えたのかね?
紀元前8世紀、ギリシャのヘシオドスという人は、じっと水平線を夜も昼も眺めていた。暇だったのかな?悩みの多い人だったのかな?きっと暇だった。今のような娯楽もない。自然の中でうろうろするのが娯楽。夜は満点の星。昼は暖かい太陽。それが天空。そして水平線の下は大地(ガイア)。
「そうか!最初に世界が出来た時はこの水平線が出来たのだ!」と思った。それまでは天空も大地も区別のない世界「カオス」であったと。カオスが破られ、ついに天空と大地が出来た!と。
今流にみれば、これって、無秩序から低エントロピー世界が生まれる地球創成「進化」のはじまりとして、正解である。
神話ではあるが、自然や世界への人の思いが綴られたはじまりである、と西洋哲学ではなっている。東洋でお釈迦様が生まれる(紀元前5世紀or4世紀)ずっとずっと前の話である。
さて、次は海。世界の哲学の祖はタレス。かれは海と大地をどう見ていたと思う?
実はタレスの地球観が、デカルトに至るまでの長い間、人間の地球観であった。デカルトは17世紀の人であり、タレスは紀元前6世紀の人であるから、実に2000年以上の気の遠くなるほど長い間である。
実はその見方は大地は海に浮かぶ「ひょっこりひょうたん島」である、とする地球観である。
(学生)「エ!まさか!あのどんぶらこんぶら、の「ひょっこりひょうたん島」??」
(楽学)「そうです。私も中学生のときNHKドラマひょっこりひょうたん島を見たくて毎日飛んで家に帰ったものです」
(なんか、また会話調になってきたな?ま、いいか)
(学生)「でもそのネタがまさか、ギリシャ時代だったなんて!」
(楽学)「ひょっこりひょうたん島の前に西欧で大ブレークした、「ドリトル先生航海記」が実はひょっこりひょうたん島のネタなんだがね」
(学生)「え!それって剽窃?」
(楽学)「いやいや、そんな大げさな。ただ島がどんぶらこんぶら、そこが同じだということ」
(学生)「んで?」
(楽学)「タレスは(水!水!水!)って叫んだんだ」
(学生)「それってヤバいんじゃないですか?運動しすぎて喉がからからだったか、それと末期の水を求めていたとか?」
(楽学)「そうじゃなく、エーゲ海の出口に近いミトレスという街でいつもいつも海と地平線を眺めていたんだね。そして季節、生命の生死、荒れる海、静かな海、巡り、移ろう世界の中で変わらないものは何だ?と考えたとき、水!とおもったんだね」「世界理解の鍵は水にあると」
(楽学)「目の前は海。川はたどると山に登り、そこでは大地から水か湧き出ている。流れる水は大地にしみ込む。この大地の下は水に満ち満ちあふれているに違いない。そういえば地震の時に水が吹き出る!(噴砂?)」なんてね。これは私の勝手な想像だが、だってギリシャって地震国だから。だから大地は海に浮かんでいる、と思った。」
このことは旧約聖書にも「大地は海の上、大河の上にできた」と書いてあるってんだから本当に長い間、少なくともルネッサンス以降、そして17世紀、科学が聖書を捨てるまで、みんな信じていたということになる。いまじゃ、そう思っていたことすら信じられなくなっているがね。だから大地の下が、びっしり石で埋まっていると思うこと自身が実は、新しい地球観だった。
(学生)「水平線を見ながら瞑想してみよう」
(楽学)「そうそう、その瞑想が研究を前へすすめる!」