楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

貧乏学生が拾ったお金

2007-01-25 04:47:28 | 生活
最近、ブログは少々まじめすぎたので今日はくずれよう。
昨日、通勤の駅で百円玉を拾った!
ちょっと周りをきょろきょろ。
なんかいい日だ!わくわく。

そこで、「あなたが今まで人生で拾った最高額は?その後始末はどうした?」なんてね。
子供の頃、私の父は清貧な田舎教師。
いいつけに従い5円、10円を拾っても必ず交番へいった。
しかし、おまわりさんは「ああ、いい子だね。だからこれはあげるよ」
ちっと父のいうことと違うな?と思いつつ、それで待望のアイスクリームを買ってぺろぺろ。
当時、シャーベットのようなアイスキャンディーは5円。甘いアイスクリームは10円であった。
もちろん父にはいわない。
いったら、父は交番に駆け込んだかもしれない。それほど厳格な父であった。

それから幾年月。
私は大学院生になっていた。学生時代は貧乏暇なし。
友達の仕送りをあてにして借金を回し合う、自転車操業。
タバコは吸う、酒は焼酎(一杯70円)。つねに金なし。
そして、大学に泊まり続けた修論締め切りもまじかな1月のある日のこと(ちょうど今頃かな)。
着替えもせず、風呂も入らずの生活に我慢ならず、家へ帰ろうと決意。
でも財布の中身は空っぽ。しかし、6kmの道。
時は深夜。タクシーで1,000円はかかる(当時でも)
「しゃーない!歩くか!」
凍てつく雪の道をとぼとぼと歩き始める。
「あ~あ、お金でも落ちていないかな~」
その時である。雪道にキラっと光るものがある!
「あった!」
「ここにも!あそにも!」
そしてその先にくすんだ色の長方形の紙まで!
締めて2千5百円なり!深夜の雪道、人など誰もいない。
「神様!ありがとう!」って心で叫んでポケットにしまった。
さて、それがちょうど大学と家の中間地点。
タクシーに乗ろうかな、どうしようかな、とちょっと悩んだが、
「もっと歩こう!」
2匹目のどじょうをねらう浅ましい根性。
一心不乱に下を見て歩く。手はポケットの中でお金を握りしめている。

あるわけもなく、瞬く間に家についてしまった。そのまま、バタンキューと寝てしまった。

ちなみに、雪国でのお金の拾い方穴場。
春先の雪解けシーズンにスキーゲレンデ、リフトの下を歩く。
すると解け始めた雪の中にあちらにもこちらにも、
リフトに乗りながら、ポケットから取り出して何かをしようとするスキー客。
思わずポロッ!でもそれはリフトの下の雪の中へ消える。
慌てて、スキーでその場へ駆けつけても砂の中の針のごとく見つからない。
そして、春。全てがあらわになる。
のだそうだ。
私はやったことはないが、当時スキー場でバイトをしていた友人たちが話していた。
さらのお金じゃ、届けることも出来ずじまいだからね。
届けて、半年たって正式に自分のものとする、ってのが正しい法の道です。
そのまま、ポケットにいれれば犯罪です。
私の雪道での2,500円はもはや遠い昔で時候です。でも立派な軽犯罪。
(ってことは昨日の百円玉も? まずい!今日、コンビニの寄付箱にでも入れよ!)

それにしても貧乏だったな。
だって、パン耳とキャベツとマヨネーズだけで何日もなんてざらだったからね。
さて、これから朝出かけるまで、学生の修論チェックだ。
そして明日はまた、さる大プロジェクトの戦略会議で札幌出張。週末にしかも雪の中で会議なんて、忙しすぎる!
ん?雪道??むむ、そんな暇あるわけない!
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ギリシャ人の見た水平線と地球観

2007-01-23 07:31:34 | 科学
しばしばちゃんのなかなかいい写真を見て思い出す。
「私たちはなにもの?どこから来てどこいくの?」とは、科学だけではなく宗教、哲学などあらゆる人間の思考の根幹にあるけれど、大昔の人は何を考えたのかね?

紀元前8世紀、ギリシャのヘシオドスという人は、じっと水平線を夜も昼も眺めていた。暇だったのかな?悩みの多い人だったのかな?きっと暇だった。今のような娯楽もない。自然の中でうろうろするのが娯楽。夜は満点の星。昼は暖かい太陽。それが天空。そして水平線の下は大地(ガイア)。
「そうか!最初に世界が出来た時はこの水平線が出来たのだ!」と思った。それまでは天空も大地も区別のない世界「カオス」であったと。カオスが破られ、ついに天空と大地が出来た!と。

今流にみれば、これって、無秩序から低エントロピー世界が生まれる地球創成「進化」のはじまりとして、正解である。
神話ではあるが、自然や世界への人の思いが綴られたはじまりである、と西洋哲学ではなっている。東洋でお釈迦様が生まれる(紀元前5世紀or4世紀)ずっとずっと前の話である。

さて、次は海。世界の哲学の祖はタレス。かれは海と大地をどう見ていたと思う?

実はタレスの地球観が、デカルトに至るまでの長い間、人間の地球観であった。デカルトは17世紀の人であり、タレスは紀元前6世紀の人であるから、実に2000年以上の気の遠くなるほど長い間である。
実はその見方は大地は海に浮かぶ「ひょっこりひょうたん島」である、とする地球観である。

(学生)「エ!まさか!あのどんぶらこんぶら、の「ひょっこりひょうたん島」??」

(楽学)「そうです。私も中学生のときNHKドラマひょっこりひょうたん島を見たくて毎日飛んで家に帰ったものです」
(なんか、また会話調になってきたな?ま、いいか)
(学生)「でもそのネタがまさか、ギリシャ時代だったなんて!」
(楽学)「ひょっこりひょうたん島の前に西欧で大ブレークした、「ドリトル先生航海記」が実はひょっこりひょうたん島のネタなんだがね」
(学生)「え!それって剽窃?」
(楽学)「いやいや、そんな大げさな。ただ島がどんぶらこんぶら、そこが同じだということ」
(学生)「んで?」
(楽学)「タレスは(水!水!水!)って叫んだんだ」
(学生)「それってヤバいんじゃないですか?運動しすぎて喉がからからだったか、それと末期の水を求めていたとか?」
(楽学)「そうじゃなく、エーゲ海の出口に近いミトレスという街でいつもいつも海と地平線を眺めていたんだね。そして季節、生命の生死、荒れる海、静かな海、巡り、移ろう世界の中で変わらないものは何だ?と考えたとき、水!とおもったんだね」「世界理解の鍵は水にあると」

(楽学)「目の前は海。川はたどると山に登り、そこでは大地から水か湧き出ている。流れる水は大地にしみ込む。この大地の下は水に満ち満ちあふれているに違いない。そういえば地震の時に水が吹き出る!(噴砂?)」なんてね。これは私の勝手な想像だが、だってギリシャって地震国だから。だから大地は海に浮かんでいる、と思った。」
このことは旧約聖書にも「大地は海の上、大河の上にできた」と書いてあるってんだから本当に長い間、少なくともルネッサンス以降、そして17世紀、科学が聖書を捨てるまで、みんな信じていたということになる。いまじゃ、そう思っていたことすら信じられなくなっているがね。だから大地の下が、びっしり石で埋まっていると思うこと自身が実は、新しい地球観だった。
(学生)「水平線を見ながら瞑想してみよう」
(楽学)「そうそう、その瞑想が研究を前へすすめる!」







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はじめからの数学4

2007-01-22 20:22:21 | 科学
通勤の行き帰り、本屋によってなにやら探索するのが習慣になっている。最近うれしいのは私の自宅の駅の本屋の自然科学関連コーナーの広さが昨年2列になり、今年は3列になったこと。相も変わらず翻訳物が多いが、とにもかくにもうれしいことである。

その中で見つけた1冊。これも土日に一気読みした。中学生からでも読めるというのがキャッチフレーズではあるが、それはさておき、この本も人物を描きながら確率統計をめぐる400年を一気に俯瞰できる。特に20世紀に入ってからの確率と統計に関わる急速な発展はおもしろい。それは今でも数学の中で論争中である、というところもおもしろい。私たちの地球科学でも統計学的データ処理は日常であり、その検定はいつも問題だ。その根幹の数学における不明確さを理解することは重要だね。詳細はここにも書いてはいないが、こころは分かる。確率を決めるにあたって、あなたは頻度派?それともベイズ派?なんてね。
もはや決定論的科学、要素還元主義的科学では世界の理解は不能であり、その意味では17世紀的、19世紀的物理学はついえたが地球科学という総合科学は新しい世界観を作れるか?要素に還元できないがとにかくマクロになにがしかの規則性がある、という描き方は、17世紀的ベーコンの経験論として激しく攻撃されたが、生物学の世界では累々と続けた。20世紀、統計学はそれらが発展させた、などなど数学と諸科学との関連も記述されており、それも面白い。翻訳も悪くない。

はじめからの数学 (4) 確率と統計~不確実性の科学

青土社

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朝ドラマ芋たこなんきん

2007-01-20 08:49:05 | 生活
私の生活は極めて不規則だが、NHK朝ドラマだけは見る。今はBSで7時半から「芋たこなんきん」と「君の名は」を見る。
前者はちょうど主役ではなく、その子供たちが私の世代。
フォークだ集会だとなつかしい。
服装もミニスカート、ジーンズ、長髪。
その時の私たちのこころがなつかしい。
当時はまじめに考えもしなかった親たちのこころは新鮮である。
私たちの世代の親たちはあの第2次大戦をくぐってきたのであった。
もっと会話をしておくべきであったと思っても、今はもういない。
「学生運動だけはやってくれるな」という言葉もなつかしい。
私の親もおなじことをいっていた。
でも、そんな言葉は、片隅にはあっても真剣に、考え始めたときには吹っ飛んでしまっていた。
そして、親は何も言わずに見守っているだけであったが、その視線はいつも気になっていたものである。
きっと自分たちの青春時代と比べていたのであろうと思う。彼らの青春は戦争一色であったに違いないのだから。
朝のドラマは、そんなことを思い出させてくれる。
私のように多くの働く人、主婦などが一日のはじまりに見る。
そして、その短い15分で何かを受けとめて、こころを新鮮にして動き始める。
うまくできているもんだな、と思う。そのドラマを提供するのも人間なのだね。




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人物で見る物理入門(上)

2007-01-19 00:03:26 | 科学
人物で語る物理入門 (上)

岩波書店

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行き帰りの通勤読書。一気に読んだ。
この本はおもしろい!とくに重要な論争の部分の記述と論点の描きが実にうまい。一気に17世紀から20世紀初頭までの物理の主要なジャンプがわかる。とくにどのような自然観や方法論の転換や飛躍をもたらしたかがすーっと入ってくる。原子論をめぐるマッハとボルツマンの激烈な闘争の描き方など抜群だね。ともすると物理にうとい地球科学を学ぶものにとっては実にいい入門書であるね。昨年春、いったウイーン大学前の風景を思い出しながら読むと、歩く姿が目に浮かぶようだ。(ボルツマンはウイーン出身である)


私の顔となってくれている彫刻はそのウイーン市庁舎の中の1つである。眼鏡をかければ、ちょっと自分に似ているかなってね(ちょっと脱線:ちなみに欧州地球科学連合大会は今年も4月にウイーンである)。

これと18世紀末からの地質学の成立、20世紀に入っての地球物理学の発展、そして20世紀後半のプレートテクトニクス成立から現代へつづく地球科学の歴史と照らし合わせると実におもしろい。
下巻もたのしみである。
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