第40回マーチングバンド関西大会
中学生の部・高等学校の部 タイムテーブル
開 場(11:00~) | ||
開会式(12:00~) | ||
中学生の部(12:10~) | ||
出演順 | 団 体 名 | |
1 | 箕面市立第三中学校吹奏楽部 | |
2 | 堺市立金岡北中学校吹奏楽部 | |
3 | M・H Drum & WindBrass Corps | |
4 | 堺市立三原台中学校吹奏楽部 | |
5 | 城陽市立西城陽中学校吹奏楽部 | |
6 | 大阪市立文の里中学校吹奏楽部 | |
休 憩 | ||
7 | 芦屋市立精道中学校吹奏楽部 | |
8 | 橿原市立八木中学校マーチングバンド | |
休 憩 | ||
高等学校の部(13:52~) | ||
9 | 神戸弘陵学園高等学校マーチングバンド | |
10 | 金光大阪中学校・高等学校吹奏楽部 | |
休 憩 | ||
11 | 京都府立洛西高等学校吹奏楽部 | |
12 | 清教学園高等学校吹奏楽部 | |
13 | 滝川第二高等学校吹奏楽部 | |
14 | 武庫川女子大学附属中学校・高等学校マーチングバンド部Eins | |
15 | 京都明徳高等学校マーチングバンド部 | |
休 憩 | ||
16 | 天理教校学園高等学校マーチングバンドViolet Impulse | |
17 | 滋賀県立甲西高等学校吹奏楽部 | |
18 | 明浄学院高等学校吹奏楽部Queenstar | |
19 | 四條畷学園高等学校Burning Bravers | |
休 憩 | ||
エキシビション(16:23~) | ||
20 | Pekoe | |
21 | Guard Team ONE | |
22 | Color Guard Team Noah | |
23 | Legend of ANGELS Drum & Bugle Corps | |
休 憩 | ||
成 績 発 表 ・ 表 彰 式(17:00~) |
二十四節気「秋分」考。現代人はなぜヒガンバナに魅せられるのか
2018年09月23日
9月23日より二十四節気「秋分」となります。またその初日は祝日「秋分の日」であり、この日を中心に前後三日を合わせた七日間がいわゆる「お彼岸」です。同じく「春分」の初日を中心とした七日間とともに、お彼岸には先祖供養のために墓参をする風習が現代でも存続していますね。これは古い天道(てんとう)信仰が仏教に吸収習合された日本ならではの習俗。天道信仰、そして彼岸とは?そして、秋の彼岸でひときわ存在感を放つあの花について解説します。
春分と秋分(二分)には昼夜の時間が同じになる、と解説されますが、厳密には大気の屈折率や太陽の地球から見た直径分などで、日本の緯度では約十数分昼の時間が長くなり、実際に昼夜の時間差がもっとも少なくなるのは春分の場合は春の彼岸の入り直前の日(春分の日の四日前)、秋分の場合は彼岸明け直後の日(秋分の日の四日後)となります。ではその日が春分・秋分になるのではないか、というとそうではなく、春分と秋分の日には太陽が真東の方角から昇り、真西の方角に沈むのです。このことが、この両日が特別な意味を持つ大切な日である理由です。
天空には、天の赤道(地球上の赤道を垂直に空に伸ばしていき、天球につきあたった場所)と、天の黄道(太陽の公転周期により、太陽が一年かけて移動していくルート)とがあり、この二つの巨大なリングは地球の自転軸の太陽に向けての傾きの分だけずれています。そして天の赤道と天の黄道が交接する箇所が、春分と秋分なのです。天動説だった時代には、この二箇所は、この世(此岸)とあの世(彼岸)に通じるゲート(出入り口、門)と考えられ、この門に太陽が位置するとき、この世にありながらあの世と接続できる、と信じられてきたのです。
春分と秋分には、太陽が真西から穢土(此岸)を西方の彼方にある浄土(彼岸)に向けて照らし、浄土からのお迎え(来迎)に導く。つまり彼岸にあると言われる極楽浄土の世界への転生が聞き届けられる日、とされたのです。
日本では、先史時代から続いてきた独自の太陽信仰と、道教の天道思想・仏教の涅槃思想とが結びつき、中世から近世にかけて庶民の間で「天道念仏」と呼ばれる信仰行事が盛んになりました。各地によりバリエーションがありますが彼岸の日に「南無阿弥陀仏」を唱えながら鉦と締太鼓の調子に合わせて輪になって踊り、また太陽の運行に合わせて集落の東、南、西と寺を巡り念仏を唱えて回りました。現在では、主なところで対馬(長崎県)、播磨地方(兵庫県)、北総地方(千葉県)などで天道念仏の風習が残っています。
天空には、天の赤道(地球上の赤道を垂直に空に伸ばしていき、天球につきあたった場所)と、天の黄道(太陽の公転周期により、太陽が一年かけて移動していくルート)とがあり、この二つの巨大なリングは地球の自転軸の太陽に向けての傾きの分だけずれています。そして天の赤道と天の黄道が交接する箇所が、春分と秋分なのです。天動説だった時代には、この二箇所は、この世(此岸)とあの世(彼岸)に通じるゲート(出入り口、門)と考えられ、この門に太陽が位置するとき、この世にありながらあの世と接続できる、と信じられてきたのです。
春分と秋分には、太陽が真西から穢土(此岸)を西方の彼方にある浄土(彼岸)に向けて照らし、浄土からのお迎え(来迎)に導く。つまり彼岸にあると言われる極楽浄土の世界への転生が聞き届けられる日、とされたのです。
日本では、先史時代から続いてきた独自の太陽信仰と、道教の天道思想・仏教の涅槃思想とが結びつき、中世から近世にかけて庶民の間で「天道念仏」と呼ばれる信仰行事が盛んになりました。各地によりバリエーションがありますが彼岸の日に「南無阿弥陀仏」を唱えながら鉦と締太鼓の調子に合わせて輪になって踊り、また太陽の運行に合わせて集落の東、南、西と寺を巡り念仏を唱えて回りました。現在では、主なところで対馬(長崎県)、播磨地方(兵庫県)、北総地方(千葉県)などで天道念仏の風習が残っています。
秋彼岸のシンボル・ヒガンバナ。いつどこから来たかわかっていません
単に「彼岸」という場合、季語が春になり、春彼岸のほうがメジャーな印象がありますが、花に関しては秋のほうに軍配が上がります。春分草という草は存在しないのに、秋分草は存在します。そして、知らない人はいないであろう、秋彼岸の時期に毎年咲き出す真紅のヒガンバナ。
でもよく知られている植物にもかかわらず、実は日本文化・社会とこの花との関わりは、よくわかっていないことが多いのです。
キジカクシ目ヒガンバナ科に属するヒガンバナ(Lycoris radiata)は、染色体が三倍体で不稔性が強く、ごくまれに種子を創ることはあっても、日本に繁殖するヒガンバナのほとんどは根によって増殖したクローンだといわれています。水田の畦、川土手、里山の林道、祠・路傍の石仏の周囲や寺の境内、そして墓地のような人里の環境に限って生育する典型的な人里植物です。在来種ではなく大陸由来の帰化植物であることはわかっていますが、いつごろ日本に渡ってきたのかわかっていません。というのも、江戸時代以前の上代、中世の残存する文献には、一切ヒガンバナに関する記述が見当たらないからです。万葉集に所収されている柿本人麿作ともいわれる一首「路の邊のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は(巻11‐2480)」、この謎の花「いちしの花」がヒガンバナのことである、と植物学の大家・牧野富太郎が1952年に提唱し、このため「奈良時代にもヒガンバナはあった」という説が一時主流となりましたが、現在では「いちしろく」の「しろく」を明るい=赤と読んで赤い花とするには、万葉集の「いちしろく」の別箇所での使用例がすべて白に当てられていることから妥当性が低いと考えられるようになりました。
ヒガンバナが明確に「曼珠沙華」として文献に登場するのは室町時代になってからで、室町時代には、インド原産の珍しいあでやかな花として珍重されていたようです。
これが、江戸期に入ると「本草綱目」や「和漢三才図会」などに取り上げられ、次第に巷に知られる花となって行きました。おそらくその頃全国の農村に伝播し、各地でさまざまな呼び名をつけられるようになりました。1000を超えるとも言われるヒガンバナの別名の異常な数多さは、愛され親しまれていたからではなく、普及が比較的遅く(江戸前期から中期)、また急速に広まったため、各地域で好き勝手な名前がつけられたためだと思われます。
江戸時代、土葬の広まりとともに全草に毒のあるヒガンバナが野生動物の墓荒らしの防御のために墓場に盛んに植栽されたことから、次第に不祝儀な花、忌まわしい花になっていきました。
弁柄の 毒々しさよ 曼珠沙華 (森川許六)
長く上向きにのびたヒガンバナの蕊(しべ)を、ヘビの長い舌に見立てて気味悪がったり、墓地に目立つことから死人花、地獄花、幽霊花、墓花などの名もつけられました。彼岸花という名も、墓参りとの関連からつけられたものでしょう。
また、毒草であることから、ユリ科のツルボ(すみら)や同じヒガンバナ科のニラ(くくみら)など、葉のすらりとした単子葉植物全般につけられる「みら」に毒を冠して「ドクスミラ」などとも名づけられています。江戸期においては、総体的にはあまりイメージのよくない花として、絵画にもほとんど登場しないことから、美意識的な訴求力はさほどなかったようです。
でもよく知られている植物にもかかわらず、実は日本文化・社会とこの花との関わりは、よくわかっていないことが多いのです。
キジカクシ目ヒガンバナ科に属するヒガンバナ(Lycoris radiata)は、染色体が三倍体で不稔性が強く、ごくまれに種子を創ることはあっても、日本に繁殖するヒガンバナのほとんどは根によって増殖したクローンだといわれています。水田の畦、川土手、里山の林道、祠・路傍の石仏の周囲や寺の境内、そして墓地のような人里の環境に限って生育する典型的な人里植物です。在来種ではなく大陸由来の帰化植物であることはわかっていますが、いつごろ日本に渡ってきたのかわかっていません。というのも、江戸時代以前の上代、中世の残存する文献には、一切ヒガンバナに関する記述が見当たらないからです。万葉集に所収されている柿本人麿作ともいわれる一首「路の邊のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は(巻11‐2480)」、この謎の花「いちしの花」がヒガンバナのことである、と植物学の大家・牧野富太郎が1952年に提唱し、このため「奈良時代にもヒガンバナはあった」という説が一時主流となりましたが、現在では「いちしろく」の「しろく」を明るい=赤と読んで赤い花とするには、万葉集の「いちしろく」の別箇所での使用例がすべて白に当てられていることから妥当性が低いと考えられるようになりました。
ヒガンバナが明確に「曼珠沙華」として文献に登場するのは室町時代になってからで、室町時代には、インド原産の珍しいあでやかな花として珍重されていたようです。
これが、江戸期に入ると「本草綱目」や「和漢三才図会」などに取り上げられ、次第に巷に知られる花となって行きました。おそらくその頃全国の農村に伝播し、各地でさまざまな呼び名をつけられるようになりました。1000を超えるとも言われるヒガンバナの別名の異常な数多さは、愛され親しまれていたからではなく、普及が比較的遅く(江戸前期から中期)、また急速に広まったため、各地域で好き勝手な名前がつけられたためだと思われます。
江戸時代、土葬の広まりとともに全草に毒のあるヒガンバナが野生動物の墓荒らしの防御のために墓場に盛んに植栽されたことから、次第に不祝儀な花、忌まわしい花になっていきました。
弁柄の 毒々しさよ 曼珠沙華 (森川許六)
長く上向きにのびたヒガンバナの蕊(しべ)を、ヘビの長い舌に見立てて気味悪がったり、墓地に目立つことから死人花、地獄花、幽霊花、墓花などの名もつけられました。彼岸花という名も、墓参りとの関連からつけられたものでしょう。
また、毒草であることから、ユリ科のツルボ(すみら)や同じヒガンバナ科のニラ(くくみら)など、葉のすらりとした単子葉植物全般につけられる「みら」に毒を冠して「ドクスミラ」などとも名づけられています。江戸期においては、総体的にはあまりイメージのよくない花として、絵画にもほとんど登場しないことから、美意識的な訴求力はさほどなかったようです。
ヒガンバナの咲き乱れる光景は都市生活者の思い描く「幻影の故郷」である
昔ながらの農村で咲く彼岸花の開花風景を求めて出かけてみると、地権者の農家の方によって他の雑草とともに容赦なく刈り取られて廃棄されているのを見かけることもしばしばです。咲いていればさぞ見事だっただろうにと思うのは都市生活者の感慨で、農家にとっては、モグラなどの害獣除けと土手の強化に根が地中に張っていれば問題なく、花に対しての思い入れはさほどないようです。このドライな感覚は、おそらく江戸時代の人々と同じものでしょう。
ヒガンバナは、都市生活者が日本の原風景的な「田舎」「農村」を思い描くとき、ぞくりとする美しさをもってたちあらわれてくるものなのではないでしょうか。
これは、日本全体が近代化=都市文明化がはじまった明治以降、ヒガンバナが文学のジャンルで突然脚光を浴びることになったことと合致します。正岡子規、河東碧梧桐、夏目漱石、北原白秋、種田山頭火、伊藤左千夫、古泉千樫、斉藤茂吉などの文人がこぞってヒガンバナを詩歌に詠み、このことにより独特の情緒をかきたてる花のイメージが創出されました。
きんいろの 日光すみて壕向う 静けき土手の 曼珠沙華の華 (古泉千樫)
この歌では忌まわしいイメージを払拭するように、明るい秋の陽光のもとにヒガンバナを歌い上げています。一方で
彼岸花さくふるさとは お墓のあるばかり
ここを墓場とし 曼珠沙華燃ゆる (種田山頭火)
のように、墓、死、寺と結びついたややゴシック風味に誇張されたイメージも形成されました。そして昭和初期の「新・秋の七草」ではヒガンバナが選出されたことは、その頃には秋の花の中でも代表的な地位を得るほどになっていたことをうかがわせます。戦後は、絵画作品や映画、ドラマ、アニメーションなどにもたびたび登場し、特に村里の秋の風景の欠かせないアイテムとして印象が強くなりました。うねうねとヘビのように連なる田んぼの畦を、まるで血管のように赤く染めていくヒガンバナの群落は、村落共同体の血縁の絆のようにも、農民たちが施政者の圧制に苦しみ、流してきた血のようにも見えます。根無し草のようにアイデンティティの喪失におびえる都市生活者の心は、因習にとらわれた村里を忌まわしく恐怖すると同時に、その忌まわしさも含めて懐かしさをおぼえ、幻想の中の故郷の風景の象徴としてのヒガンバナに、強く魅せられるようになったのではないでしょうか。
近年では、ヒガンバナの大群落が観光地化し、ときに自治体が名物として推す傾向も強くなってきていますね。一見、純粋にヒガンバナの花としての美しさやあでやかさを鑑賞できるようになったのかとも思えますが、かといって自宅の庭一面に曼珠沙華を植える人はいませんよね。やはり、遠くの別世界=彼岸に咲いていてほしい花であることはそうそう変わらないようです。現代でもヒガンバナはまさに「彼岸の花」であると言っていいでしょう。
ヒガンバナは、都市生活者が日本の原風景的な「田舎」「農村」を思い描くとき、ぞくりとする美しさをもってたちあらわれてくるものなのではないでしょうか。
これは、日本全体が近代化=都市文明化がはじまった明治以降、ヒガンバナが文学のジャンルで突然脚光を浴びることになったことと合致します。正岡子規、河東碧梧桐、夏目漱石、北原白秋、種田山頭火、伊藤左千夫、古泉千樫、斉藤茂吉などの文人がこぞってヒガンバナを詩歌に詠み、このことにより独特の情緒をかきたてる花のイメージが創出されました。
きんいろの 日光すみて壕向う 静けき土手の 曼珠沙華の華 (古泉千樫)
この歌では忌まわしいイメージを払拭するように、明るい秋の陽光のもとにヒガンバナを歌い上げています。一方で
彼岸花さくふるさとは お墓のあるばかり
ここを墓場とし 曼珠沙華燃ゆる (種田山頭火)
のように、墓、死、寺と結びついたややゴシック風味に誇張されたイメージも形成されました。そして昭和初期の「新・秋の七草」ではヒガンバナが選出されたことは、その頃には秋の花の中でも代表的な地位を得るほどになっていたことをうかがわせます。戦後は、絵画作品や映画、ドラマ、アニメーションなどにもたびたび登場し、特に村里の秋の風景の欠かせないアイテムとして印象が強くなりました。うねうねとヘビのように連なる田んぼの畦を、まるで血管のように赤く染めていくヒガンバナの群落は、村落共同体の血縁の絆のようにも、農民たちが施政者の圧制に苦しみ、流してきた血のようにも見えます。根無し草のようにアイデンティティの喪失におびえる都市生活者の心は、因習にとらわれた村里を忌まわしく恐怖すると同時に、その忌まわしさも含めて懐かしさをおぼえ、幻想の中の故郷の風景の象徴としてのヒガンバナに、強く魅せられるようになったのではないでしょうか。
近年では、ヒガンバナの大群落が観光地化し、ときに自治体が名物として推す傾向も強くなってきていますね。一見、純粋にヒガンバナの花としての美しさやあでやかさを鑑賞できるようになったのかとも思えますが、かといって自宅の庭一面に曼珠沙華を植える人はいませんよね。やはり、遠くの別世界=彼岸に咲いていてほしい花であることはそうそう変わらないようです。現代でもヒガンバナはまさに「彼岸の花」であると言っていいでしょう。
秋の新そば……美味しく正しく、楽しみたい!
2018年09月22日
珍しい赤そばの花(普通は白)見頃は9月中旬
夏場に収穫したそばの実から作られたそばを、夏の新そば、夏新(なつしん)、秋以降に収穫したそばの実から作られたそばを、秋の新そば、秋新(あきしん)と呼びます。
夏新は秋新に比べ香りや味がやや劣り、通常、新そばとは秋新のことをいいます。
香りが高く味も格別……秋新の収穫は9 月後半から11月中といいますから、これからですね。
秋の新そばをもっと美味しく、そしてお洒落(しゃれ)に……いただけるよう、そばの魅力、正しい食べ方についてご紹介しましょう。
夏新は秋新に比べ香りや味がやや劣り、通常、新そばとは秋新のことをいいます。
香りが高く味も格別……秋新の収穫は9 月後半から11月中といいますから、これからですね。
秋の新そばをもっと美味しく、そしてお洒落(しゃれ)に……いただけるよう、そばの魅力、正しい食べ方についてご紹介しましょう。
そばの実とそば
そばを今のようにそば切り(麺状のそば)で食するようになったのは、江戸時代に入ってから。それまでは餅(もち)や団子状のものを食べていました、
江戸っ子のそば好きは有名ですね。それは、上方のうどんへの対抗意識や、採れたての「新そば」を味わうことが初物好きの江戸っ子の好みにマッチしたようです。
もちろん、江戸っ子が登場する落語にもそばはつきもの。落語を演じる二大要素は、しゃべりと仕種(しぐさ)。特に、扇子(せんす)と手ぬぐいだけで表現するそばを食べる仕種は、一番の見せ場であり、見所。
そばをツルツルっと食べるところで客席から、わああ……と拍手があれば、落語家にとって「今日の高座は大成功」ということになるそうです。五代目・柳家小さん師匠の「時そば」は名人芸と言われていますね。
江戸っ子のそば好きは有名ですね。それは、上方のうどんへの対抗意識や、採れたての「新そば」を味わうことが初物好きの江戸っ子の好みにマッチしたようです。
もちろん、江戸っ子が登場する落語にもそばはつきもの。落語を演じる二大要素は、しゃべりと仕種(しぐさ)。特に、扇子(せんす)と手ぬぐいだけで表現するそばを食べる仕種は、一番の見せ場であり、見所。
そばをツルツルっと食べるところで客席から、わああ……と拍手があれば、落語家にとって「今日の高座は大成功」ということになるそうです。五代目・柳家小さん師匠の「時そば」は名人芸と言われていますね。
引っ越しそば、年越しそばの意味は?
大晦日に食べたい年越しそば
耳にしたことのある「引っ越しそば」とは、どういう意味でしょう? 引っ越した日にそばを食べる習わし、と思われてる方もいるようですが、そうではありません。それは、引っ越し先のご近所に二八そば(小麦粉とそば粉の割合が2:8の一般的なそば)を配ること。つまり、あいさつ回りですね。この習慣は江戸時代中期、江戸を中心に始まりました。
そば(=近く)に越して来たことにかけて「おそばに末永く」や、「細く長くおつき合いをよろしく」という意味合いのようです。
年越しそばの風習が根づいたのも江戸時代。これは日本の風習、文化として今も定着していますね。
では、なぜ、大晦日にそばを食べるのでしょう。これには、
・そばが他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」
・そばが細長いことから「長寿・延命を願う」
・金銀細工師が金銀の粉を集める際にそば粉の団子を使ったことから「金を集める縁起物にあやかる」
など、諸説あるようです。
どちらも江戸っ子らしい洒落(しゃれ)っけが漂いますね。もっとも、引っ越しでそばを配るのは、それが一番手軽で安上がりだから、というのが一番の理由という説も。これも江戸っ子らしいですね。
そば(=近く)に越して来たことにかけて「おそばに末永く」や、「細く長くおつき合いをよろしく」という意味合いのようです。
年越しそばの風習が根づいたのも江戸時代。これは日本の風習、文化として今も定着していますね。
では、なぜ、大晦日にそばを食べるのでしょう。これには、
・そばが他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」
・そばが細長いことから「長寿・延命を願う」
・金銀細工師が金銀の粉を集める際にそば粉の団子を使ったことから「金を集める縁起物にあやかる」
など、諸説あるようです。
どちらも江戸っ子らしい洒落(しゃれ)っけが漂いますね。もっとも、引っ越しでそばを配るのは、それが一番手軽で安上がりだから、というのが一番の理由という説も。これも江戸っ子らしいですね。
粋でお洒落なそばの作法
そばはつゆをつけすぎず、ささっと食べるのが粋
「藪」「更科」「砂場」──江戸時代に生まれ、現在も引き継がれているそばの御三家です。
どれも一軒のそば屋から始まり、兄弟や親戚、弟子などが暖簾(のれん)分けをして広がりました。由緒、格式を感じますね。そんなそばには、やはり、こだわりの作法、正しい食べ方というものがあります。最後にそれをご紹介しましょう。
手打ちそば屋に入ったら、
1、ざるそばを注文する。麦の味と香りが一番楽しめるのはざるそば。そば屋の店主も、ざるそばを注文されると通(つう)のお客だと思って身が引き締まる、とか。
2、ひと口めは、そばをつゆにつけずにそのまま食べてみる。目を閉じて、鼻に抜ける繊細な風味を堪能できれば、それはもう立派な「そば通」。
3、そばをつけて食べる前にそばつゆの濃さを確認し、どのくらいそばをつゆに浸したらよいかを確かめる。同時に、そばつゆのだしの味、香りも楽しむ。
4、薬味はそばつゆに入れず、適量をそばにのせて食べる。薬味をつゆに入れるのもNGではない。その際は、薬味を入れる前にそばつゆ本来の味も堪能する。
5、そばは一気に食べる。すするときは、音を立ててもNO PROBLEM! 途中で噛み切らず、一気にすする。めんつゆの器は、手で持ってOK。そばはすぐにのびてちぎれてしまうので、出されたら、おしゃべりはストップして5分ほどで豪快に食べきる。
6、残ったつゆの器にそば湯を注ぎ、適度にうすめていただく。
7、食べた後は長居せず、ささっと帰る。
どれも一軒のそば屋から始まり、兄弟や親戚、弟子などが暖簾(のれん)分けをして広がりました。由緒、格式を感じますね。そんなそばには、やはり、こだわりの作法、正しい食べ方というものがあります。最後にそれをご紹介しましょう。
手打ちそば屋に入ったら、
1、ざるそばを注文する。麦の味と香りが一番楽しめるのはざるそば。そば屋の店主も、ざるそばを注文されると通(つう)のお客だと思って身が引き締まる、とか。
2、ひと口めは、そばをつゆにつけずにそのまま食べてみる。目を閉じて、鼻に抜ける繊細な風味を堪能できれば、それはもう立派な「そば通」。
3、そばをつけて食べる前にそばつゆの濃さを確認し、どのくらいそばをつゆに浸したらよいかを確かめる。同時に、そばつゆのだしの味、香りも楽しむ。
4、薬味はそばつゆに入れず、適量をそばにのせて食べる。薬味をつゆに入れるのもNGではない。その際は、薬味を入れる前にそばつゆ本来の味も堪能する。
5、そばは一気に食べる。すするときは、音を立ててもNO PROBLEM! 途中で噛み切らず、一気にすする。めんつゆの器は、手で持ってOK。そばはすぐにのびてちぎれてしまうので、出されたら、おしゃべりはストップして5分ほどで豪快に食べきる。
6、残ったつゆの器にそば湯を注ぎ、適度にうすめていただく。
7、食べた後は長居せず、ささっと帰る。
「そば前」も楽しみたい
日本酒できゅっ、と一杯……
そばを食べる前に酒を飲むことを「そば前」と言います。つまみは、板わさ→卵焼き→天ぷら……とさっぱり系から油っぽい系に移行するのがポイント。夏は冷酒、冬は熱燗。
つまみと酒を仕上げるタイミングでそばを頼み、5分ほどでそばを豪快に食べきって、後はそば湯を堪能する──「ひとりそば前」なら正味一時間程度。
そばは栄養価の高いヘルシーフード。今年の秋は、ふらりとそば屋の暖簾をくぐり、姿勢よく、粋に、新そばをいただく……のはいかがでしょう?
つまみと酒を仕上げるタイミングでそばを頼み、5分ほどでそばを豪快に食べきって、後はそば湯を堪能する──「ひとりそば前」なら正味一時間程度。
そばは栄養価の高いヘルシーフード。今年の秋は、ふらりとそば屋の暖簾をくぐり、姿勢よく、粋に、新そばをいただく……のはいかがでしょう?
1 | 大 阪 | 大阪市立菫中学校 | 銅 |
2 | 京 都 | 京都市立修学院中学校 | 銀 |
3 | 兵 庫 | 神戸市立多聞東中学校 | 金・代表 |
4 | 京 都 | 京田辺市立田辺中学校 | 銀 |
5 | 兵 庫 | 西宮市立甲陵中学校 | 金・代表 |
6 | 和歌山 | 橋本市立高野口中学校 |
銅 |
7 | 大 阪 | 八尾市立曙川南中学校 | 金 |
8 | 大 阪 | 豊中市立第十三中学校 | 銅 |
9 | 兵 庫 | 神戸市立塩屋中学校 | 金 |
10 | 大 阪 | 大阪市立緑中学校 | 銀 |
11 | 大 阪 | 豊中市立第十四中学校 | 金 |
12 | 大 阪 | 大阪市立蒲生中学校 | 銀 |
13 | 兵 庫 | 神戸市立有馬中学校 | 銅 |
14 | 奈 良 | 王寺町立王寺中学校 | 銀 |
15 | 大 阪 | 堺市立三原台中学校 | 銀 |
16 | 兵 庫 | 神戸市立垂水中学校 | 銀 |
17 | 大 阪 | 池田市立池田中学校 | 銀 |
18 | 京 都 | 宇治市立宇治中学校 | 金・代表 |
19 | 京 都 | 宇治市立東宇治中学校 | 金 |
20 | 大 阪 | 大阪市立堀江中学校 | 銀 |
21 | 兵 庫 | 神戸市立上野中学校 | 銀 |
22 | 和歌山 | 紀の川市立打田中学校 | 銅 |
23 | 京 都 | 京都市立開睛小中学校 | 銅 |
24 | 大 阪 | 豊中市立第九中学校 | 銀 |
25 | 兵 庫 | 神戸市立北神戸中学校 | 銀 |
26 | 兵 庫 | 尼崎市立大庄中学校 | 銀 |
27 | 大 阪 | 泉南市立一丘中学校 | 銀 |
28 | 奈 良 | 宇陀市立榛原中学校 | 銀 |
29 | 滋 賀 | 甲賀市立城山中学校 | 銅 |
30 | 大 阪 | 箕面市立第五中学校 | 銀 |
31 | 兵 庫 | 姫路市立飾磨東中学校 | 金・代表 |
32 | 兵 庫 | 西宮市立上甲子園中学校 | 金・代表 |