馬鹿ほど高いプライド?

2008-11-24 17:28:09 | 自立の定義
馬鹿ほど高い・・・・馬鹿だから高い・・・プライド

さて、馬鹿とは何か?
勉学を怠けて、社会生活を営むに必要な知識が少ない者
勉学、学習、修練など様々な表現がありましょうが、
様々な教育制度がこの社会ではあるはずで、そこでは学ぶ機会は多い・・・はず

通常の興味関心や感受性・好奇心などをもって学べば、相応の職業に就き
相応の収入が得られる・・・はず

これらの「はず」がかなわなかった人・・・^^
怠けがことの始まりなんですが、この人たちは、いや、比率の大小はあっても、すべての人の心にある。といった方が適切で謙虚かもしれませんね^^

怠けると・・・怠けを隠したいので、言い訳やウソをつく、怠けていない、と。
勉強の成績が悪いのは、努力が足りないのではなく、この面での才能がないと
とにかく、馬鹿といわれたくないから、何かの言い訳を考える。
馬鹿と言わせないための暴力的言動や態度で相手を委縮させ、とにかく馬鹿にされることを嫌い、馬鹿にした者に対しては、自分が正義であるかのように攻撃的になる。攻撃的自体が正義ではないにもかかわらず、事の始まりが自分の怠けであっても・・・
馬鹿にされたくない、なめられたくない?認めてほしい?愛されたい?
・・・怠けに始まる心情は延々と複雑に多様化していく・・・

一方、
むしろ、通常の学びを成した者には、プライドがあるはず・・・かも
努力の量が多ければ多いほど、そのプライドが高くてもいいの・・・かも
しかし、学べば学ぶほどプライドという意識は薄まっていくようにも思えます。
くだらないと思うようになる・・・のかも

プライドの定義は、いろいろ考えられますが、他者に比して優れたることが根底にあると考えるならば、平穏な社会生活を営むには支障となる可能性もありそうである。偉そうに自慢すると仲間外れになります。相手のプライドを傷つけるから

また、排他的な職業意識としてこれに専念する姿勢をプライドと称することもある。この意味では、あるべき好ましきものとして通用しているかもしれない。


暴力的な事件が毎日のように起きて、
犯人の心理が毎日テレビなんかで議論される・・・
・・・そういうのって、もっと元の部分で共通点とか傾向とか・・・
勉学に打ち込む時期は、人によってその適した時期が違うんだろうと思う。
国家の教育として、年齢で全体的、平均的な教育を行う制度では、これに適合しない者を怠け者や落伍者としてバッサリ切断するしかないかもしれないけど、

その時期が遅れる人がいて当たり前で、愚かでも怠けでもない、という教育や学問の認識がもっと強くなってもいい。

言葉を早く覚える赤ちゃん、おむつが早く取れる赤ちゃん・・・そうじゃなかった赤ちゃんが社会生活で落伍者となることは、考えにくいよね・・・
こういうのの拡大解釈的な教育議論・・・かも

ついつい長い独り言となりました・・・^^

家族って何だろ?

2008-10-23 12:19:04 | 自立の定義
一昨日、親と子の心性みたいなメモ書きしましたが
さて、夫婦・・・家族は?と思いが広がるわけで・・・

最近ちょっと気になるテーマなので、よい書物を探してました。


情愛は家族の絶対条件か 
家族イメージの核心は何といっても、そこは人間にとって不可欠の心のやすらぎを与えてくれる情愛に満ち溢れた場であるということだろう。人と人とが功利的・手段的な契機で集い、不断の緊張状態におかれるゲゼルシャフト的関係が近代以降の人間にとって重みを増してくるなかで、家族はお互いが全人格をもって感情的に融合し、親密な愛情のもとに運命を共にするゲマインシャフト的関係の代表であると、F/テンニースは定式化している。
[「現代家族の社会学」石川実(編):有斐閣ブックス]

”家族はお互いが全人格をもって感情的に融合し、親密な愛情のもとに運命を共にする”
これが・・・難しい・・・もともと他人の二人の出会いがあって、
感情の高まりに導かれ結婚・・・その後に理解を深めていく
全人格をもって感情融合する・・・なんでしょうね?
人は良くも悪くも在るものであれば、その良くも悪くも全てを受容れて感情融合
人は良くも悪くも在るのでなく、良くも悪くもをあるがままに認識して、
良きに近づける、修正する、改善する・・・その意志が良いといえる唯一のもので
絶対的な「良」や「悪」が在るのではない。

そういう夫婦の出会いってあるかな?
なければ、そういう導きのようなガイドが一般的にあればいいかも



親と子の関係

2008-10-21 12:01:37 | 自立の定義
”親は子に対して、どうありたいと思うか”

”子は親に対して、どうありたいと思うか”

この視点は、ありそうですが、その頻度は少ないかもしれない

親も子も、自身の体験に基づいて、自身の都合で相手を見る・・・
子はかくあるべき、親はかくあるべき・・・と。
たぶん、この方が通常の思考回路と考えられます。

親と子の関係を第三者の視点で説明されるものに、
親と子、それぞれが納得する・・・ということかもしれない。


「この親にしてこの子あり、この子にしてこの親あり」

バカな親子に対しても使われる一種のカラカイ表現かもしれません。

しかし、これが、
人を感動させるような立派な親子に対して使われる場合

それを見聞きする第三者は、自分もそうありたい、と思う・・・

子にかくあるべきと求めるより先に、親としての自分がかくありたい・・・と。
親にかくあるべきと求めるより先に、子としての自分はかくありたい・・・と。


何か・・ね、身が引き締まるような気持ちになるでしょ

良く生きる、正しく生きる・・



社会適合2

2006-11-22 17:35:31 | 自立の定義
国家や市民社会、家庭という共同体は、あるべき社会の姿を希求しつつ、その全体社会に適合できる人材を育成する。
学ぶ人は、「社会適合」を目標にし、教える側は「社会適合」の方法論を考える存在ということになりましょうか。

・・・と前回書きましたが、個人は社会適合を目標に生きると表現するのは厭な感じがします。

国家や市民社会、家庭が共同体として社会適合を好ましいものとするのは、市民社会が個人の自由な欲求を追及する場であるから、共同体はその自由を調整する制度をつくる役割をするからでもある。
だから、個人は自由に欲求を追及することの先にあることが目標であろう。
ただし、その自由は、ヘーゲルが言うように、「他人と豊かに交流」を持つこと、すなわち、他人の権利を侵害しない、他人の自由を犠牲にした関係ではない。

自由・・・自由は精神のあり方の核心をいう言葉で、
個人の精神においては、
個人が自立して自由に振舞いつつ、他人と豊に交流を持つこと
集団の精神においては、
集団が個人の自由を保障しつつ、集団としての活力と統一性を保持すること
(ヘーゲル:精神の自由)

こうした議論が何に役立つのか・・・たとえば・・・国家と教育制度の問題

今日の国会で、教育基本法の改正質疑をしておりましたが、
大臣は教育の中身の話、質問者は国の役割と地方自治体の首長の権限の議論で、「地方分権」などというステージの異なる論題で、国家の干渉という体制批判的な主観が見える内容、質問の仕方も要領得ないし・・・だらだらと平行線の会話していました。
多分、大臣や与党の人たちと、テレビ中継を見ていた多くの国民は、
アッタマ悪う~って、思ったに違いない。

でも、そういうことを一切思わないで、相手の意見を尊重して聞くという態度が
教育者なんだよね。
少なくとも、相手の理解の程度を知ることになるので、それならば相手に理解していただくための説明が不足していることを反省できます。

学校以外の場では・・・なかなか・・これができる人は多くないと思うけど。
できたら・・・素敵ですね。
意見の相違がある場合など、相手をバカと思わずに話せますか・・・

そう・・書きながら・・・「私もそうかもしれない」「よくあるわ」と・・・

教育と社会適合

2006-11-17 14:21:54 | 自立の定義
親と子、夫婦、生徒と教師という関係区分でなく、
共同体・・・家族、市民社会、国家、という区分において
教育を考えなければならないものが教育基本法・・・

報道は、またしても選挙対策や一党採決・審議拒否などの言葉で
政党間の対立をゲームのように表現しておりますが・・・
教育基本法の一条ごとの文言を国民的議論にしてはいかがかと思います。
多くの法律もそうですが、立派な内容の法律があっても、現実にはそれが守られていないことを発見することがあります。
おそらく、この法律も10人が見れば半分以上の人が、改正(修正や追加)の必要があると・・・普通に思うであろうと想像します。

さて、このブログでは、種々の問題解決のための一貫したテーマを「自立」としています。
しかし、今日からこの「自立」という言葉を変更します。
いろいろな分野でいろいろな使われ方をしているということもありますが、もっと、何か・・心に残る言葉がないものかと考えて・・・

思いついたのが、「適合」「適応」「順応」・・・目的語をくっつけて、
「社会適合」「社会適応」と「社会順応」

悪しき習慣にも慣れるような意味もありそうな順応よりも、「適合」かな・・

国家や市民社会、家庭という共同体は、あるべき社会の姿を希求しつつ、その全体社会に適合できる人材を育成する。

学ぶ人は、「社会適合」を目標にし、教える側は「社会適合」の方法論を考える存在ということになりましょうか。

社会で起きる様々な事件・事故に対してどのように対処すべきか、
社会で必要な、人間関係や生活・経済的問題の解決方法
そうした全ての事は、「社会適合」をテーマにしていると言えるかもしれない。
適合という言葉は、対処、対応、問題解決などの言葉を随伴すると考えられるので、人と人生を論じるには自立よりいいかもしれません。

「社会適合」・・・ん~・・・しばらく使ってみましょう。

自立(親の精神的自立)

2006-09-07 12:55:11 | 自立の定義
さて、自立という言葉の意味を考えた場合、動植物全て、全体観として、子が親から自立することなのかもしれません。また、経済的な面だけで言えばそうなるでしょう。
親は経済的にも精神的にも自立した存在と思われていることを前提に、子の自立が論じられるからです。

でも、実際はその逆も論じる必要がある・・・人間だけ?・・・動植物に言葉があれば論じるかもね・・

親が子に自立を望み、手間隙かけて育てる。手間隙かけなくてもいいような状況でも、親として顔を出す。手間隙かけなくてもいいような年齢に達しているにもかかわらず、子に代理しようとする。

実は、子から離れたくない親の心理(親として敬われたい好かれたいという自己心理を、子のために尽くす親心と大義名分する)・・・反論あるだろうなぁ・・・
その当然あるだろう親心で、子の自立を妨げることへの慮りは優先順位が低い。

親は人徳や社会的評価において、子から尊敬されるのではない場合が多いはずです。
論理を逆にしましょう・・・・
社会的に尊敬されていない親は、せめて家の中では尊敬される存在でありたい・・・言い方が酷だね、どんな親でも子から尊敬される存在でありたい。
当然ですよね。

尊敬されるために、好かれるために・・・親は子に何をするのか?
感受性を発達させるために、子が興味を持つものを買い与え、様々な場所に連れて行き見聞させる。学業の進捗に関心を持ち、その環境を充実させ、励ます。
家業がないサラリーマンの子の、親のお手伝いは炊事洗濯雑用なので、これは誰でも嫌がるので、自然とさせない(させることができない、嫌われるから)
ここまでが未成年。

就職して、子が経済的に有利だから(親の負担であるにも関わらず)実家から通勤
。パラサイト現象?ブーメラン・キッズ?

「子が一人住まいすることのメリットは家賃よりも価値がない」
と断定してるわけよね・・・子が自活能力を身に付けることが目的と認識されない。自活能力を持つ人として社会評価されることは、子にとって重要なのに・・・

料理も洗濯も掃除も、家族以外との共同生活の教訓、総合的な結果としての時間管理、金銭管理・・・・お金払って学ぼうとすれば、どれほどなのか・・・

そういうことを、ちょっと!ちょっとちょっと考えれば思い至るけど、
嫌われたくない・尊敬されたい・好かれたい親は・・・子の意見を聞く・・・「おまえ・・・どうする?」「ここからでも通えるんだから」「用心悪いから・・」「家賃払うの不経済だよ」

これじゃ・・・子が自立しないんじゃなくて、させたくない・・に、違いない。
「子の評価に依存する自立していない親」が作り出している。

諸々の家庭事情で、全ての場合でないことは言うまでもありませんが、
該当する親子関係は・・・少なくないかもしれない、と、思う。

子が親に、本当に感謝し、尊敬するするのは、今ではなく、
一人で生きていける力が身に付いたときと、
子が、さらにその子の教育を考えるとき。
・・・で、いいの・・・

自立(子の精神的自立)2

2006-09-06 10:48:12 | 自立の定義
義務教育を過ぎた年齢の子の精神的自立・・・

何故、義務教育年齢を境界にするのかという科学的根拠はありません。
ただ、以前にも書きましたように、中学校までは、「教育→教え育む:教師が主語」側に責任が大きいが、高校以上は「学問→学び問いかける:生徒が主語」に責任が大きい。・・・という私見です。制度的にも両者は必要条件と任意条件の範囲が区別されるように思えます。

さて、思春期頃から、自我の芽生えから確率される時期:学び問いかける姿勢がより重要である時期・・・と認識して話を進めましょう。

確たる将来の目標を持って生きる姿勢は、残念ながら身近に多くはない、ように見えている気がします。(少なくとも親や大人の目にはそう見えます。自身がそうであったことと照らして)
だからと言うことでもないでしょうが、亀田親子の希(まれ)に耳目が集まる、学び問いかける強い姿勢を見ているような気がします。目標を持って何かに集中する姿勢に憧れたり、賞賛したり、感動したり・・・

この学び問いかける姿勢は、その後、生涯続く・・・人もいれば、忘れる人もいます。(この学び問いかける姿勢は青春のエネルギーと言えなくもないので、若さの源と言ってもいいかも)

話を戻すと、この学びの方向付けが、精神的自立と関わることになりますね。
当然、何かのカリスマや神のような存在がいれば絶対服従で方向付けできますが、学びの方向は、個人によって、生まれ育ち家庭環境、その他接する社会環境などによっても異なります。
しかし、個人差は何かの基盤の上にあるべきもの・・・その基盤とは?

ん~っとね・・・「社会適合が結論できる行動規範」なんてのは、どうかな?
人が生きるということ・・・一人我がままに生きることで世間の嫌われ者になって、「人は人」とうそぶく生き方を自立と言わない。
周囲の迷惑や忍耐に支えられていることなので、社会に依存する度合いが高いからです。

そうね、これ!
社会に依存する行動ではないかと常に自らを反省しながら、行動しようとする姿勢が多くなれば、社会適合する・・・かも。
「自立」の反意語は「依存」・・・・・・・・・・・・・だよね。

まぁ・・・昔のおじいちゃん、おばぁちゃんは、口をそろえて言いましたよね。
「お人様に迷惑をかけちゃだめ」
それは社会に依存しているということで、自立してほしいという気持ちの表現でもあるわけで・・・

精神的自立の定義は・・・あはっ!簡単なのね。
「お人様に迷惑をかけないこと」

・・・で、周囲と、とりわけ自分を見つめてみますと・・・
あぁ~ぁ・・・・自立してない行動や言動がいっぱい・・・未成年でなくても。

相手に損害を与えたり、相手が迷惑に思うことをすることは、相手に依存して生きているということ。自立・・・分かりやすい言葉の定義にたどり着きました、ね♪

学ぶ方向はその基盤にある限り、無限に発展するもの・・・



自立(子の精神的自立)

2006-09-05 12:26:44 | 自立の定義
自立するということと、経済観念は不可分で、学校教育で生活に必要な金銭教育がない、又は少ないことを前に言及しました。そもそも、収入と所得の間に所得税他の社会制度があるにもかかわらず、制度としてあることは知っているけど、興味を持たなくてもいい社会制度ともいえます。自分で確定申告しなくてもよい人が多いという・・・。
ですから、それを知る職業の人を先生と呼び、法律に傅く(かしずく)人がいることも事実です。
ここに、金銭に関する精神的自立についての問題の根がある・・かも。

さて、精神的自立とは、そうした観点ではなく、親が子を保護している過程における子の精神的自立の論議です。

たとえ話で始めますが。
反抗期の定義は、ここで・・・ありていですが、自我の芽生えとします。子が親に自己主張するわけですね。親からの自立の芽生えと言えなくもない。
これを、好ましい成長の証しであると肯定的に接するのか、親の正しい方向付けに反抗する悪しきモノと否定的に捕らえるかで、親子の関係に影響するものでしょう。でも、これが始なのかなぁ・・・。

幼少期の自我は、多分に五感の欲求に対する抑制に対して自己主張するもので、精神的ホメオスタシス反応・・・(なぁ~んちゃって。よく知らない言葉は使わない方がいいね。)要するに、生まれてから自我があると言いたいの。
その時期に、できたことを褒めて育てるかか、できないことを折檻して育てるかということが、自我の発展に重要であること。言うまでもない・・
この時期からの人の精神的成長の過程の構造的認識の普及が、もっと、もっと、もっと必要で、特に現代は、子の教育に関して「おせっかい」だった近隣や親族などのコミュニケーションが変化して、方法論が親の知識情報レベルによって多様と言えば聞こえはいいけど、放任・・・に見える場合がある。

継続的な暴力で子を瀕死の状態にさせた親が・・・「しつけのつもりでやった」という事例を新聞等で見ることがありますが、それが言い訳として通用すると、親が思っている社会の方にも責任がないともいえない。

子の精神的自立の論議において、はじめの認識です。
親の知識情報と教養が、子の精神的自立に責任が大きいこと。
そのために社会全体が提供する知識情報が重要であること。

・・・様々な人が、この観点で活動しておられることは承知しています。
点在するそうした意思を統合できれば・・・と思う人も。

次は義務教育を過ぎた年齢の精神的自立について・・

自立(子の経済的自立)

2006-09-01 12:18:45 | 自立の定義
「自立」の定義をしようとしましたが、思うほど簡単ではないように思えてきました。何はともあれ、少しずつ、思いつくままに・・・

子の「自立」とは・・・
経済的な自立をするためには、教育→就職、で収入があれば事足りますね。
・・・と言いたいところですが、たとえば・・、次のようなイメージかな。
「収入を消費と貯蓄に分けて、将来設計を描き、節度ある生活ができること。」

そう!もちろん親の援助に頼らずが基本です。
親はすでに扶養の義務もなければ、法定代理人でもありません。
(家業を継いでいる場合や、富裕層の場合でも、基本の考え方とします。個別事情は、それを踏まえて異なってくるでしょうが)

え~っと・・・そういうことを考え、普及するには、体制の問題点が一つ。
教育は、おそらく、実生活や金銭欲に関わることを意識的に避けているように思えます。基本の知識は学校で、応用は実社会で・・・という決まりでもあるのかないのか・・・応用の仕方が教えられないのです。

毎月いくらの収入があり、その中からいくらを何%で貯金すれば10年後、20年後、30年後にはいくらになるのか?毎月の消費にかかる費用は?税金の仕組みと役割は?株式会社の仕組みと役割は?・・・・などなど・・政府・自治体の仕組みと役割、個人の生活と公共部門の関わりとそれぞれの役割・・・全体的なお金の流れのことです。ぜ~んぶ!この社会で、この国で生きるために直接必要な生活知識!

広く浅くであっても、そういうことの知識は、社会全体のお金の流れや仕組みを理解することで、結局、この社会は我利我欲の集合体に見えても相互扶助の仕組みを作っていることに気が付くのです。その中で自身の存在や役割の認識がある行動がなされるのだろうと思います。
経済的な「自立」ということの理解には、単に自分だけの生活の向上を目的に、何をなしても良いと思われないために、必要な体制教育と考えます。

経済的な・・・という場合に、今日的な問題として、相続という問題を通じての親子関係(これは「子の親からの自立」ともちろん関わりがあります)というものがありますが、ここでは書ききれません。

ふぅ~・・・子の精神的自立と親子関係のあり方・・・次はこれかな。
その次は、親が子から「精神的に自立」というのもありそう・・・

とにかく、「自立」は、政治・経済、国の外交にまで、その概念が議論されるものであることは承知していますが、・・・ここでは、犯罪の防止という切り口から、個人、親子・夫婦のミクロ単位の論点を引き続き・・・

自立

2006-08-31 12:50:28 | 自立の定義
ここまでに、このブログで、書きながら思いついたこと。
犯罪防止のためのいくつかのキーワードがあります。
「高慢」「怠惰」「自立」・・・
言葉は様々な解釈で一人歩きするもの・・・なので、それぞれの言葉の定義があるといいかも。

親子の犯罪・・・いや、「争い」としましょう。事件は多くの「争い」のいくつかが表面化したものと考えられますから。
それを改善するには、親と子に共通の目標認識があればと書いてきました。
「親と子は、子の自立を目標として行動する」という共通認識です。
親が尽くす最大の愛の行動は自立させること。
未成年の子の目標は親から自立する方法を学ぶこと。

小学生ぐらいからね。学校教育においても必要だわ。
教育の目的が明確でない先生もいらっしゃるように思うことがありますので、改めて教育の目的として再認識してもいいかも。
教育の目的は、古今東西似たものと思います・・・良い職業を得て、よい収入を得るため。貧しさからの脱出・・・。
(経済的に豊かになり過ぎた国では、働かなくても生きていける漠然とした感覚が生まれるのか、この意識が薄れてくるのでしょうね)
教育における、この初期の目的は、子の、いや生徒の「自立」のためであることは言うまでもありません。親子の目標と一緒です。もちろん当然ですが。

そうすると、家庭でも学校でも、「自立」の定義が必要です。単に経済的に自活ができる収入を得るということでなく、精神的な自立も。
しかして、その精神的自立とは?

昨日も書きましたが、改善策が表裏となった言葉「自立」
金銭を目的とした暴力、嫌がらせ・・・盗みや万引きは「自立」の反意。
いじめや脅し、恫喝などは精神的、情緒的未熟を示すもので、明らかに「自立」に対峙します。

そうした認識で「自立」を説明できる教師がいれば・・・
「いじめや暴力などの人権侵害の上に、人生は成り立たないの、手にするものは全て他人の犠牲の上にあるものだからよ。私たちの目標は自立よ!自立は人の犠牲の上にあったり、人に頼ることじゃないの!」

もっと、もっと、あるはずです。
「自立」を説明する言葉や表現・・・それが応用できる場面が。

「親が尽くす最大の愛の行動は子を自立させること」
子はいずれ、こんなことを言うのです・・・
「親から独立することこそ、親孝行だと信じている。精神的にも経済的にも」

・・・そう・・・「自立」は愛の言葉よね・・・・

言葉の定義に行き着くまでには、もう少しかかりそうです・・・