教育再生会議2

2006-11-30 16:56:50 | 時事報道放談
コミュニケーションの体験の積み重ね
・・・とは?

イヤな奴がいる
何故、イヤなの?
自分と意見が合わないから
何故意見が合わないの?
自分勝手な人は嫌われます・・・でも、全ての人は自分勝手だと思うわ
それじゃ・・・自分勝手の限度を超えればということ?
限度って何?
相手の人権を侵害すること
人権侵害って、相手と状況によって変化することはない?セクハラみたいに
相手の了解があることが人権侵害の判定の根拠の一つだわ
相手の了解を金銭や脅迫で得られたと主張する奴が必ず出現するわ
第三者である先生が判定するの?
えこひいきや思い込みは発生しない?
第二の第三者である判定委員会が判定する?
学校と家庭が市民社会の中で独立、又は重複して、その中に警察・司法機能を持つことになりそうね?金融機関のような被管理社会にいる人はもともと社員規定が懲罰も含めて似たような機能を持っているけど。公務員と家庭には、職員規定は職務に関することだけ、家訓のようなものはあっても統一倫理ではなく、目的も異なる。

学校と生徒の保護者が、学校の教育方針と方法、家庭での教育方針と方法を義務として協議する場があり、学校と家庭が協働することを前提に、問題発生時にその役割と責任をチェックできる報告制度などが思いつくのかもしれませんね。
大変だけど・・・個別の家庭事情を知りつつも、口出しできない、しない一方通行の教育に限界はあるのだし。

同時に忘れてはならないことは、
人生と、人と社会のすばらしさを教えることが教育と学問の大部分であってほしいと・・・

報道機関特有(使命と言うらしい)の「批判」行為を毎日見てると、「驕り」とか「高慢」「自惚れ」みたいなものを感じて、とっても、情けなく思うのですが、
そうしたことが毎日行われていると、相手の弱点を批判することに抵抗感がなくなるのよね、イジメのお手本みたいな・・・
過ちの批判でなく、過ちの改善努力の崇高さを見せた方が社会人らしいと・・・
と、まぁ、これも批判か・・・









教育再生会議????

2006-11-29 16:28:56 | 時事報道放談
「いじめ問題への緊急提言」というものを読みました。
緊急避難的で、対症療法的で、近視眼的と言ってはなりませぬ。
せーいっぱい・・・の内容。

いろいろな解釈の余地がありそうです・・・が、
してはならない・・・から、したら処罰します・・に何ミリか前進したような。

処罰するとなれば、明確なイジメの定義が必要かも(既存のものでなく)
暴行傷害なのか、名誉毀損、侮辱なのか、器物破損、窃盗、脅迫、セクハラなのか・・・たくさんあって、それぞれに定義があるはず。(そういう犯罪の定義は以前からあるので、それを放置していたことの反省でしょうか。)
新たに、からかい、無視、いやがらせ・・・学校から「ばか」や「アホ」みたいな日本語がなくなるのか・・・神経質すぎる?

お互いに許容される「からかい」であっても、行為として同じでも、受け取る相手によっては不愉快、屈辱、苦痛にもなりかねない。(セクハラのように)
相手を嫌っている人は、故意にイジメと主張してしまいますわね。それは違うところに問題があるのに。
・・・そういうのは・・・現場の悩みになるわね。

コミュニケーションの体験の積み重ねが、当然に途上である年齢の成長に、その制約がどのように影響を与えるのか。緊急避難的には何かの方策が必要ですが。

イジメの当事者・加害者を指導するには、相当なルールが必要であることは言うまでもない。想像ですが、加害者の家庭環境に問題があって、根源は保護者の教育であろう場合に、どうやって問題解決するのか。学校はいかに指導するのか。いや、学校も教育委員会も、市町村も、文科省も、親の育児教育に関して何かを強制できるルールにはなっていないはずです。

教育費未納程度の事犯にも、即応できない社会制度ですから・・・学校と家庭の関係にメスが入るのでしょうねぇ・・・
イジメの加害者児童生徒の処罰(叱る)こともさることながら、バカな親を叱る制度でもないとね・・・と、思うようになってくるでしょうねぇ・・・

8か条の提言の7条に家庭教育に触れていますが、協力するチームに保護者を参加させることは当然でしょうが、加害者の保護者は、家庭教育の改善を監視される事にも発展する。そうでもしないと解決しないだろうから。
加害者の生徒と親でなくとも、大なり小なり子育てには問題や悩みがあり、何をどうしてよいのかという方法が分からない。

イジメ事犯→処罰
この中間にある、改善指導に至るまでの、事犯を認める認めないで一苦労あるでしょうし、人間関係におけるコミュニケーションの体験に発展途上である加害者生徒の処罰だけで決着するわけもなく、保護者の管理責任といわれても、管理(指導)方法をそもそも知らない(個人差がある)保護者に、ただ注意するだけで前進は見込めない・・と、思う。経過監視もやむなしの場合も出てきそうですかね。
・・・学校は、家庭に対して強制力が欲しいでしょうねぇ・・・そうすると新たな権利義務に関する新たな仕事が・・・そんな時間ないよね。

嘆かわしい、ナサケない事件が多くなってくると、放置するわけにいかない・・・
という共同社会の自浄作用を今私たちは見ているわけです・・が・浄化されるかどうかは知らないけれど・・・
・・・まだまだこうした教育問題の議論は変化しますね。



税制等の改正で使われる「金持ち優遇」

2006-11-23 16:21:10 | 時事報道放談
所得税や相続・贈与税などの税率の変更のときや、所得控除などの特例等の変更、廃止などのとき、今回は政府税制調査会の答申で、証券税制の株式等の譲渡益と配当等の特例の廃止について・・・

「金持ち優遇」の制度だから・・・
などと報道する、毎度おなじみの体制批判のためのフレーズ・・・

金持ち批判・・・?
金持ちは悪いこと?
金持ちは何故金持ちなのか?
強い人を批判する体質?
内容に関係なく体制批判が目的?

株式投資は、私たちに様々なものを与えてくれる。
資本主義社会に生まれたことでのシステムの恩恵と思えます。

多くの人は、望む職業に就くことができるとは限りません。
でも、株主として、望む会社の事業に参加することができます。

株式投資を通じて、企業経営や会計に興味を深め、
経済全体の動きに注目し、海外の政治経済動向に興味を持ち・・

そういう人が多くなるはずです。
投機目的の人ばかりではない。
10人の投資家がいれば、何人かは・・少なくとも2・3人は視野が広くなり、
人生の価値観すらも変える人が出てくるでしょう。
100人の投資家になれば・・・20・30人以上・・千人の投資家・・・

それが、国家や市民社会、家庭という共同体は、個人が自由に選択できるように
その好ましい制度を調整しなければならない。

税率10%は金持ち優遇なので、20%にすれば金持ちの持分が公的部門に吸収され
社会に再配分される。

配当金は法人税を納めた後の利益で株主に配分するものであるから、そもそも配当税は二重課税・・・なので、配当金の税率は高すぎる・・・という議論も下げる前にはあったはず。
証券税制を金融商品税制として、預貯金も全部ひっくるめて20%にしたい気持ちは分かるが・・・全部ひっくるめて10%に下げた方が、個人消費への乗数効果はあるように思える。

税金で取るか、税の優遇で消費増による企業業績向上による法人税と所得税の増加で取るかの違いだけなんだけど、税金で取らないと、予算が立たないという役人思考が、経済のダイナミックな循環を鈍らせるのね・・・

何でもかんでも「金持ち優遇」って言葉を使うと、悪いことしてるように思えて、
隠しちゃう習性を作ります。
努力して苦労して築き上げたものであるならば、褒め称えるべきなのにね。

まぁ、もっとも・・・こんな事例も散見しますが・・・
5%以上株主は10%の優遇税制が受けられないということで、一族に名義を当初から分散し、各人の保有比率を4.9%としている上場企業オーナー一族のお金の使い方に興味がないではないけど。税金で循環させるよりもっと効率的な使い方で社会貢献しているに違いないから・・・。


独立して生活する息子に、就職した会社の株式を少し買ってあげました。
時々帰ってきたときに、その会社の新聞記事が、家族で話題になります。

上場企業ではない会社や団体、公務員になった娘に、なじみのある会社の株式をほんの少し買ってあげました。
配当金が嬉しいと、自分でも少し買い足したと言います。だって安くなっていたからって・・

5年後に、この子らの株式は、どうなっているだろう。
10年後・・・20年、30年・・・

たぶん・・・そういう考え(証券税制の優遇には他にも多くの大義はある)で株式投資と証券税制を「共同体」が議論すれば、優遇の特例措置を廃止するなんて結論にはならないかも・・・
共同体としての国家の「明確な意思」を示せる格好のお題なのにね・・・



社会適合2

2006-11-22 17:35:31 | 自立の定義
国家や市民社会、家庭という共同体は、あるべき社会の姿を希求しつつ、その全体社会に適合できる人材を育成する。
学ぶ人は、「社会適合」を目標にし、教える側は「社会適合」の方法論を考える存在ということになりましょうか。

・・・と前回書きましたが、個人は社会適合を目標に生きると表現するのは厭な感じがします。

国家や市民社会、家庭が共同体として社会適合を好ましいものとするのは、市民社会が個人の自由な欲求を追及する場であるから、共同体はその自由を調整する制度をつくる役割をするからでもある。
だから、個人は自由に欲求を追及することの先にあることが目標であろう。
ただし、その自由は、ヘーゲルが言うように、「他人と豊かに交流」を持つこと、すなわち、他人の権利を侵害しない、他人の自由を犠牲にした関係ではない。

自由・・・自由は精神のあり方の核心をいう言葉で、
個人の精神においては、
個人が自立して自由に振舞いつつ、他人と豊に交流を持つこと
集団の精神においては、
集団が個人の自由を保障しつつ、集団としての活力と統一性を保持すること
(ヘーゲル:精神の自由)

こうした議論が何に役立つのか・・・たとえば・・・国家と教育制度の問題

今日の国会で、教育基本法の改正質疑をしておりましたが、
大臣は教育の中身の話、質問者は国の役割と地方自治体の首長の権限の議論で、「地方分権」などというステージの異なる論題で、国家の干渉という体制批判的な主観が見える内容、質問の仕方も要領得ないし・・・だらだらと平行線の会話していました。
多分、大臣や与党の人たちと、テレビ中継を見ていた多くの国民は、
アッタマ悪う~って、思ったに違いない。

でも、そういうことを一切思わないで、相手の意見を尊重して聞くという態度が
教育者なんだよね。
少なくとも、相手の理解の程度を知ることになるので、それならば相手に理解していただくための説明が不足していることを反省できます。

学校以外の場では・・・なかなか・・これができる人は多くないと思うけど。
できたら・・・素敵ですね。
意見の相違がある場合など、相手をバカと思わずに話せますか・・・

そう・・書きながら・・・「私もそうかもしれない」「よくあるわ」と・・・

教育と社会適合

2006-11-17 14:21:54 | 自立の定義
親と子、夫婦、生徒と教師という関係区分でなく、
共同体・・・家族、市民社会、国家、という区分において
教育を考えなければならないものが教育基本法・・・

報道は、またしても選挙対策や一党採決・審議拒否などの言葉で
政党間の対立をゲームのように表現しておりますが・・・
教育基本法の一条ごとの文言を国民的議論にしてはいかがかと思います。
多くの法律もそうですが、立派な内容の法律があっても、現実にはそれが守られていないことを発見することがあります。
おそらく、この法律も10人が見れば半分以上の人が、改正(修正や追加)の必要があると・・・普通に思うであろうと想像します。

さて、このブログでは、種々の問題解決のための一貫したテーマを「自立」としています。
しかし、今日からこの「自立」という言葉を変更します。
いろいろな分野でいろいろな使われ方をしているということもありますが、もっと、何か・・心に残る言葉がないものかと考えて・・・

思いついたのが、「適合」「適応」「順応」・・・目的語をくっつけて、
「社会適合」「社会適応」と「社会順応」

悪しき習慣にも慣れるような意味もありそうな順応よりも、「適合」かな・・

国家や市民社会、家庭という共同体は、あるべき社会の姿を希求しつつ、その全体社会に適合できる人材を育成する。

学ぶ人は、「社会適合」を目標にし、教える側は「社会適合」の方法論を考える存在ということになりましょうか。

社会で起きる様々な事件・事故に対してどのように対処すべきか、
社会で必要な、人間関係や生活・経済的問題の解決方法
そうした全ての事は、「社会適合」をテーマにしていると言えるかもしれない。
適合という言葉は、対処、対応、問題解決などの言葉を随伴すると考えられるので、人と人生を論じるには自立よりいいかもしれません。

「社会適合」・・・ん~・・・しばらく使ってみましょう。

欲求のシステム

2006-11-12 16:47:01 | 私見アウフヘーベン
「核の議論の議論」で、私見として「自由」のイメージ定義をしました。

自由・・・自由は精神のあり方の核心をいう言葉で、
個人の精神においては、
個人が自立して自由に振舞いつつ、他人と豊に交流を持つこと
集団の精神においては、
集団が個人の自由を保障しつつ、集団としての活力と統一性を保持すること
(ヘーゲル:精神の自由)

さて、社会をヘーゲルは次のように分類して考えているようです。
個人/市民社会/国家
共同体としては
家族/市民社会/国家
市民社会の定義は、欲求の体系(システム)となります。
人々が欲求の充足を求めてモノを生産、消費する場

そこで人々の自由な活動が保障されるには、秩序が維持される必要があります。
欲求調整機能として、司法制度や社会政策などがあるという理解です。

個人が自由に振舞うことができるには、「自立する」こと、「他人と豊かに交流を持つ」こと・・・と「自由」の定義で述べていると理解できます。

自由もよくいう人権も、他人の権利を侵害しない上での自由と権利です。
しかし、今日の社会では、家族間にしろ学校・職場・地域社会にしても、大なり小なり、個人の完全な自由を実現するには何かしらの他人の制約や迷惑、権利の侵害があることも予想できます。

個人がその欲求を充足させようとする・・・行為だけでは、摩擦が起きる。
司法制度や、社会制度はそのためにあることは明らかですが、司法制度に頼りすぎると、違法かどうかの議論が延々と続く、社会制度を追及すると責任逃ればかりする・・・結果、その司法制度や社会制度に対する信頼が薄くなり、自己中心的行為や極端な個人主義的行動が社会を混乱させます。
・・・で、
共同生活が営まれる家庭や学校や職場などで、混乱が起きます。
盗み、詐欺、性犯罪などの犯罪、イジメ、暴力など・・・

原点に立ち返り・・・共同体(家族・市民社会・国家)の正義とは何か、という議論からやり直すことが、問題解決が早い・・・同時治療かもしれません。

鎮痛剤ばかりを何種類処方しても、虫歯は治らない・・・

教員の数を増やす、
教育委員会や学校と家庭の役割と責任を見直す
厚生労働省が全体の機能を見直す
・・・などは鎮痛剤なのかもしれない・・・

「何を」どう教えるのか・・・の「何」
あっ!もちろん、子供だけでなく、共同体全部に。





着地が見えないいじめ事件報道

2006-11-11 11:15:52 | 時事報道放談
加害者と被害者

何が加害で、何が被害なのか

加害者の心理は何か、少年であれば、法定代理人たる親の教育はいかなるもので、どこに問題があるのか。
加害者側と被害者側の家庭教育はどこに問題があるのか、
解決する教育法があるのか。

報道は、被害者側(いじめ自殺した子の親)は、被害者意識で説明するが、親として、何かが欠けていた部分はなかったか。
加害者側の親の意見は、一切出てこないことに何かの作為があるのか。
問題解決は、当事者双方の客観事実を解明しなければならないはず。

加害者側の親は何故抑止できなかったのか、抑止する方法がわからなく、途方にくれる親はいるはずなのに。この人達も問題解決方法を求めているかも。

根底の議論は、人間誰にもある、「高慢と偏見」

通常、優越感と劣等感はTPOで誰もがコントロールしているものです。無意識にも。
自由や人権は、他者の権利を侵害しない上においての自由、人権であることの理解であることと同じく・・・。
ただその行動・実践が深いところで議論されていないので、理解されていないと見えるだけ・・・のように思える。

「してはならない」「すべき」のルールだけでは、問題解決が逆に遅くなる可能性もある。そのルールに本当に違反したかどうかという議論が延々となされる結果が待っている。

結局、自立の論議になるのだけれども・・・

核の議論?の議論?

2006-11-08 10:43:16 | 時事報道放談
核の議論・・・・とは?

1)周辺国の状況変化を考慮し核を将来保有することがあるのかないのか・・・ということかな

2)周辺国の状況変化があっても、非核3原則を守るにはいかなる政策のストラテジーが想定できるのか・・・ということかな

3)いかなることがあっても、日本国民は核という言葉を用いた議論をしてはならない・・・ということかな

4)被爆国・非戦・平和国家などということから、外交交渉によってのみ問題解決があるので、核保有は議論してはならない・・・ということかな

5)核攻撃を受ければ、米国は相手国を滅ぼしてくれる、と日米安保を解釈している・・・ということかな

6)ウランがだめなの、他の大量破壊兵器の議論はいいのか・・・ということかな

7)日本がその議論をすると、結局、米軍への負担金が増えるだけだから、安易に口にするな・・・ということかな

8)基本的に国防機密なので、高度な外交戦略、情報戦略等がないままに、公開で議論することが平和ボケすぎる・・・ということかな

答えはどれでしょう・・・ではなくて、何か・・まだまだ続きそう・・・

政治家の発言も、報道機関の批判も・・・あげくは選挙に有利とか不利とか・・・
故意によくわからないように言っているとしか思えない・・・何か変?

誰が何を言おうが自由でしょうが・・・
どこでも使えそうな「自由」の定義みたいなものを、ちょっとだけ

自由・・・自由は精神のあり方の核心をいう言葉で、
個人の精神においては、
個人が自立して自由に振舞いつつ、他人と豊に交流を持つこと
集団の精神においては、
集団が個人の自由を保障しつつ、集団としての活力と統一性を保持すること
(ヘーゲル:精神の自由)

表現はいろいろあるでしょうが、200年以上前の人だという時代背景で・・・

いつまで・・・まだ続いてるイジメ自殺

2006-11-05 10:22:04 | 時事報道放談
夜回り先生の水谷先生や、よのなか教室の藤原校長先生の番組で皆が感じるであろうこと、批判報道だけでなく現場での自浄作用の試みというより懸命努力に応援したくなる。
捨てたモンじゃないね・・・って。

学校ではなく、職場においてのイジメは、経済的な問題も絡んでの主従関係、弱肉強食の人間関係のようなものがあるわけですが・・・

夫婦・家族・親戚・近隣・学校・職場・・・結局全部だわね。

善と悪の定義・・国家と市民社会のあり方・・言葉や行動での表現、コミュニケーションの方法・・事前事後の対応や弱者救済
こんな順序・・かな

変化とか進化、アウフヘーベンしはじめたのかな


履修不足問題と教育の精神

2006-11-03 16:42:41 | 時事報道放談
履修不足の問題で、いろいろなものが見えてきましたね。

中学校のゆとり教育や、週休二日制で授業時間の絶対数が不足していたこと。
そもそも大学入試科目が一律でないので、志望先の選択で受験勉強に不要な科目があることが問題であるとする意見に代表される、教育の目的が大学合格のみに置かれていること。
文部科学省は、ルールを作って時代の変化に対応した変更を行っていなかったこと
文部科学省は、ルールを作っただけで、その検証を行っていないこと
教育委員会は、その役割があまりにも役所的なメッセンジャーであったこと
教育委員会は、現場に適合するルールの改善に鈍感であったこと
学校は、国の重要政策規則を、嘘をついて変更したこと(できたことに驚き!)
学校は、変更が必要となっている規則を放置していたこと
規則の変更に適応力がない全体組織であったこと
ついでに
PTAの役割が見えないこと
・・・など

歴史や倫理などに限らず、法律や健康、福祉、海外事情など追加すべき今日的教科があるだろうにと思いつつ、そもそもは、教育の精神を練り直す必要も。

何のために学校行くの?・・・ということが問いかけられる前に、
何のために学校教育やってるの?

などということに思いをはせる昨今の報道でした。