死ぬ自由・・・ねぇ?

2006-10-31 17:41:01 | 時事報道放談
前回から随分と間が空きましたが、それでもまだこのブログを見る人が何人かおられるようです。感謝します。

前回「また、イジメで自殺」の次のタイトルが「またまた・・・」では、厭な感じだから、ちょっとひねったタイトルにしました。

報道を見ていると、自殺させた原因追求だけの角度から、イジメはあるものと認識すること、なくすための方策らしきことや、「遺書書いて自殺」報道が同様事件を誘発する危険性にも気がついたような番組も見られるようになりました。

人は自由に生きたいと思うもの、自由に生きるべきもの、という認識から・・・大きなテーマとしては北朝鮮の人々に思いをはせるはずです。

親子関係や夫婦関係においても「自由に生きる」は論点のはずです。

一連の報道にある、学校でのイジメを苦にした自殺も、「自由に生きたい」が阻害された結果と言えるかも知れません。

さて、自由に生きるとは好き勝手に生きるとは違い「お互いに」自由であることが好ましい論理であるはずで、相手の人権を侵害しない範囲においてその自由はあること。

では、「自由に死ぬ」ということについてはどうでしょう。
この言葉は、フロイトがナチから逃れて「自由に死ぬために英国に来た」・・
恐ろしいほど時代背景を感じる言葉・・・

いや、そういうことでなく・・・

自由に死ぬことに何かの制約があるはずです。
自殺を戒めるのは古典的に宗教的なロジックしかないのかな。
切羽詰った人に、何のために生きているのかを説いても・・・

遺書に書いて、イジメる人に仕返しするしか方法がないとあきらめる心理・・
その年齢の女の子に傾向ある、悲劇のヒロイン症候群(自作語)心理・・
イジメになるのではないだろうかと神経質な言動が増えることによる、その社会の何かが変化・・・意思決定、決断力など・・・
物事は、全てその時点での〇Xを判定しがちですが、何年後かに結果が出るものや後で効果が見えるものをその時点で判定するは難しいもの。

いろいろな角度の議論というか予測みたいなものが・・・あるといいね。

最大のストレッサーは、「人」
勝負事は勝つことを目指しますが、正義感のあまり立ち向かうことだけで敵は倒せない・・・引いたり、休んだり、退避したりすることも重要な戦略・・・

生物は環境適応できなければ死んでしまう。
人だけが自らの意思でその環境を適合しやすいように変化させることができる。
・・・ことを信じましょう・・・。

また・・・イジメで自殺事件

2006-10-16 17:13:34 | 時事報道放談
前回、イジメで自殺事件にコメントしましたが、
ひょっとすると、一連の報道が次々と同様な事件を誘発するかもしれない・・・

マスコミがするいじめの原因追及のようなこと(真実の追究ではなく、のようなこと)は、学校や教師に矛先(間違いなく矛である自覚がないことが危険なんだけど)を向けます。

逆に、学校や教師が報道機関に反論すると、反省するどころか報道批判までする学校・・・などと、さらに矛を突き刺します。
結果・・・矛を向けられている側は、反論の気力を放棄します。
そういう姿勢を真実の追及とは言わないのです。

さて、イジメられて、辛かったろうね、苦しかったろうね・・・教師までがイジメに加担していて、何気ないジョークのつもりで始まるカラカイの言葉も、子供であってもプライド・尊厳・高慢・・が心にありますから、好きで信頼する人から言われても気にならないことも、嫌いな人には厳しく反応します。普通の対人関係。

そもそも・・・問題の一番初めにあることは、「イジメはよくないこと」
なのかな?
ひょっとしなくても、「自殺はよくないこと」もあるはず。

遺族や故人の心情を慮るあまり、
自殺した原因を、「させた人」・・の視点で見て報道する。
「した人」の視点で見ると、自殺する人の人格やそれを作る環境、みたいな議論はやりにくい。

こういうケースで体制批判だけをすると・・・
イジメられたから遺書を書いて自殺、いじめた奴に仕返ししたくなる・・・と思う人をつくる可能性はないでもないのよね。

集団の社会生活では、当たり前に想定できるイジメ・・・防ぐ方法論は、責任放棄が目的のやっちゃいけないという規則だけでなく、それが起きた時の対抗する方法の議論や企画が必要ね。

イジメがあっても直接、戦うことができない人・・・のほうが多いと思います。
人にも言えないで、一人悩むのよね。
学校という社会だけでなく、家庭でも会社でもある・・・一生涯・・・あるのよね。

だから・・・きりがない・・・概念としても予防する規則は難しい・・・
極論で、悪意に対抗して、正義感でその人を攻撃することが、その人にとってはイジメになる、・・・場合も考えられる。そんなことになれば、本末転倒。

マスコミに毎日追いかけられて、または追いかけられることを懸念して、自殺する人・・・いない、とも、いなかったともいえないと思う。
正義感で攻撃してるんだけど、その人には矛で突かれること。

口達者でリーダー的存在の人は、いろいろなことに裁定的なことをするものです。正義感から、悪者扱いして攻撃もするものです。弱いものを助けると称して、弱いものイジメになってしまうこともあるかもしれません。感謝する人と憎む人を同時に作ってしまうことも・・・。

それが〇とかXであるとかの方向に議論を向けてはいけません。
規則にはそういう一面もあること。あるがままに認識することです。
だから、規則は難しい。

イジメられて、あてつけ自殺、のようなことは、逃げること、弱いこと、卑怯なこと、恥ずべきこと、身勝手で最低の行為、順番で言うと相当順位が高い卑劣な行為・・・・という認識を広める方が、実利的には事件の防止になる可能性も。

でも・・・私が親だったら・・・・

自殺する前に、何故相談してくれなかったのか、そんな親子関係だったのかと、
何故、そういう場合の対処方法を教えなかったのかと・・・
親としての自分自身を一番の順序で責める・・・かな?
・・・・そうなんだけど、損害賠償の問題もあるから、周囲から同情され慰められながら・・・鬼のような顔して犯人探しと体制批判し続けるかも・・・

自分は・・・どっち・・かな?

そんな風に考えるのは・・・・いやな世の中だねぇ・・・

自立させることが親の責任。自立することが子の義務・・・自立が親子の目的。
結論は、ここなんですが・・・







いじめで自殺事件

2006-10-08 15:34:37 | 時事報道放談
先週の報道で、自殺した小学生の女の子・・・
遺書の公開で、無視されていたこと、疎外感からの自殺・・・
教育委員会や学校側の対応をめぐっての報道・・・

多分探せば、誰かがブログなんかで書いているんでしょうが・・・そういうものを一切見ないで書いてみます。

「いじめがあったことを認める」かどうかに焦点を当ててどうなるのでしょうか?
誰かの損害賠償・・・ですか?
教育委員会の人や校長先生の会見のお話を聞く限りでは、ことの全体は見えません。マスコミの人は「体制批判」「権力への対抗意識」みたいな質問ばかりなので、客観事実が見えにくくなります。

印象的だったのは、校長先生の会見で、「イジメが全ての要因ではない・・・」発言に記者のツッコミがあり、その後、言いよどんでしまった校長先生の表情。
ひょっとして、真実の把握に努める姿勢があるのは彼かもしれない。

全ての要因が「無視されたこと」や「言葉での暴力」からの疎外感であるならば、
そうされた経験がある多くの人(間違いなくほとんどの人)は、自殺しているのかもしれません。・・・・間違いなく、そうではないはずです。

学校、いや共同生活を営むことになる全ての社会では、多くの人と関わります。そこでは心の交流があります。気が合う人とそうでない人に出会うものです。
気が合わない人は、様々な理由があって・・・距離をおきます。時には相手に冷たく接することもあります。あるがままの認識ということでは、それが集団の中における人間関係と思います。

ほとんどの人は、そういうことに、そういう場面に出くわします。それが人間関係におけるストレス。
焦点すべきは、そういう場面で、多くの人はその問題をどういう風に解決しているのか、ということなのでしょう。
間違っても、イジメの存在を認めた以上、犯人を特定して、それを矯正し、損害賠償の対象としなければならない・・・という懸念を皆が持つような集団社会であることも異常。
嫌な奴はイヤ!いつでもどこでもいるじゃないですか。そのイヤな奴は、どうやって、いやがられないように努力するのでしょうか。これは全ての人です。
全ての人は〇X△があるといいましたように、人に嫌がられる部分を持っているのです。直す努力と、理不尽なイジメに敢然と対抗する自我の確立が、イジメることの罪悪視より効果的と考えます。

それを学校教育で、示してほしい。
全ての人はイジメたり、イジメられたりします。全ての人は高慢を心に持つからです。問題は、それに如何に対処すべきなのかということです。

今回(毎回かな)、マスコミは教育委員会の人たちを言葉でイジメました(笑)。
教育委員会や学校は、「イジメをなくすためには、生命の尊厳や人権教育の徹底」という答えを出すでしょうが、100回言っても、書いて配布しても、何をどうすれば良いのか意味不明です。

人に好かれる、信頼される、尊敬される・・・(=相手を知るということ)
それは、相手の話を良く聞いてあげることから始まるように思います。いや、話しかけなければ始まりませんね。
話しかけることに大変な勇気が必要な人もいます。口下手の人もいます。その人には、こちらから話を聞きだすように語りかけることも必要です。

話しかけてください。
イヤだと思っていた人の、意外性を見つけたときの感動は誰にもあるのです。
誰もが〇X△をもつ存在だと謙虚に考えて、自分の嫌がられている部分をさらして話題にしてみてください。

あんなにしっかりした文章で自己主張できる人が、自殺のほかに解決策があったかも。何故親や兄弟に相談して解決できていないのだろうか?先生や友人(一人もいない?)に相談して解決できていないのだろうか?
直接的に日常的に接する人しか救えない問題ですよね。(個別に接することがない市長や教育長に何の関係が・・)

直接接する:会話:コミュニケーション:そのために、どういう企画教育やカリキュラムがあるのでしょうか、ということを考えた方が、人に優しい・・・

誰かの責任にするための批判や、思考、姿勢を、当たり前のように新聞・テレビで見せていることの弊害は、報道の利益より・・・かなり・・大きい・・かも・・

しばらくブログ休憩

2006-10-02 12:12:36 | お知らせ
先日パピヨンの子たちは、里親がそれぞれ見つかったようで、ほっとしています。

うちのビションとも仲良く遊んで、微笑ましく見ていましたが、一軒家からマンションに引っ越すと、いろいろあるみたいね。何はともあれ、幸せにね!

さて、このブログは、日々思いついたことを書くメモ用紙のように使用していましたが、書く事のトレーニングには・・いいこともあることが発見できたので、今後も続けますが、書いているうちに、弁証法や現象学などの哲学用語を使用していることに、ちょっと責任みたいなものを感じて・・・・

若き頃に戻って、もう一度ヘーゲルから読み直してみようと思っていたところ、先日日経夕刊に長谷川宏さんとヘーゲルが紹介されていましたので、現代社会での必要性を感じる向きもあるのだろうと、しばらく、現代の社会学と精神現象学などの理解のためにインプットの時間を作ることにしました。

なので・・・・当分の間は休み。
時々のぞいていただいている方もおられるようですから、一応お断りを入れてのお休み。

休み中も、過去の文章について、あらん限りのご批判をお待ちしております。
では、では。