前回から随分と間が空きましたが、それでもまだこのブログを見る人が何人かおられるようです。感謝します。
前回「また、イジメで自殺」の次のタイトルが「またまた・・・」では、厭な感じだから、ちょっとひねったタイトルにしました。
報道を見ていると、自殺させた原因追求だけの角度から、イジメはあるものと認識すること、なくすための方策らしきことや、「遺書書いて自殺」報道が同様事件を誘発する危険性にも気がついたような番組も見られるようになりました。
人は自由に生きたいと思うもの、自由に生きるべきもの、という認識から・・・大きなテーマとしては北朝鮮の人々に思いをはせるはずです。
親子関係や夫婦関係においても「自由に生きる」は論点のはずです。
一連の報道にある、学校でのイジメを苦にした自殺も、「自由に生きたい」が阻害された結果と言えるかも知れません。
さて、自由に生きるとは好き勝手に生きるとは違い「お互いに」自由であることが好ましい論理であるはずで、相手の人権を侵害しない範囲においてその自由はあること。
では、「自由に死ぬ」ということについてはどうでしょう。
この言葉は、フロイトがナチから逃れて「自由に死ぬために英国に来た」・・
恐ろしいほど時代背景を感じる言葉・・・
いや、そういうことでなく・・・
自由に死ぬことに何かの制約があるはずです。
自殺を戒めるのは古典的に宗教的なロジックしかないのかな。
切羽詰った人に、何のために生きているのかを説いても・・・
遺書に書いて、イジメる人に仕返しするしか方法がないとあきらめる心理・・
その年齢の女の子に傾向ある、悲劇のヒロイン症候群(自作語)心理・・
イジメになるのではないだろうかと神経質な言動が増えることによる、その社会の何かが変化・・・意思決定、決断力など・・・
物事は、全てその時点での〇Xを判定しがちですが、何年後かに結果が出るものや後で効果が見えるものをその時点で判定するは難しいもの。
いろいろな角度の議論というか予測みたいなものが・・・あるといいね。
最大のストレッサーは、「人」
勝負事は勝つことを目指しますが、正義感のあまり立ち向かうことだけで敵は倒せない・・・引いたり、休んだり、退避したりすることも重要な戦略・・・
生物は環境適応できなければ死んでしまう。
人だけが自らの意思でその環境を適合しやすいように変化させることができる。
・・・ことを信じましょう・・・。
前回「また、イジメで自殺」の次のタイトルが「またまた・・・」では、厭な感じだから、ちょっとひねったタイトルにしました。
報道を見ていると、自殺させた原因追求だけの角度から、イジメはあるものと認識すること、なくすための方策らしきことや、「遺書書いて自殺」報道が同様事件を誘発する危険性にも気がついたような番組も見られるようになりました。
人は自由に生きたいと思うもの、自由に生きるべきもの、という認識から・・・大きなテーマとしては北朝鮮の人々に思いをはせるはずです。
親子関係や夫婦関係においても「自由に生きる」は論点のはずです。
一連の報道にある、学校でのイジメを苦にした自殺も、「自由に生きたい」が阻害された結果と言えるかも知れません。
さて、自由に生きるとは好き勝手に生きるとは違い「お互いに」自由であることが好ましい論理であるはずで、相手の人権を侵害しない範囲においてその自由はあること。
では、「自由に死ぬ」ということについてはどうでしょう。
この言葉は、フロイトがナチから逃れて「自由に死ぬために英国に来た」・・
恐ろしいほど時代背景を感じる言葉・・・
いや、そういうことでなく・・・
自由に死ぬことに何かの制約があるはずです。
自殺を戒めるのは古典的に宗教的なロジックしかないのかな。
切羽詰った人に、何のために生きているのかを説いても・・・
遺書に書いて、イジメる人に仕返しするしか方法がないとあきらめる心理・・
その年齢の女の子に傾向ある、悲劇のヒロイン症候群(自作語)心理・・
イジメになるのではないだろうかと神経質な言動が増えることによる、その社会の何かが変化・・・意思決定、決断力など・・・
物事は、全てその時点での〇Xを判定しがちですが、何年後かに結果が出るものや後で効果が見えるものをその時点で判定するは難しいもの。
いろいろな角度の議論というか予測みたいなものが・・・あるといいね。
最大のストレッサーは、「人」
勝負事は勝つことを目指しますが、正義感のあまり立ち向かうことだけで敵は倒せない・・・引いたり、休んだり、退避したりすることも重要な戦略・・・
生物は環境適応できなければ死んでしまう。
人だけが自らの意思でその環境を適合しやすいように変化させることができる。
・・・ことを信じましょう・・・。