大学進学考2

2007-02-03 12:03:46 | 私見アウフヘーベン
昨日の「大学進学考」に追加です。

希望する者のほとんどが進学できる4年制大学・・・という状況
結果として、さらに上の大学院卒の肩書きがライトアップされる・・・短絡的だけど、人のプライドや虚栄心は、そのように作用しそうです。

ですが、国全体という鳥瞰的な観点では、技能、資格を取得する目的のみの専門学校を中学卒業生にもあってしかりで、それを社会が受け入れることが必要です。

例えば、福祉介護の現場において、種々の資格保持者と、大学卒だけの経歴の二者で、長所短所の比較をすれば・・・・という議論です。

調理師、栄養士もそうです。
理・美容師も、貿易実務も通関士も・・・もっとあるでしょう。

逆に、教師や医師、弁護士などは大学卒が必須でしょうが、試験勉強ばかりで世間知らずの人ばかりになりそう・・・という問題も出てくるかもしれません。

例えば、人の生活、経済活動などに無知識で歴史や国語を教えていても、確かに試験合格のテクニック教育になるのも自然です。
生活するための知恵や知識・情報を知らないで英語や数学を教えても、目的が分かりません。

教員資格を得た人に、他の資格を推奨する制度もあっていいかもしれません。
「宅建」はこの社会で生活するための契約、騙されないための知恵に関する様々なことを学べます。
「FP技能士」は、生活そのものの知恵をくれます。
社会生活と教師という専門資格が連携しなくて、その教科の知識の使い方が分かろうはずがありません。

話を元に戻しますが、
「あの専門学校での資格者ならば即戦力だ」というような受入れ社会ですね
「大卒新入社員に資格を取らせるには時間と費用がかかるので、学歴不問で資格を取得していることを条件に採用した方がよい」という採用が当たり前という社会ですね。


高校の延長のような一般教養科目と深くない専門課程をマニュアル答案で単位取得して、残りの2年は就活に費やされる実態の大学・・・の反省もしなければならないはずで、
本当に深い専門知識技能の取得には、相当な難易度のハードルであるべきで、入学の門戸は運営上の問題からも広くてもいいでしょうが、卒業の門は狭くなるはず。

その他、観点の異なる問題が山のようにありそうですが、
書ききれないのでここまで・・・


大学進学考

2007-02-02 12:23:05 | 私見アウフヘーベン
高校卒業のときに将来何になりたいのか考えていましたか

表面的にはありましたが、実際は何も考えていませんでした
その大学に行く目的が明確でなく大学受験しました
考えてみると親に相談したり誰かにアドバイスされることもなく大学を選び
合格したところに行っただけ。
家族、親戚、友人やご近所などへの対面が保てたみたいな気持ちがあったように
思います。

就職に必要な学歴であったことは事実ですが、4年間で身に付けたことの何か役に立ったという感触はありませんでした。
10年以上経ったころに、初めて大学で学んだことが活きているかもしれないと思うようになりましたが、多くは実社会での体験が学問でした。

実社会が学問であると感じることができたことが、大学での体験の何かが作用しています。こんなことなら、もっと早く社会に出た方が学べたかもということも思いましたが、この社会は大卒というバッジが内容関係なく、外部に影響することを知っていましたし、それも事実でした。何よりも自分のプライドに作用していることに気がつきました。そのプライドがより高次元のものを欲求させる原動力になることもありました。

普通の人・・・の中には、こういう思考の経過があるかもしれないと・・・

さて、これからの社会は、このプロセスが普通でありえるだろうか・・・

複雑に発展した社会制度では、誰が何をしてもよい、ということを調整するために、何かが「できる」ためには、「資格制度」が整備され、様々な分野での成功と失敗の体験の積み重ねが、資格の質の向上を生みます。

資格合格して「選ばれた人」になってからの方が、自立は早く、年齢を重ねると選択肢が限定されてくるという意味で、早いということは、人生の選択肢が増えるということにもなる。

昔も今も大学は、社会を広角レンズで眺めさせてくれる役割もありました。
少なくとも今は、大学へ行かなければ知ることが出来ない情報は、比較的には少なくなっているかもしれない、情報化社会は、誰もが自由に情報に触れることが出来る量が増えているからです。

「学びの方法を学ぶ」ということが、全ての事始めであろうと信じるならば、成熟した社会から学ぶ方が早い場合もあるかもしれない。大卒のバッジが必要でない人が多くなってもいいのかも。

中学・高校生活の延長のように、消費生活に浸り、ゲームとテレビで時間を費やす年数を増やすだけのことであるならば・・・

資格をもって仕事した方が、学ぶスピードが上がる・・・

大学にいけないから専門学校行くと思う人・・・かわいそう
自信を持って、プライドを持って、資格専門学校へ行く人・・・人生豊かですよ

干物のチカラ

2007-02-01 12:40:10 | 私見アウフヘーベン
人口問題と食糧問題は長く続く議論なのでしょうが、
中国やインドなどの成長と将来の食糧問題という見方もできます。

食料の増産は、農地の開拓と品種改良などの生産性向上でなされるように想像できますが、それ以上の効果をもたらしているものがあるように思います。

冷蔵庫と冷凍食品、缶詰、パスタ、カップラーメンなど種々の穀物加工食品、さらに広義のドライフーズ・・・野菜などの漬物、魚などの干物・・・
これらは食品の保存期間を延長する役割があります。

保存という行為は、原始の時代から行われていると承知していますが、動物の中にも獲物を土に生めて隠す保存行為が紹介されるのを見たことがあります。

中国の食糧生産は、10年単位で見ると2倍以上になっていますが、今後の増産の可能性は低いと見ます。地球温暖化・環境破壊の深刻さと食糧生産開発は、将来トレードオフの関係が深まるとも予想するからです。一方で、世界では驚くほどの飢餓人口があるのですから、増産活動とともに廃棄食料を減らすための策、保存期間の延長食品の開発が進化すると予想できます。

10年後20年後の世界は、食料と水が不足すると予想する人は少なくないはずです。低所得が高所得になる経済成長が巨大人口国で進んでいることからも。

で・・・日本の干物(ヒモノ)って、世界的にはどうなのかな?
アワビやホタテ、ナマコ・・・中華料理で見るから中国から伝わったことと思いますが、今や魚介類はほとんど全部干物になって売られるように思います。
(野菜も果物もドライフーズで全部ですが)

これって、飢餓に苦しむ国などに調理器具とレシピごと広めたら、いいかな・・なんて思って・・・

そんでもって、日本の炙って食べる魚の干物・・・好きなんだなぁ・・・
欧米諸国で、これがある国・・・というより、できる国は少ないと思うんだな
魚を焼くニオイでご近所うるさいからって・・・できないらしいような話は聞きますから・・・はは・・・パリのアパートからスルメ焼くニオイ・・・確かに・・
(こっちは捨てる魚を減らす効果・・・冷凍の方が長いから効果ない?)

もっと技術的な改良、進化・・していくと・・・思う

教育的インフラのコスト評価2

2007-01-29 12:24:28 | 私見アウフヘーベン
企業財務においては、投資に対する利益を様々な方法で計測しながら経営されます。
しかるに、公共投資における投資収益の計測が、行われている話は聞きません。
利益を追求していないから、あるわけがない・・・
私が知らないだけかもしれない・・・
という懸念を抱きながらもメモしておきます。

資本を投入して収益事業を行う企業活動と、資本を投入して公共サービスを提供する公共投資の違いを修正すれば、投下した資本に対するリターンを計測できる・・・はずである。

ちなみに、企業の場合、「資本コスト」という概念で評価されます。
一般的かどうかという議論以前に、少なくとも上場企業であれば当然と考えています。公共投資であれば、言わずもがな、という意味でも・・・

昨日の記事に書きましたが、例えば教育的公共投資である美術館・博物館・図書館などの公共投資を、企業の財務戦略である資本コストの概念・・・のように測定できないものでしょうか、という思考です。

主に株価の理論値を計測するための理論ではありますが、個別の公共投資における株価に該当するものを何とするのか・・・全国の同種建築物の相対評価です。

市場リスクの位置づけを如何にするのか・・・土地と建物に資産が分離するはずなので、土地の評価に摘要できる。

机上では、様々なアイデアがでてきますが、実際には過去の建築費用や運営費などの記録が、全国統一基準で保存されているかどうかという問題に直面するはずです。・・・・政治の指揮があればできるはず。

要するに、市民社会は自ら作った社会制度に対して、皮肉にもその社会制度の情報公開を求めるものであって、その情報は価値評価の基準があって比較検討できるものでなければ、公開されても意味が薄く、加工分析に時間がかかるだけということになる。

言い換えると、社会資本の投資意思決定に至るプロセスが、全国統一的計算式で数値化できるはず・・・ということです。

企業の投資意思決定には、NPVやIRR、経営管理に用いるEVAなど、多くの経営指標があるのですが、そのさまざまな手法において、資本コストは重要な意味を持っています。

例えば・・・
加重平均資本コスト
=(自己資本÷総資本×自己資本コスト)+(他人資本÷総資本×他人資本)×(1-税率)
=源泉別資本コスト総額÷総資本額×100

純現在価値(NPV)
=フリーキヤッシュフローの現在価値総額
=事業からのキャッシュフロー-投資へのキャッシュフロー
=キャッシュインフロー-キャッシュアウトフロー
=営業利益×(1-税率)+減価償却費-運転資金-設備投資

適当に並べただけですが・・・・理論株価の算出のためのCAPMなんかも、加工応用すれば、公共投資にも使えそうな概念です。それだけでなく・・・

・CAPMの資本コスト
・CAPM以外の資本コスト
・事業別資本コスト
・ピュアプレイアプローチの資本コスト
・重回帰分析アプローチの株主資本コスト

今日は、自分自身のメモなので、計算式や内容は可変的です。
いつか、市民社会の社会資本学のような学問ができれば、数値で合理的に説明できる公共投資ができるかも・・・と思っています。

えっ!お前に出来るかって・・・ん~できるかも、データさえあればね

教育的インフラのコスト評価

2007-01-28 14:04:54 | 私見アウフヘーベン

タイトルは、既成の概念ではありません。

社会資本としての教育施設の経済合理性の計測について考えてみました。

財政破綻の地方自治体が、何故破綻するのかということを分析し、改善対策する思考の試み・・・の一つになるかもしれない。

社会資本(インフラ:infrastructure)の中で、そういう定義があるかどうかは承知しませんが、「教育的インフラ」であるところの施設・建物を考えて見ましょう。

教育的インフラは、地域に必要なものです。(ここでは学校は除きます)

美術館、博物館、図書館等に代表されるものです。

例えば、美術館は、建築費の年償却額と人件費なども含めた年間維持費用と、入館料収入を比べて、採算があるかどうか・・・だけで地方自治体がその建設を決定するわけではない。しかし、イメージとしても、財政問題としても赤字黒字の採算でその価値が議論されます。

・・・赤字・黒字だけで考えていれば、その種の施設はなくなるはずです。

そうすると、違う尺度が必要ですね・・・ということになる・・・

例えば、

人口100万人当りに、10億円の建築費の美術館があったとします。その美術館の維持費は年間2億円、入館料収入が1億円とします。仮に、建物は50年で償却するとすると、年あたり2千万円が費用に加算するものと考えます。

この算数では、年1.2億円の赤字になりますが、評価としては2.2億円を人口100万人で割ると、(220円/一人当たり)となります。入館料収入を差し引けば、、(120円/一人当たり)となります。

この二つの数字を、全都道府県で比較します。個別の施設の魅力度価値は入館料収入を引いた数値との差や率で比較できます。努力目標数値としても使用できるはずです。

考え方でしょうが、こうした教育的インフラは、地域市民に質の高い情報を提供している外見があります。つまり、市民はその情報が掲載された書籍を購入するに等しいと考えるわけです。その地域の住民はその美術に関する書籍を一人当たり220円で、購入していると考えるわけです。入館料は地域外の人も含めてのものですから、その美術館の魅力度バロメーターにもなるので、他府県の魅力度数値の比較から、どのような魅力が必要か、つまり何を作ればよいのかという参考に出来る。一番重要なことは人口一人当たりの教育的インフラのコスト比較から、その地方自治体において設備過剰であるのか必要であるのかという議論のときに、住民の立場(負担コスト)で数値検討できることである。

 

まぁ・・・そういうストーリーを考えてみましたが・・・

現実はもっと詳しい数値や項目の比較や、定量分析手法があるであろうことは承知で、一つの考え方の参考になるかもしれない・・・・・と、ちょっと思ったものですから・・・ちょっと書き留めておきます・・・どなたかの目に、ちょっとでも留まればいいかなとも・・・

 


規律意識とは

2007-01-26 12:09:01 | 私見アウフヘーベン
給食費を払わない
受信料を払わない
・・・

給食費未払いは、泥棒と同じ(無銭飲食・・・だわね)、
家庭教育の放棄という面もあります。
何故そのようなことが起きるのか
親の学歴や職業と勤務態度、その子の気持ちや学校での学習態度などを調査しなければならないように思います。
親の勤務先も関係してきます。泥棒を雇用しているのですから。

学校には、データの蓄積があるはずです。データの蓄積は大変重要です。
親との接触頻度と内容などもあって当然。
こういう事犯は繰り返され、広がるからです。
将来の防止措置がとれないからです。
対症療法的に、第三者に集金させるとか、チケット制にするとか・・・無駄なコストを払う羽目になります。

おそらく、未払い事犯についての統一的な処理方法がないか、あっても、紛争にならないための放置措置なども・・・ある可能性があります。

規範意識の希薄・欠如、及びその放置・傍観、さらにその対処に時間がかかりすぎることも、将来に禍根を残すでしょう。

大数の法則に従えるような数値と考えれば、
重罪に発展する可能性の規律意識欠如は2%以上と考えます。

10万人の給食費未払いは、法定代理人、親権者の数で言えばその倍の数。
2%の者は、この社会で規範意識がない・・・
実感はもっと多いのですが、その親の姿勢を見て育つ子の数、親族の数、友人の数を共犯とすれば。

道を歩いていて、どんな田舎でも、買い物に行けば100人以上の人とすれ違うのでしょうが、その中に、規範意識の欠如したバガボンド(無法者)が2・3人は必ずいる・・・と思いながら生活する。
そんな社会を想像できます。
それを自浄することに、時間と費用をかけなければならない社会ということにも失望を生むことも想像できます。


受信料は、法・制度の不備が指摘されていますので、ちょっと意味が違うかもしれません。
ペイテレビ(選択者だけが料金支払う)という制度が登場してからは、両方の制度が並存していることなり、違和感があります。

見ない自由を認めないような論理矛盾、という言い分を許すからです。

一つの社会資本サービスの提供として住民税にのせるとか、
世帯一律強制加入法を実現すればよいだけ、
世帯主の給与からの源泉徴収制度とすれば、さらに集金コストをなくせます。

ばか親!と批判することは誰でもやるけど、
それを生んだ社会背景と心理の分析をしたうえで、統一的対処方法を示し、実践経過も含めてそれを社会に公表することが・・・・情報化社会である現代の市民教育かもしれない。メディアの興味本位の追求のがれのための、付け焼刃的方策であってはならない。

政治家さんが「教育再生が最重要」言うならば、
市民社会教育が学校教育と同時でなければ、
将来において、
より費用と時間がかかるかもしれない・・・と・・オモーゥよ!

出席停止制度・・・?(100回目の記事)

2007-01-25 14:42:03 | 私見アウフヘーベン
おそらく・・・
こういう制度は、テレビなどで片言のフレーズで報道されるから、中身がよく分からないまま議論されて・・・誤解の賛否が生まれたりして・・・

賛成は、教育現場の実務的対応のために、何かしらの手段が必要ということ
反対は、問題はイジメをする子の矯正教育が主旨なので、その手立てなく排除することの稚拙さを指摘するはずです。

さて、改正教育基本法はどうしたのかな?
こういう事態に対応できるように改正してあるべきだし、そのはずです。

昨年12月18日と20日に書いた「教育基本法と家庭教育」をもう一度見直してみました。

第10条の「家庭教育」
「保護者に対する家庭教育を支援するために必要な施策」(10条2)
第13条には、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」

・・・イジメる生徒の登校停止制度については、この条文が関係しそうです。

登校停止にする前に、その子の矯正教育をどうするか・・・
ということにはたいていの人は気がつくと思いますが、

条文に家庭教育を「新たに加えた」ことを踏まえると・・・

登校停止にしてもいいけど、家庭と連携して、親権者に教育方法などの相談を強制できる、家庭教育に介入して「連携協力」できる組織と制度が必要で、矯正プログラムの経過報告と記録作業も必要。全てそこまでやるということでなく、出来るようにしておくこと。制度の抑止力としてもね。

まさか・・・
「明日から来ちゃダメ」って書いた紙を渡すだけで終わることはないよね
家庭教育の方法を知らない親からは、相談されたときだけ対応するとか・・・

これとは違う話だけど、
給食費未納の児童生徒数が10万人!生徒数の約1%・・・
約6割が「保護者の責任感や規範意識」がない親だそうで

そうは言っても・・・自分が規範意識の模範とは思いませんが・・・

イジメ問題だけでなく、規範意識のない家庭も含めて、
家庭の矯正を考えようよ・・・学校教育の改革は、家庭教育の改革も同時。
そういう家庭って・・・救いを求めてるかも・・・親自身が社会的疎外感を持っていたりすることもありますし・・・
官僚的に、プライバシーとかで「それは難しい」だけで話を終わらせないで・・・思えば変ることもあるよ


え~っと♪
昨年8月6日から始めたこのブログ・・・
この記事をもって、パンパカパーン!100回♪ ふぅ~

自分の中で何かが変ったとか、
よくいうところの「本当の自分探し」みたいな感触も感慨もないまま・・・
ものを書くというのは・・・恥をかくような気持ちもあり・・・
そうは言っても、匿名だからその点は薄まるけど・・・
心の欲求として、間違ってもいいから、言いたいことを言いたい・・・
という欲求を少しは満たしてるかもね

見ていただいている人に・・・100回の感謝ですわ!



成人おめでとう!

2007-01-08 11:55:01 | 私見アウフヘーベン
成人・・・人に成るって・・・考えてみりゃ、失礼な・・・前は何だったんだ

民法上の売買契約などにおける権利義務、刑法上の権利義務、あと・・選挙権
もっと早くてもいいかもしれませんね。
肉体的にも精神的にも、情報化社会は人の成長を促進しているように思います。
(逆に遅らせている部分もあるという考えもあるでしょうが)

親や家が貧しい時代には、家族が共通目的をもって協力したでしょうから、自立が早かったかもしれません。
親が裕福なために、裕福でなくても弱者救済の社会制度が向上し餓死するほどのことがない社会では、働かなくても生きていける、体制受益感の蔓延でモラトリアム、パラサイトの比率が高くなり、自立が遅くなる・・・

なぁんてね・・・

本当はみんな自立したい、自立した姿を親に見せたい気持ちなの・・・
でも、親も自立できていない・・・親も同じ・・・

自立は、様々な意味を含めた社会適合のこと
社会適合と言うと何かの枠にはめ込む感じがしないでもないけど、
成人はこの市民社会で自由に振舞うことができる。自己責任で。
親の目を気にしないで自由に振舞え、親の世話にならない覚悟で。

問題解決は、親に加えて社会全体を相談相手にできる自由がある。
それが能力であり、それも自立・社会適合の一面。

でも・・・新成人の半分以上は、まだ学生さん、かな・・・
(義務教育終了が原則で新成人かも・・・学ぶ側の責任ということではね)

いろいろ難しいこと考えなくても、鳥の巣立ちと比べれば・・・
せめて・・・炊事・洗濯・掃除(・・・のお手伝い)が、最低限の自立かも・・

あはは・・・これ以上書き続けると、親のグチになりそう・・・

綺麗な振袖姿と、その子を見る親の笑顔・・・いいなぁ、とみんなが思う
・・・それで、いいの






運勢を変える方法

2007-01-05 12:42:30 | 私見アウフヘーベン
昨日、今年の運勢というタイトルで書き始めましたが、もう少し追ってみます。

相変わらず占いに関して、本屋さんのコーナーやテレビ番組が多いことから、迷い多き世情がうかがえます。

そうした世の心理の逆、というか、対抗する心理は何か?
占いの本を買わない、占いの番組を見ない・・・ということではない、見たい気持ちを抑える必要もない。
占いを知った上で運勢(よくない占い結果)は変えるもの。

幸と不幸は「在るもの」ではなく「思うもの」、という古の教えは多い。
それで納得して救われる心もある・・・が。

不幸と思う心理を考えると・・・
ヒト・モノ・カネ・・・のストレス(思い通りにならないこと)
最大のものは・・・「ヒト」
対人関係が良好であれば「モノ」と「カネ」はなんとかなりそうだから。
不幸の多くは、対人関係にあると・・・。

これを修正することに「運勢を変える」ことの根がありそう・・・


昨日も書きましたが、対人関係において相手に言われたくないこと、自分自身がしてはならないことは、うそつきと怠け者。

うそ:
事実でないこと、虚偽、騙す、裏切り、詐欺・・・何故嘘をつくのか、騙すのか、裏切るのか→自己のプライドのためや金銭的損得のために嘘をつく、すなわち自己の有利のために相手の不利を告げない・・・自分が損失を被ると思うからであろう。(対人関係における将来の波及損失は考え及ばない)

あるべきことや相手が喜ぶであろうことを、できるのにあえてやらない、故意にしないことなども、「うそ」に含まれる。(勤労の怠け、勉学の怠けなども)

失敗や怠けを隠す、責任逃れなどのため、言い訳をしますね・・・これは、自己のプライドのためにつく嘘なんでしょうね

自己主張の弱い相手を「からかう」「笑いのネタにする」ための「ウソ」は、自分が相手より立場が上であるという高慢が心根にあります。

裁判において、原告・被告人は自己に不利となる事実は告げる必要はない・・・弁護士は「言う必要がない」として、依頼人に嘘をつきなさいと助言する外観ですね。弁護士の社会正義は、常にその葛藤があるように思えます。

「自分の利益のために他人の利益が犠牲になる」と思える仕組みや制度が市民社会の中にはたくさんあります。この社会の全てのモノは売買対象となりますが、その価格設定がそうであると言えないこともない。多数の売買市場参加者の競争が「適正価格」を生み出すメカニズムではありますが、売買契約の相手方の不知や判断能力のレベルを利用した価格設定が横行するのもこの自由主義経済の社会の常です。

この社会には「ウソ」が多いと嘆くことでも、「ウソ」を見抜いて相手を攻撃することでもない、・・・自分の「ウソ」を見つけて反省すること。

占いの教えと指針は、
結局、自分に「ウソがない」かどうかを客観認識することに論点を導く・・・
不幸の元凶である対人関係を修正するからである。

運勢を変えるとは、「ウソがない」かどうかと内省し対人関係を維持すること

そう信じて、日々を過ごしたいもの・・・(怠け者と言われないためにも)



今年の運勢・・・

2007-01-04 12:10:16 | 私見アウフヘーベン
何かに頼る、という意味なのかどうか、占いに興味を持つ人が多いように思えます。

(不確実な時代に生きているから・・・とは言いますが、それはいつでも変らない。いつの時代に生きる人も、その時には不確実と思うはずです。いつの時代も人は不安なのですね)

何か宗教的な教義を見聞きするように、占いの教えには興味が引かれます。

確か・・・台湾の人は、日本よりもっと占いが生活に浸透しているように聞いたことがあります。街並みの看板見ただけでも、なるほどと感じるほど。

大昔から、呪術者が政治を行ってきた事実があるようですから、その力は侮れません。

風水、六星占術・・・テレビでも毎日おなじみですね。不動産の売買においても、不動産屋さんは占い盤で説明する人もいます・・・。
何でもかんでも、占い。結婚、住居、仕事、対人関係・・・

占いを信じない・・・のではなく、頼りたくない信念の人も多いはずなので、そういう場合の、心のあり方を考えてみました。

自分自身以外のものに頼りたくない、という気持ちは、占いに好意的な人や、依存的な人にもあるものです。やることなすこと全部が占いのおかげとなれば、自分の主観がなくなりますから。
成功しても達成感は薄く、失敗すれば自分の責任回避をしてしまいがち・・・大殺界だから・・なんてね・・・。

昨年末に、「人に言われたくないこと:うそつき、怠け者」と書きました。
これは、人に言われるか言われないかを論点にしたものではもちろんありません。
自分自身が、そう思うことかどうか・・・
これをすれば、または、これをなさなければ、私はうそつきになる、怠け者だ・・・だから・・・。
というような、自分自身に対する行動規範で、自分自身を律することができれば、
そう考えて毎日を過ごそう・・・ということが、多くの占いの指針に先駆けて、あるべきこころでしょうね。

怠け者や不誠実なうそつきが、占いで対人関係良好であろうはずがないもんね。


ちなみに・・・私は六星占術でいうと土星人
★土星人は「心の世界」に住んでいます。よく言えば「理想主義者」、悪く言えば「唯我独尊(ゆいがどくそん)」タイプ:孤独な世界に住む理想主義者

・・・なぁ~るほど(笑)・・・ん~!*@?・・何?大殺界なの?
今年もついてねぇのかい!・・・とほほ・・だわ

人の社会性:ちょっと変った考え方

2006-12-29 10:43:17 | 私見アウフヘーベン
人の社会性を考えるとき、何人かが集まって話すとおそらく、人はこうあるべき、ありたい、という対人関係の話になるかもしれません。
分かりやすい表現として・・・

人の社会性に関して、
<人に言われたくないこと・・・「うそつき」「なまけもの」>

イージーだけど、一つ一つ説明しようとすると、そうかもしれないという共感はありそう・・・

人の目を気にすることは、人が社会的動物であるということですが、人だけでなく動植物全て、他と相互に影響し合い存在しています。
話をもっと広げてみましょう・・

いつでしたか・・・キリスト教関係の人たちとお話しする機会がありました。
聖書を片手に、言葉を引用してお話されるのですが、人はこの世で最高の存在で、中心のテーマの捉え方や考え方・・・神の意思はそう・・かな?

考えてみると、ギリシャ・ローマ時代の美術に代表されるテーマは「人」です。
愛も感謝も憎しみも戦いも・・・全部「人」
西洋画の風景画や自然描写は、フォンテーヌブローの森の西、バルビゾン派の作品が思い出されますが、農耕する人、人が使う農工具、畜養牛馬羊を飼う人、自然の美しさの中にある人・・・やっぱ・・「人」なんだな・・と思います。

狩猟民族は狩をする人の姿に美を感じ、農耕民族は、四季の変化が育む自然の恵み・・・自然そのものを崇拝し感謝しました。

東洋は数千年前から、自然や風景をテーマにした美術が見えます。
愛や感謝は自然に向けられています。


キリスト教的なものに、東洋哲学的に思考を対峙させるとどうなるのかと想像しました。

人類が地球を支配する存在というのは事実なのか?
この地球は、現在、おそらく何千年も前から、被子植物の全盛期・・・
人は、この地球を覆う被子植物にとって、葉に付く害虫の一つとどこが違うのか、
虫は生きるため子孫を残すため植物の葉を食うが、人もやはり生きるために木を切る。・・・虫をこの地球の支配者と言うことがあるのだろうか・・・・

全ての存在が互いに依存しあって生きている概観があるだけ・・・その仕組みを創造したものが神である、と理解した方が分かりやすいかも。

人は優越する存在だから、崇高であらねばならない・・・と論理は流れるのでしょうが、驕りとうぬぼれが人の本姓であることが表裏にも。

人の社会性とは、人間関係だけにあるのでなく、自然といっしょに・・・

東京湾にある埋め立て浮島に植林して全部森にする、森だけの島をつくる・・・・建築家の安藤先生・・是非実現を

ポピュリズムの限界

2006-12-28 10:49:47 | 私見アウフヘーベン
ポピュリズムは民衆主義、大衆迎合主義などという意味で使われています。

誹謗中傷偏見差別を助長するという負の一面(なぜ負なのかは前回書きました)の一方、勧善懲悪も大衆は迎合します。

政府を「国家」と捉えるのか、「市民社会」の社会制度と捉えるのかは、その政府が専制的であるのか民主的であるのかで論点が変るように思いますが、現代はメディアが大衆意見を集合して政府に修正を迫る関係でアウフヘーベンしているようで・・・メディアの権力の驕りに対する大衆意見の対立でもアウフヘーベンしているように見えます。(メディアは表面的にそれを認めませんが)

今年一年は、親子や夫婦の関係を考えさせるイジメや犯罪が話題になりました。
潜在的に今も昔も親子と夫婦の関係の問題はあったでしょうが、報道の即時性とビジュアル化で、より顕在していると考えられます。

イジメや人間関係の対立を助長する役割のことを・・・確か・・
トラブルメーカーというはずです。
陰で人の悪口を言って、二者の対立をほくそ笑む・・そんなイメージでしょうか。
二者が喧嘩しているところに割って入り、第三者的に人格者面して老獪に振舞う。

そういう姿を報道という職業は常に反省しなければならない・・・はず

毎日、テレビで、尊敬と敬譲とは思えないような人間関係や職業的な上下関係を感じさせる場面・・・を懸念する気持ちを皆が持ちながら、批判できない。
パワハラから子供達が何を学ぶのか、という角度での思考が感じられません。

現代のポピュリズムの媒介はメディアもその一役であるとすれば、メディアのレベルが、その限界ということにもなります。

この世は、清濁あって当たり前、清濁どちらに偏りがあっても住みにくいもの、
だから、何か特定のモノが罪悪であるということはなく、それがあるために次の次元でそれに対抗する新しいモノが誕生するのですから。

何はともあれ、この一年間は、様々な意味で、アウフヘーベン的な変化を見たような気がします。

罵詈雑言偏見差別の対極

2006-12-27 12:31:49 | 私見アウフヘーベン
ブログは様々な情報が発信されます。大量に。
このニューウェーブはまだ着地が定まっていません。

既存の価値観や文化を破壊するかもしれないし、より発展させるかもしれません。
既存メディアの対抗勢力となるときもあれば、迎合意見を増幅させるかもしれません。増長して、民族間、国家間の議論を始めると国際紛争に発展する可能性も、国際平和や福祉の増進に貢献することもあるかもしれません。

ネットの空間と言えども市民社会の範囲の中のもの、あるがままに自由に振舞うことができるのですが、法制や規制がその発達に追いつかないために、有機的事件となってからの対処、つまり問題解決は事後的です。

ネットという性質上、より直接的な言葉で自己表現されますから、罵詈雑言、偏見差別が跋扈します。素直な意見、正直な感想などとある意味で賞賛されることになりかねないことに留意する必要があるかもしれません。
自由に振舞うことができる市民社会に、その自由を調整する機能がなければ、共同体としての意味を成しません。結果として、その共同体の中に存在するもの全ての「住みにくさ」となるに違いないからです。

この罵詈雑言や偏見差別の根底にあるのは、人の「高慢」だろうと書いてきました。優越感と劣等感という感情が対人関係の双方にある以上、争いごとは起きます。支配と被支配、うぬぼれと苦しみを生み出します。ネットは匿名であれば、支配される弱い立場の人の言葉の叫び、ストレスのハケ口にもなります。

誹謗中傷罵詈雑言偏見差別ばかりの情報発信ブログがアクセスを集めても、この市民社会の善意がなくなったわけでもない。この社会のどこにどんな病巣があるのかという原因発見の試験紙の役割を果たしているという見方もできます。

ブログで発信される多くの情報に、善悪の判断をするのでなく、あるがままの認識をすることからはじめる。

罵詈雑言偏見差別の対極は何か、という意味は、ネット上も市民社会とした上で、この市民社会は、こうした現象を客観視した場合、市民教育の論点発見に役立てるように動くのか、有機的問題発生の規制と処罰のレベルを上げるだけなのか・・・いずれにしても変化していく事が予想できます。その変化が対極です。
「人の善意を信じる」という言葉だけの調整は、もう効くような段階を過ぎているかもしれない・・・

誰もが自由に振舞ってもよい・・・が、他者の権利を侵害してはならない。利害対立は調整されなければならない。
共同体のルール・・・です

資本戦争

2006-12-25 12:24:33 | 私見アウフヘーベン
新日鐵の株価が毎日のように新高値・・・
裏には・・・やっぱり中国やインドの経済成長があるのでしょうね・・・
経済の高度成長は素材産業、とりわけ鉄は産業のコメと言われる・・・。
アルセロールとミタル・・・日本の鉄鋼業と韓国のポスコの企業戦略も加速するわけです。
中国の鉄鋼業が中小の乱立から寡占状態に政策誘導される過程にあることを睨んでいることは概観できます。
世界の鉄鋼会社が、その名の通り、「宝山」詣でしていることからも。

戦争ですね・・・
軍事力を背景に不平等条約で搾取した歴史とどこか似たような・・気がしないでもない。6割以上は外資企業の輸出ということを考えると、輸出大国にはなったものの、決して中国は独壇場の成長でもない・・・資本の戦争ですね。

全部取り上げるときりがないほど、他の業種でも、企業再編や提携、連携、M&Aなどが進んでいます。

とりわけ歴史認識として注目は、以前は公企業であったNTT、JTなど・・・世界戦略が進展し、将来さらに進むであろう事が見えてきています。

電電公社のままであれば、専売公社のままであれば・・・いったいどうなっていたのでしょう。もちろん、外国企業と買収・合併などはおそらくなかったでしょう。そもそも株式会社ではなかったのですから。

国益として認識すべきは、国家の平和的な発展を維持しながら、国家間の利害調整をすること。その利害調整は当然、交渉ということになります。交渉はお金という武器が全てを決します。すなわち資本、すなわち企業の支配権ということ。

近未来に、公企業から民間企業になる巨大金融機関及び運送会社があります。
全ての業種の日本企業は、世界にその活動の範囲を広げて発展してきています。
世界進出する日本企業に融資するのは・・・ロジスティックは・・・
鉄が産業のコメであれば、金融は血液、ロジスティックは血管かも。

この先の未来予測は誰でもできますよね・・・。

郵政民営化の反対議員に、資本戦争を繰り広げる世界の中での、
日本の未来戦略を聞いてみたく・・・・無駄か・・・



批判とアウフヘーベン

2006-12-16 14:42:38 | 私見アウフヘーベン
「時事報道放談」において、報道機関の体制批判のロジックを客観認識する試みをしてきました。「私見アウフヘーベン」においても、対立思想が次の次元の思想を生み出す弁証法的発展を当てはめて論じてみました。

さて、現代は・・・いつの世にも市民社会はその調整機能としての社会制度やそれを執行する役所の批判を行います。役所と役人の怠慢と責任回避、権限悪用の賄賂のような構図は、制度の限界として「デキゴコロ」が起きやすい部分を持つからなのでしょう。性悪説に基づいた公共サービスがそぐわない、人の善意に基づいた制度である必要があるからとも考えます。
・・・が、・・・だからこそ、市民社会の監視と批判に社会制度はさらされ、それだからこそ、改善が繰り返され、時代に合わせたより高次元の価値観を生み出す。

では、そのさらに次の未来予測を・・・

市民社会で個人が自由に振舞うことのために、その自由を調整するために機能としての社会制度を、近視眼的な個人攻撃に堕することがないように注意しながら、体制改善を目的として批判する・・・これは、そういう認識であれば、報道の職業意識として、あるがままのもの。そういう認識なく、劣情をモヨオす見出しやゲーム感覚の対決構図で視聴率をねらう批判報道ばかりだと、個人の倫理観を悪化させ、さらに犯罪が生み出され、皮肉にもその報道をする・・・何をか言わんや、とはこのこと。

こうした体制批判の対立概念は何だろう?
市民社会で自由に振舞う個人の態度・・・家庭と学校の教育で個人の倫理のあり方に修正・改善の必要が感じられるのであれば・・・個人の生活態度の批判報道も増えてくるはず。そうすると、世の中にはバカがたくさんいます・・・みたいな風潮というか・・・結果が想定できそうで・・・、
制度批判と同時に、その制度に対する個人の態度はどうあるべきなのかという順法行為も議論していくということが、私の答えなんだけど。

うまく、機能するといいけど・・・

良い事、すばらしい事を褒め称える報道が増えるという対立概念が、批判報道の何倍もの量で、しかも同時にあることが・・・
これは視聴率取れない?

ある概念があると、それに対峙すること、違う角度で考えられうることをいくつか想定して思考してみる・・・という試みで書いてみましたが・・・
アウフヘーベンしたかな・・・