ちゅーりっぷ
本質
それは何だ!って言われてもね
本当は優しくないけど、優しさを一生演技したら、
それは演技じゃなくなる
優しくないが本質か優しいが本質か
なんてね
似たような例えで
性欲と理性みたいな
答えは
性欲も理性も本質
ま、そりゃそうだ
両者は牽制しあって調和の結論を導くような関係の本質的要素
などと言えるかも
良きパートナーを見極めるための人の本質論は、
繰り返しになりますが
過ちを直すことができるという性格があれば
おおよそプラスの未来予測ができます。
直すという行動は、前進や向上を意味しているからです。
嘘と言い訳を嫌い、誤りは客観的に認識して修正する。
根はそこから始まる気がする。
人にやさしいとか、思いやりがあるとか、
勤勉であるとか、誠実であるとか
悪事は隠したいものなので嘘をつく・・・悪事に悪事を重ねることになります
悪事は、たいてい、怠けです。
怠けたからできないので、できないと興味関心が薄れるから、進捗しない
で、苦しくなるからまた怠ける。
他の人ができて自分ができないことは恥ずかしいから、
できない言い訳をする、嘘をつくことになる。
怠けを隠す言い訳と嘘
さて、人の本姓は 怠け
この怠けを自覚して修正しようとする。
大なり小なり克己心とか忍耐で直そうとするわけです。
そういうような心情といいますか、人の姿勢、行動規範を好ましいものとして
認識しているはずです。
それが人を見る目ですね
人として恥ずかしいことは怠け・・・何となく、そうかなと思う教訓ですが
人は怠けるもの、自覚した時に正すことができないのは、恥ずべきこと
と言いかえたい。
直す・正す力が、人の本質
それは何だ!って言われてもね
本当は優しくないけど、優しさを一生演技したら、
それは演技じゃなくなる
優しくないが本質か優しいが本質か
なんてね
似たような例えで
性欲と理性みたいな
答えは
性欲も理性も本質
ま、そりゃそうだ
両者は牽制しあって調和の結論を導くような関係の本質的要素
などと言えるかも
良きパートナーを見極めるための人の本質論は、
繰り返しになりますが
過ちを直すことができるという性格があれば
おおよそプラスの未来予測ができます。
直すという行動は、前進や向上を意味しているからです。
嘘と言い訳を嫌い、誤りは客観的に認識して修正する。
根はそこから始まる気がする。
人にやさしいとか、思いやりがあるとか、
勤勉であるとか、誠実であるとか
悪事は隠したいものなので嘘をつく・・・悪事に悪事を重ねることになります
悪事は、たいてい、怠けです。
怠けたからできないので、できないと興味関心が薄れるから、進捗しない
で、苦しくなるからまた怠ける。
他の人ができて自分ができないことは恥ずかしいから、
できない言い訳をする、嘘をつくことになる。
怠けを隠す言い訳と嘘
さて、人の本姓は 怠け
この怠けを自覚して修正しようとする。
大なり小なり克己心とか忍耐で直そうとするわけです。
そういうような心情といいますか、人の姿勢、行動規範を好ましいものとして
認識しているはずです。
それが人を見る目ですね
人として恥ずかしいことは怠け・・・何となく、そうかなと思う教訓ですが
人は怠けるもの、自覚した時に正すことができないのは、恥ずべきこと
と言いかえたい。
直す・正す力が、人の本質
正しいの判断
これ、人によって違う、とうそぶく輩がいる
まぁ、説明に前提が必要ですよね
言いかえると
私たちが正しいかどうかという判断は、社会全体の中で適合するかどうか
自分だけの都合で選択判断されるものを。自分自身にとっては適切であり、正しいという主張もあるかもしれない。
これは社会の中にいる個々人の自由という権利ですが、
皆がこの自由を正しいと主張すれば衝突することになる。
したがって、
この自由を交通整理のように調整する機能ができることになる。
それが法律や法に基づく種々の、ありとあらゆる制度である。
社会の中の一員としてふさわしいかどうか、ということかな
ついでに言えば、この論理では、社会の犯罪は全て「社会生活不適合症候群」となる。
「正し」いを説明する方法の一つとして、鳥になって全体を見渡す視点では、
そういうことになるのではなかろうか。
個々人の「正しい」はこの社会生活適合を基盤として、
発展的に社会全体の利益になる行為ということになる。
ところが、
「正しい」はみんなが常識として、あるいは本能として身につけているものではない。
思考錯誤の結果に修得したり、到達するようなものである、場合がある。
だから、
「正しいと思うことは一生続ければよい
正しくないと思うことは直せばよい」
なのである。
「正しい」は絶対的にあるものでなく、正しくないと気がついたときに直してできるもの
そうすると、正しいと思ったものが次の瞬間に正しくないと気が付くことがある
また、直すのである。
この繰り返しが「人格」なのであろう、と。
これ、人によって違う、とうそぶく輩がいる
まぁ、説明に前提が必要ですよね
言いかえると
私たちが正しいかどうかという判断は、社会全体の中で適合するかどうか
自分だけの都合で選択判断されるものを。自分自身にとっては適切であり、正しいという主張もあるかもしれない。
これは社会の中にいる個々人の自由という権利ですが、
皆がこの自由を正しいと主張すれば衝突することになる。
したがって、
この自由を交通整理のように調整する機能ができることになる。
それが法律や法に基づく種々の、ありとあらゆる制度である。
社会の中の一員としてふさわしいかどうか、ということかな
ついでに言えば、この論理では、社会の犯罪は全て「社会生活不適合症候群」となる。
「正し」いを説明する方法の一つとして、鳥になって全体を見渡す視点では、
そういうことになるのではなかろうか。
個々人の「正しい」はこの社会生活適合を基盤として、
発展的に社会全体の利益になる行為ということになる。
ところが、
「正しい」はみんなが常識として、あるいは本能として身につけているものではない。
思考錯誤の結果に修得したり、到達するようなものである、場合がある。
だから、
「正しいと思うことは一生続ければよい
正しくないと思うことは直せばよい」
なのである。
「正しい」は絶対的にあるものでなく、正しくないと気がついたときに直してできるもの
そうすると、正しいと思ったものが次の瞬間に正しくないと気が付くことがある
また、直すのである。
この繰り返しが「人格」なのであろう、と。
Last Sale @825
Change Net / % +25/+3.12%
Share Volume 34,617,400
年初来高値は845だから・・・目指す動き、と考えるはず、と考えるわけかな?
ところで
売買代金でいうと280億円ぐらいなんでしょうが
NY市場で何かと比較しましょう
GM、GE ともに同じような売買代金ですが、
84円で計算すると、日産の3.6倍 1000億円ほど
売買代金ランクではどれも上位なので
日本株の位置は、だいたいそんな感じ
少ないのか、多いのかは、時系列比較したほうがいいね
ところでところで
可能性というのは
現状の売上高より
世界戦略の次元と思ってますが
トヨタの1/4の株価が妥当かどうか
トヨタホンダの株価が妥当かどうか
ま、見てましょ^^
Change Net / % +25/+3.12%
Share Volume 34,617,400
年初来高値は845だから・・・目指す動き、と考えるはず、と考えるわけかな?
ところで
売買代金でいうと280億円ぐらいなんでしょうが
NY市場で何かと比較しましょう
GM、GE ともに同じような売買代金ですが、
84円で計算すると、日産の3.6倍 1000億円ほど
売買代金ランクではどれも上位なので
日本株の位置は、だいたいそんな感じ
少ないのか、多いのかは、時系列比較したほうがいいね
ところでところで
可能性というのは
現状の売上高より
世界戦略の次元と思ってますが
トヨタの1/4の株価が妥当かどうか
トヨタホンダの株価が妥当かどうか
ま、見てましょ^^
11月からTTMとTSLAこの2銘柄のラリー
TTMは2年前から約7倍($5→$36)このひと月は$28→$36
TSLAは$20からこのひと月で$35
今週は$30超えてからは、抜きつ抜かれつ
世界中のドタバタ投資家が目標予想してるのが見える
あるテクニカル分析では、Bearish:100%-85%だけど
GMも今週からドタバタがはじまったっぽい
世界の投資家心理の希望と失望、熱狂、罵声、いろんな知識と情報を含んだ心理の変化
値動きに反映される多くの逡巡のうねり、みたいなイメージ、
世界中のたくさんの人の意思、そういうのをリアルタイムで感じる。
今月だけで外株のポートシミュレーションは1.5倍以上と思います
外は雨・・・NYは感謝祭で休日だわね
感謝 感謝
命を大切にとか
いじめはやめようとか
心ない言葉で相手がどれだけ傷つくとか
周囲に相談相手がいるとかいないとか
いじめた?相手の名前を遺書に書いて自殺する
仕返し?
10人の集合の中で対人関係があるとすれば、10種類の対人関係がある。
その人にとって、好ましいものとそうでないもの
好ましいと思うのは、何かを基準に好ましいかどうかを判断していることになる
それは何か
自分にとって都合がいいかどうか、である場合
その都合は、一般的な善と悪であるとは限らない
自己中心的に相手を従えたい、というような客観の主従関係を望んで
その人との対人関係における信頼を失う場合
実は多いのではないだろうか
人は我儘で、ストレートに我儘な自分を表現できる人とできない人がいる
予備思考はこれぐらいで・・・
この種の事件は、
対人関係に問題の起源があるとすれば
その人の全ての対人関係において、善と悪の動機が常にあり、必ず正しく、好ましい関係ばかりではなく、何割かの善意と悪意に直面しているのである。
そうした対人接触がある事を前提に、人はどのようにふるまうべきか
また事後的に、関係が悪くなった場合にどのように修復すべきなのか
構造的な理解(などというようなイメージの)をして問題解決
ここからでしょうね
いじめはやめようとか
心ない言葉で相手がどれだけ傷つくとか
周囲に相談相手がいるとかいないとか
いじめた?相手の名前を遺書に書いて自殺する
仕返し?
10人の集合の中で対人関係があるとすれば、10種類の対人関係がある。
その人にとって、好ましいものとそうでないもの
好ましいと思うのは、何かを基準に好ましいかどうかを判断していることになる
それは何か
自分にとって都合がいいかどうか、である場合
その都合は、一般的な善と悪であるとは限らない
自己中心的に相手を従えたい、というような客観の主従関係を望んで
その人との対人関係における信頼を失う場合
実は多いのではないだろうか
人は我儘で、ストレートに我儘な自分を表現できる人とできない人がいる
予備思考はこれぐらいで・・・
この種の事件は、
対人関係に問題の起源があるとすれば
その人の全ての対人関係において、善と悪の動機が常にあり、必ず正しく、好ましい関係ばかりではなく、何割かの善意と悪意に直面しているのである。
そうした対人接触がある事を前提に、人はどのようにふるまうべきか
また事後的に、関係が悪くなった場合にどのように修復すべきなのか
構造的な理解(などというようなイメージの)をして問題解決
ここからでしょうね
法務大臣の話はひどいねぇ
話の途中をカットして結論だけ言うと
能力も意欲もない奴に給料払ってることがひどい
とにかく、この話、するだけで気分が悪くなる・・・
なので、別の話
お笑い芸人などを多く抱えている芸能プロダクションが脱税とか
芸能人が違法薬物所持使用事件でも同じですが
こういうケースでは、
所属する社員でもある芸能人の業務にはどのような影響があるのでしょう。
公共工事を引き受ける民間会社であれば、脱税事犯があれば入札参加できないはず。
そうでない場合でも、個人法人問わずマスコミは徹底的に報道して
「犯人」はまともな社会生活が営めないほど風評の影響を受ける。
規模が大きなものほど報道されるから影響は大きい
これが一般的。
でも、芸能プロダクションは社業の自粛、するでしょうか
テレビ局などがそのプロダクションの芸人や役者の使用拒否する話、あるのでしょうか
そういう点で、この業界と人は「一般」ではない、ということか
ふざけた、話だ
話の途中をカットして結論だけ言うと
能力も意欲もない奴に給料払ってることがひどい
とにかく、この話、するだけで気分が悪くなる・・・
なので、別の話
お笑い芸人などを多く抱えている芸能プロダクションが脱税とか
芸能人が違法薬物所持使用事件でも同じですが
こういうケースでは、
所属する社員でもある芸能人の業務にはどのような影響があるのでしょう。
公共工事を引き受ける民間会社であれば、脱税事犯があれば入札参加できないはず。
そうでない場合でも、個人法人問わずマスコミは徹底的に報道して
「犯人」はまともな社会生活が営めないほど風評の影響を受ける。
規模が大きなものほど報道されるから影響は大きい
これが一般的。
でも、芸能プロダクションは社業の自粛、するでしょうか
テレビ局などがそのプロダクションの芸人や役者の使用拒否する話、あるのでしょうか
そういう点で、この業界と人は「一般」ではない、ということか
ふざけた、話だ
成績はトップじゃないけど悪くなく、運動能力もおそらく平均以上で、
信頼される会話能力というと変ですが自己主張や自己表現力も普通にある。
その生徒がクラス全体を見渡します。
男尊女卑の風潮があるということではないのですが、男児は能動的な言動においてリードしている。女児は比較的、受動的で、乱暴な男児に正面から対抗する姿勢はない。
乱暴な言動の男児が数人いる。学力では対抗できない相手に、主に容姿を攻撃するような
ニックネームをつけて連呼する。
ダニ、ゴキブリ、ゴリラ、ブタ、ゲジゲジ・・・いやはや、むちゃくちゃであるが、
言われた当人は一人では対抗しないので無視するが、グループごとで乱暴な男児に攻撃をする。
グループを持たない、つまり対抗できない女児がいる。
学業も運動も会話能力も平均以下で、周囲から孤立気味。
毎日嫌な思いをしているだろうけど、そうした被害者が自分ひとりでないことだけが救いであるかのように、仕方なく学校に来ている。登校拒否の方が家族や近所の攻撃があるだろうことを承知している。
悪口ばかりの乱暴な男児は、学業成績の最上位のものには向かってこない、そこに劣等感情の起源があるからかもしれない、向かってくれば攻撃されることも承知しているだろうし。
自分に向ってこないから、その乱暴な男児を攻撃することもない。彼の言動を傍観しているだけ。醜悪な言動で攻撃される女児を助けようとはしない。守りに行けば男女の関係を冷やかされる懸念もある。
50も過ぎて、小学校の教室を思い起こすと、自己嫌悪の悔しい思いをする。
対人関係のパワーバランスは意味や内容が変わっても、客観視できることだけが違うかもしれないが、人は大きな成長をしているとは思えない。
正義って何だろうと思う。何故困っている人を救えないのだろうか、乱暴な男児が攻撃対象とした女児の容姿や性格に、同じような感想を抱いていると思えなくもない。
助けなければ共犯なのに。
虐げられた環境では、学校本来の目的でもある学びの姿勢が育つことは難しい。
勉強以前に学校という環境に興味がなくなる。
嫌な風景です。
信頼される会話能力というと変ですが自己主張や自己表現力も普通にある。
その生徒がクラス全体を見渡します。
男尊女卑の風潮があるということではないのですが、男児は能動的な言動においてリードしている。女児は比較的、受動的で、乱暴な男児に正面から対抗する姿勢はない。
乱暴な言動の男児が数人いる。学力では対抗できない相手に、主に容姿を攻撃するような
ニックネームをつけて連呼する。
ダニ、ゴキブリ、ゴリラ、ブタ、ゲジゲジ・・・いやはや、むちゃくちゃであるが、
言われた当人は一人では対抗しないので無視するが、グループごとで乱暴な男児に攻撃をする。
グループを持たない、つまり対抗できない女児がいる。
学業も運動も会話能力も平均以下で、周囲から孤立気味。
毎日嫌な思いをしているだろうけど、そうした被害者が自分ひとりでないことだけが救いであるかのように、仕方なく学校に来ている。登校拒否の方が家族や近所の攻撃があるだろうことを承知している。
悪口ばかりの乱暴な男児は、学業成績の最上位のものには向かってこない、そこに劣等感情の起源があるからかもしれない、向かってくれば攻撃されることも承知しているだろうし。
自分に向ってこないから、その乱暴な男児を攻撃することもない。彼の言動を傍観しているだけ。醜悪な言動で攻撃される女児を助けようとはしない。守りに行けば男女の関係を冷やかされる懸念もある。
50も過ぎて、小学校の教室を思い起こすと、自己嫌悪の悔しい思いをする。
対人関係のパワーバランスは意味や内容が変わっても、客観視できることだけが違うかもしれないが、人は大きな成長をしているとは思えない。
正義って何だろうと思う。何故困っている人を救えないのだろうか、乱暴な男児が攻撃対象とした女児の容姿や性格に、同じような感想を抱いていると思えなくもない。
助けなければ共犯なのに。
虐げられた環境では、学校本来の目的でもある学びの姿勢が育つことは難しい。
勉強以前に学校という環境に興味がなくなる。
嫌な風景です。
戦術というと、戦う意味なんでしょうが、
テクニックとか方法みたいな意味に近いかも
例えば、
中国があれをしてきたから、日本はこうするべきだ、とかいう議論があります。そもそもは両国が円滑な関係を継続するために何をすべきなのか、という共通認識が出発点にあり、問題が発生した場合の対処方法を議論する。という手順が通常は考えられるわけで、その議論の方法やプロセスを公開で行う。
両者の戦術・戦略、努力や苦悩が衝突するわけで、その経過を両国民が議論する。
戦争放棄という政治のあり方は、紛争の解決は武力を持って行わないと宣言しているのであって、日米同盟下で米軍と共同することが予想される有事が発生した場合、これは武力で紛争を解決することであって、憲法論議になるのかもしれない。
ある政治哲学者の論と思いますが、「戦争は政治の最大の失敗」
戦争のために日米関係を構築するのでなく、その関係があることで戦争にならないようにすることであることは論をまたない。
相手を知る努力も必要である。何十年も恨みと憎しみの歴史教育をすれば、その国民の行動予測はできるはずである。その国民を相手とする場合の言動とは何か、という認識判断が政治であるはずです。
さて、
この例えばなしと同様に、いじめの対人関係を考えてみると
紛争にならないための努力とは何か
相手に嫌がられない言動とは何か
相手に嫌がられてしまった場合にはどのように修復するのか、
対人関係の修復にはどのような方法があるのか
対人関係において紛争・衝突があるのは当たり前。衝突の内容で区別されるものでもあるかもしれませんが、衝突・考えの違いは好ましいことでもあることを承知したうえで、
個々人は大なり小なり自己中心・我儘であるはずだから
相手に服従することが苦痛やストレスでない関係以外は衝突の可能性があるはず。
だから、この衝突を回避する方法が明確であることが求められる。
それが法律や規則、道徳、倫理、社会生活上の習慣が市民社会の住人の自由の調整機能である。
で、各論の議論で出来上がった総論としての規制や法律であるが、これを逆流して、各論が総論の規制を守るかどうかという議論に変化する。
つまり、人は自由で豊かな人生を過ごすために、各人の自由を調整する必要があると気が付く、これが法律や社会制度ですが、各人はこの法律や制度を守るかどうかという問題を抱えているという意味です。
さらにさらにそもそもは、
いじめの対人関係の議論になる。自分の我儘のために他人を犠牲にする。
これを対人関係を調整するのは、大げさな法律論ではなく、道徳や倫理、社会生活上の習慣なのかもしれない。単純にいじめてはいけないを、当事者が責任回避のために言い続けるだけの外観ではいけないことは学習している。
では何か、という議論である。
関係者全員の共通認識になるような市民哲学
いずれ、たどりつくと信じてますが
テクニックとか方法みたいな意味に近いかも
例えば、
中国があれをしてきたから、日本はこうするべきだ、とかいう議論があります。そもそもは両国が円滑な関係を継続するために何をすべきなのか、という共通認識が出発点にあり、問題が発生した場合の対処方法を議論する。という手順が通常は考えられるわけで、その議論の方法やプロセスを公開で行う。
両者の戦術・戦略、努力や苦悩が衝突するわけで、その経過を両国民が議論する。
戦争放棄という政治のあり方は、紛争の解決は武力を持って行わないと宣言しているのであって、日米同盟下で米軍と共同することが予想される有事が発生した場合、これは武力で紛争を解決することであって、憲法論議になるのかもしれない。
ある政治哲学者の論と思いますが、「戦争は政治の最大の失敗」
戦争のために日米関係を構築するのでなく、その関係があることで戦争にならないようにすることであることは論をまたない。
相手を知る努力も必要である。何十年も恨みと憎しみの歴史教育をすれば、その国民の行動予測はできるはずである。その国民を相手とする場合の言動とは何か、という認識判断が政治であるはずです。
さて、
この例えばなしと同様に、いじめの対人関係を考えてみると
紛争にならないための努力とは何か
相手に嫌がられない言動とは何か
相手に嫌がられてしまった場合にはどのように修復するのか、
対人関係の修復にはどのような方法があるのか
対人関係において紛争・衝突があるのは当たり前。衝突の内容で区別されるものでもあるかもしれませんが、衝突・考えの違いは好ましいことでもあることを承知したうえで、
個々人は大なり小なり自己中心・我儘であるはずだから
相手に服従することが苦痛やストレスでない関係以外は衝突の可能性があるはず。
だから、この衝突を回避する方法が明確であることが求められる。
それが法律や規則、道徳、倫理、社会生活上の習慣が市民社会の住人の自由の調整機能である。
で、各論の議論で出来上がった総論としての規制や法律であるが、これを逆流して、各論が総論の規制を守るかどうかという議論に変化する。
つまり、人は自由で豊かな人生を過ごすために、各人の自由を調整する必要があると気が付く、これが法律や社会制度ですが、各人はこの法律や制度を守るかどうかという問題を抱えているという意味です。
さらにさらにそもそもは、
いじめの対人関係の議論になる。自分の我儘のために他人を犠牲にする。
これを対人関係を調整するのは、大げさな法律論ではなく、道徳や倫理、社会生活上の習慣なのかもしれない。単純にいじめてはいけないを、当事者が責任回避のために言い続けるだけの外観ではいけないことは学習している。
では何か、という議論である。
関係者全員の共通認識になるような市民哲学
いずれ、たどりつくと信じてますが
ほとんど多くの人は、おそらく、加害と被害、両方あるのでは
容姿や言動などをからかう、いやなニックネームでさげすむ
無視する・・・まぁたくさんあるでしょうが、キリがないから、
相手が嫌がる、好まないことを承知していて、あえて行う。
相手が嫌がるから、「いやがらせ」
自分が尊敬している人や、好きな人にはしない
優劣比較ができる何かにおいて自分が優位に立てる相手を対象にする
自分より消極的、反撃してこない相手、
極論、暴力的な言動など支配関係を作ろうとする者
こうした行為を、どのように修正できるのか
優劣の感情は、いわば生きる生存のための本能的な部分もある
優が生存して種が継がれるという自然である
ところが、人は社会的動物でもあるので、弱者とも共存共栄を図ることを善とする考えを持つ(ことがある)。いかなる文明社会においても。
国の教育制度は総論として、人の本能と理性を承知したうえで、社会生活に適合して人生を過ごすことが、総論として正しい。
たとえば、全体利益という立場で制度や思想が構築されるはず。
さて、タイトルにそって・・・
その人の容姿や言動をからかうこととなるニックネームは
たとえば小学校などのクラスで全体に伝播するとしよう。
罪の意識は誰にもない外観である。
当人は内心で大変傷ついているが、クラス全体が相手である、好きな人も嫌いな人もその嫌なニックネームで自分を呼ぶので、何も言えない状況が作られる。抵抗しようものならさらに別の攻撃が来ることを予想するからでもある。
「こいつ、怒ってんの」「○○のくせに、何キレてるんや」
言わんほうがまし。
その人が大変な嫌悪感を抱くこの状況を改善する方法は何か?
「あの子、そんなに嫌がってるって知らなかったよ」
「いつもニコニコしてたよ」
・・・ブタやゴリラ、爬虫類などのニックネームで呼んでいても
加害者と教師はそのような言葉を発する。恥ずかしくもなくである。
いじめられた人が学びの姿勢を損なわれる状況になる。
成績不振でますます将来の可能性が狭くなる。
加害者は「いやがらせ」をしただけでも、
当人は人生のベクトルが変わる(可能性がある)。
嫌がることはやめようとか、人権侵害だから禁止などということでは済まなくなる。
もちろん社会は大きなストレス社会だから、多少の摩擦がストレス耐性を高める、という論理もあるが、だから放置するのでなく、問題が発生した時の解決方法、対応方法を学べる環境がなければならないはず。
(関係各人がどのように能動的に参加する形態で問題解決するのか、この部分に現代社会の逡巡があるかもしれない)
人はたぶん、自分が支配できる(言うことを利かせることができる)相手を作ろうとする。人の誤った自尊意識、プライドであるように考えます。
何かを改善、修正、悪いところを治療するには、その症状を分析して
病気の原因や場所を明らかにして治療、改善、修正するはず。
様々ないじめの事例研究があって、要因分析があって、治療方法が開発できる。
教育制度とは、そうした基礎研究の蓄積のうえにある、であるべきなのだが、どうも、現状は対症療法的で、責任回避的のように・・・
問題解決の悪い事例ですら、多くのデータ蓄積があれば役に立つが、隠蔽と責任回避的環境では、それも望めない。
いろんな意味で、残念な、ような・・・
容姿や言動などをからかう、いやなニックネームでさげすむ
無視する・・・まぁたくさんあるでしょうが、キリがないから、
相手が嫌がる、好まないことを承知していて、あえて行う。
相手が嫌がるから、「いやがらせ」
自分が尊敬している人や、好きな人にはしない
優劣比較ができる何かにおいて自分が優位に立てる相手を対象にする
自分より消極的、反撃してこない相手、
極論、暴力的な言動など支配関係を作ろうとする者
こうした行為を、どのように修正できるのか
優劣の感情は、いわば生きる生存のための本能的な部分もある
優が生存して種が継がれるという自然である
ところが、人は社会的動物でもあるので、弱者とも共存共栄を図ることを善とする考えを持つ(ことがある)。いかなる文明社会においても。
国の教育制度は総論として、人の本能と理性を承知したうえで、社会生活に適合して人生を過ごすことが、総論として正しい。
たとえば、全体利益という立場で制度や思想が構築されるはず。
さて、タイトルにそって・・・
その人の容姿や言動をからかうこととなるニックネームは
たとえば小学校などのクラスで全体に伝播するとしよう。
罪の意識は誰にもない外観である。
当人は内心で大変傷ついているが、クラス全体が相手である、好きな人も嫌いな人もその嫌なニックネームで自分を呼ぶので、何も言えない状況が作られる。抵抗しようものならさらに別の攻撃が来ることを予想するからでもある。
「こいつ、怒ってんの」「○○のくせに、何キレてるんや」
言わんほうがまし。
その人が大変な嫌悪感を抱くこの状況を改善する方法は何か?
「あの子、そんなに嫌がってるって知らなかったよ」
「いつもニコニコしてたよ」
・・・ブタやゴリラ、爬虫類などのニックネームで呼んでいても
加害者と教師はそのような言葉を発する。恥ずかしくもなくである。
いじめられた人が学びの姿勢を損なわれる状況になる。
成績不振でますます将来の可能性が狭くなる。
加害者は「いやがらせ」をしただけでも、
当人は人生のベクトルが変わる(可能性がある)。
嫌がることはやめようとか、人権侵害だから禁止などということでは済まなくなる。
もちろん社会は大きなストレス社会だから、多少の摩擦がストレス耐性を高める、という論理もあるが、だから放置するのでなく、問題が発生した時の解決方法、対応方法を学べる環境がなければならないはず。
(関係各人がどのように能動的に参加する形態で問題解決するのか、この部分に現代社会の逡巡があるかもしれない)
人はたぶん、自分が支配できる(言うことを利かせることができる)相手を作ろうとする。人の誤った自尊意識、プライドであるように考えます。
何かを改善、修正、悪いところを治療するには、その症状を分析して
病気の原因や場所を明らかにして治療、改善、修正するはず。
様々ないじめの事例研究があって、要因分析があって、治療方法が開発できる。
教育制度とは、そうした基礎研究の蓄積のうえにある、であるべきなのだが、どうも、現状は対症療法的で、責任回避的のように・・・
問題解決の悪い事例ですら、多くのデータ蓄積があれば役に立つが、隠蔽と責任回避的環境では、それも望めない。
いろんな意味で、残念な、ような・・・
学校でのいじめの被害者とその親
①いじめられていることを親に報告:する場合としない場合がある。
②親は学校に事件の調査と問題解決依頼:する場合としない場合がある
様々なケースがある
①しない場合
・告げ口の報復に対する恐怖
・人権侵害行為や脅迫による犯罪加担の重大性認識の欠如
・学校や親の問題解決能力に対する不安
・加害者、加害行為の是正プログラムがないことの不信
・事件に対する当事者全員の共通認識(加害者・被害者とその親族、学校関係者全員、当事者ではないが共通認識を持つ必要がある生徒全員)
②しない場合
・個別事案での親の行為規範や義務の明示がないので、何をするべきかは個々の親の判断となっている。従って、親の関心の度合いだけでなく、時間的経済的環境の違いによって対応が統一されない。
・学校関係者側に事件を隠ぺいすることによる利益が排除されていない。従って調査依頼に対する対応に不信感や不誠実が起きる。学校の自発的問題解決力の欠如に初めから失望している。論理的な事実認識と保護者の恐喝的な言動を明確に区別する就学生徒を持つ保護者の権利義務などを規定する契約が不在であること。
さて、
加害生徒とその保護者の行為規範は何か
・被害生徒に謝罪する・・・・いかなる状況(事実調査と認定プロセスを経て)で、いつまでに、どこで、誰(親と加害生徒と担当有責教員)が、などが不明である。
・謝罪の形態:単に口頭で親が加害生徒を連れて謝罪すれば済むのか、再発防止を第三者を入れて明示させるほうがよいのか、損害がある場合の賠償規定
・個別事案によって、保護者の経済力によって損害賠償額が異なることがないような方法はないか。
さてさて、
そもそも、何故いじめたのか、何故いじめられたのか
怠けや努力不足による学力不振である人の心理は、バカにされたくない、なめられたくない、という自然発生的な自尊意識から、学力以外で自分より下位の者、支配できる者を作ろうとする。暴力的な言葉と行為。
又は、逆に学力優秀で相手の過ちを過度に攻撃するという、マスコミが植え付けているかもしれない「正義感」という名の下の弱者攻撃、いじめである。必要な正義は過ちを相手に認識させたうえで是正させる方法や人格の社会性であろう。
人を観察する場合、何かしらの劣等感から、負けまいと相手に攻撃的になる。脅迫的な
言葉と行為によって。怠け者とバカほどプライドが高いとは、そうした観察から思いつくものなんでしょう。これを客観視する教育方法があったとしましょう。
人権侵害の言動の抑止として、怠け者、バカと思われたくないという動機を醸成するかもしれない。
やることいっぱいありすぎで、いろんな議論がなされていることも理解しているつもりですが、
市民社会に鳥瞰的な視線で国全体の教育制度のあり方
学校と生徒及び保護者の権利義務についてその行使のルールのあり方
人権教育という重要課題のあり方(授業なのか規則なのか)
①いじめられていることを親に報告:する場合としない場合がある。
②親は学校に事件の調査と問題解決依頼:する場合としない場合がある
様々なケースがある
①しない場合
・告げ口の報復に対する恐怖
・人権侵害行為や脅迫による犯罪加担の重大性認識の欠如
・学校や親の問題解決能力に対する不安
・加害者、加害行為の是正プログラムがないことの不信
・事件に対する当事者全員の共通認識(加害者・被害者とその親族、学校関係者全員、当事者ではないが共通認識を持つ必要がある生徒全員)
②しない場合
・個別事案での親の行為規範や義務の明示がないので、何をするべきかは個々の親の判断となっている。従って、親の関心の度合いだけでなく、時間的経済的環境の違いによって対応が統一されない。
・学校関係者側に事件を隠ぺいすることによる利益が排除されていない。従って調査依頼に対する対応に不信感や不誠実が起きる。学校の自発的問題解決力の欠如に初めから失望している。論理的な事実認識と保護者の恐喝的な言動を明確に区別する就学生徒を持つ保護者の権利義務などを規定する契約が不在であること。
さて、
加害生徒とその保護者の行為規範は何か
・被害生徒に謝罪する・・・・いかなる状況(事実調査と認定プロセスを経て)で、いつまでに、どこで、誰(親と加害生徒と担当有責教員)が、などが不明である。
・謝罪の形態:単に口頭で親が加害生徒を連れて謝罪すれば済むのか、再発防止を第三者を入れて明示させるほうがよいのか、損害がある場合の賠償規定
・個別事案によって、保護者の経済力によって損害賠償額が異なることがないような方法はないか。
さてさて、
そもそも、何故いじめたのか、何故いじめられたのか
怠けや努力不足による学力不振である人の心理は、バカにされたくない、なめられたくない、という自然発生的な自尊意識から、学力以外で自分より下位の者、支配できる者を作ろうとする。暴力的な言葉と行為。
又は、逆に学力優秀で相手の過ちを過度に攻撃するという、マスコミが植え付けているかもしれない「正義感」という名の下の弱者攻撃、いじめである。必要な正義は過ちを相手に認識させたうえで是正させる方法や人格の社会性であろう。
人を観察する場合、何かしらの劣等感から、負けまいと相手に攻撃的になる。脅迫的な
言葉と行為によって。怠け者とバカほどプライドが高いとは、そうした観察から思いつくものなんでしょう。これを客観視する教育方法があったとしましょう。
人権侵害の言動の抑止として、怠け者、バカと思われたくないという動機を醸成するかもしれない。
やることいっぱいありすぎで、いろんな議論がなされていることも理解しているつもりですが、
市民社会に鳥瞰的な視線で国全体の教育制度のあり方
学校と生徒及び保護者の権利義務についてその行使のルールのあり方
人権教育という重要課題のあり方(授業なのか規則なのか)
親が子に伝える
夫や妻が相手に求めること
教師が生徒に
経営者が従業員に
ただ単純に正しくありなさい、ということではない
「正しさ」の定義がある
具体的であればなおよいでしょうが、
嘘を言ってはならない、騙してはならない、盗んではならない
自己の利益のみで行動してはならない
責任逃れ、言い訳、嘘、騙し、怠け
怠けを隠すために言う嘘、
根拠なく「馬鹿にされたくない」だけの
誤った自尊意識による言動で相手を攻撃する言動
正しく生きることは
自己の行動分析が必要ですね
自己分析なので
人に言われるより、自分で気がついて
で
正しく生きる
夫や妻が相手に求めること
教師が生徒に
経営者が従業員に
ただ単純に正しくありなさい、ということではない
「正しさ」の定義がある
具体的であればなおよいでしょうが、
嘘を言ってはならない、騙してはならない、盗んではならない
自己の利益のみで行動してはならない
責任逃れ、言い訳、嘘、騙し、怠け
怠けを隠すために言う嘘、
根拠なく「馬鹿にされたくない」だけの
誤った自尊意識による言動で相手を攻撃する言動
正しく生きることは
自己の行動分析が必要ですね
自己分析なので
人に言われるより、自分で気がついて
で
正しく生きる
証拠隠滅罪、証拠偽造罪、証拠変造罪、偽造証拠使用罪、変造証拠使用罪(第104条)
他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処せられる。
第103条、第104条の犯罪については、親族間の犯罪に関する特例があり、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる(105条)。(by Wikipedia)
これは、すごい法律ですね
憲38条黙秘権といい、証拠隠滅罪・・・真実を隠蔽しても良い=嘘をついてもいい
他人の証拠を隠すことは×だが、自分や自分の親族に関するやつは隠してもOK
・・・意味:自分と親族に関する嘘は人として当然ということを背景にしてるような
または、親族より信頼関係が強い友人や取引関係者などはどうなる?
疑問は尽きないだろうなぁ・・・この法律
テレビの刑事ドラマで、犯人の親族に聞き込みをして、
嘘のアリバイ供述する場面なんかを良く見るわけですが・・・
刑事が犯人の親にアリバイなんかを聞くとき・・・
上記の刑105条によれば、
「嘘をついても免除されるから、信用しないけど、一応聞いておきますわ」
みたいなセリフのほうが面白くなるかも
嘘を推奨する仕組みができてる、そういう気がするような・・・
立法の精神とか理由とか、どの法にもあるんで、頭ごなしに否定はしませんが
金融理論なんかでいうところの合成の誤謬っていうやつで
一つ一つは合理的でも、合わせた全体は必ずしもそうでない、のかもしれない。
そういうことは「あること」なのであって、罪悪は誤謬、誤りを放置すること
誰もが嘘や盗みを無意味と感じるような社会の仕組みってないかな
他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処せられる。
第103条、第104条の犯罪については、親族間の犯罪に関する特例があり、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる(105条)。(by Wikipedia)
これは、すごい法律ですね
憲38条黙秘権といい、証拠隠滅罪・・・真実を隠蔽しても良い=嘘をついてもいい
他人の証拠を隠すことは×だが、自分や自分の親族に関するやつは隠してもOK
・・・意味:自分と親族に関する嘘は人として当然ということを背景にしてるような
または、親族より信頼関係が強い友人や取引関係者などはどうなる?
疑問は尽きないだろうなぁ・・・この法律
テレビの刑事ドラマで、犯人の親族に聞き込みをして、
嘘のアリバイ供述する場面なんかを良く見るわけですが・・・
刑事が犯人の親にアリバイなんかを聞くとき・・・
上記の刑105条によれば、
「嘘をついても免除されるから、信用しないけど、一応聞いておきますわ」
みたいなセリフのほうが面白くなるかも
嘘を推奨する仕組みができてる、そういう気がするような・・・
立法の精神とか理由とか、どの法にもあるんで、頭ごなしに否定はしませんが
金融理論なんかでいうところの合成の誤謬っていうやつで
一つ一つは合理的でも、合わせた全体は必ずしもそうでない、のかもしれない。
そういうことは「あること」なのであって、罪悪は誤謬、誤りを放置すること
誰もが嘘や盗みを無意味と感じるような社会の仕組みってないかな
面白い議論ですね
「検察が容疑の立証のために証拠を改ざんした。」
つまり、そういう事実があるわけだが・・・
なんで、こんな事件が起こるのか
脅しのような警察の取り調べもよく問題になります
事実と異なる供述を強要されたとか
解決策なんてたくさんあるだろうに、放置してるとしか
いちばんストレートな方法の一つは
「嘘をついてはいけない法律」
「だましたり盗んだ金品は返させる法律」
警察も検察も・・・いいえ、弁護士も依頼人容疑者も証人もです。
事実を隠ぺいすることも黙秘すること含めて虚偽の供述を処罰する法律があると
人と社会はどのように変化するだろうか
取り調べの可視化・・・この議論を繰り返していても虚偽供述の問題に突き当たります
自白の強要の有無を監視するのでなく、作為的な虚偽の供述を罰しなければ不公平ではないか、などというような議論である。
「更生の可能性」や「改悛の情」などという裁判官の主観で量刑が動いたりすることも少なくなる。
すなわち、嘘をつかない、事実を述べる姿勢に量刑判断があるような社会認識が普及すれば・・・・検察も弁護士も容疑者も事実を隠したり、嘘をつかなければ、
裁判が短縮されるかもしれない
嘘をつくことや盗むことが無意味と思われるような社会
いいと思うけどなぁ・・・
「検察が容疑の立証のために証拠を改ざんした。」
つまり、そういう事実があるわけだが・・・
なんで、こんな事件が起こるのか
脅しのような警察の取り調べもよく問題になります
事実と異なる供述を強要されたとか
解決策なんてたくさんあるだろうに、放置してるとしか
いちばんストレートな方法の一つは
「嘘をついてはいけない法律」
「だましたり盗んだ金品は返させる法律」
警察も検察も・・・いいえ、弁護士も依頼人容疑者も証人もです。
事実を隠ぺいすることも黙秘すること含めて虚偽の供述を処罰する法律があると
人と社会はどのように変化するだろうか
取り調べの可視化・・・この議論を繰り返していても虚偽供述の問題に突き当たります
自白の強要の有無を監視するのでなく、作為的な虚偽の供述を罰しなければ不公平ではないか、などというような議論である。
「更生の可能性」や「改悛の情」などという裁判官の主観で量刑が動いたりすることも少なくなる。
すなわち、嘘をつかない、事実を述べる姿勢に量刑判断があるような社会認識が普及すれば・・・・検察も弁護士も容疑者も事実を隠したり、嘘をつかなければ、
裁判が短縮されるかもしれない
嘘をつくことや盗むことが無意味と思われるような社会
いいと思うけどなぁ・・・
何事も自らの責任は一切認めることがないマスコミだが、犯罪者の親には容赦しない。
犯罪を犯した子の親にカメラを向けて、「親の社会的責任は?」と質問する・・・
そもそも・・・何の権利や義務があって、こうした行為がなされるのであろうか?
親はその子に対して、未成年者(婚姻による成年扱いの者と)には、親権という監護教育のような権利と責任の認識はあるが、子の犯罪に対する損害賠償責任や社会に謝罪するなどのような義務は・・・どうなっているのでしょうか?
民法にも刑法にも民事・刑事訴訟法なども見ましたが、見当たりません。
多分、あいまいなまま放置されているかもしれません。
サラ金の取立て屋が、配偶者や子に内緒で借金して蒸発、残された家族に督促が来て、苦労する・・・・そんな話を聞くこと、ありますよね
どういう根拠で返済させているのでしょうか?
未成年の子が殺人事件を起こし、被害者遺族は損害賠償訴訟し、加害者家族はその賠償責任を果たして・・・いるのでしょうか、いないのでしょうか、
犯罪被害者国家賠償制度だけでは、償いきれませんし、事案ごとに賠償能力も異なりますから、どのようにその責任執行の運営がなされるのでしょうか?
それとも、弁護士を雇える被害者遺族だけが法の知識を持って救われる社会となっているのでしょうか?
どんどん疑問はふくらむ・・・・はずです
そうした多くの疑問が曖昧なままでマスコミの報道を見ていると・・・
いろいろな意見が出てきそうですね
犯罪を犯した子の親にカメラを向けて、「親の社会的責任は?」と質問する・・・
そもそも・・・何の権利や義務があって、こうした行為がなされるのであろうか?
親はその子に対して、未成年者(婚姻による成年扱いの者と)には、親権という監護教育のような権利と責任の認識はあるが、子の犯罪に対する損害賠償責任や社会に謝罪するなどのような義務は・・・どうなっているのでしょうか?
民法にも刑法にも民事・刑事訴訟法なども見ましたが、見当たりません。
多分、あいまいなまま放置されているかもしれません。
サラ金の取立て屋が、配偶者や子に内緒で借金して蒸発、残された家族に督促が来て、苦労する・・・・そんな話を聞くこと、ありますよね
どういう根拠で返済させているのでしょうか?
未成年の子が殺人事件を起こし、被害者遺族は損害賠償訴訟し、加害者家族はその賠償責任を果たして・・・いるのでしょうか、いないのでしょうか、
犯罪被害者国家賠償制度だけでは、償いきれませんし、事案ごとに賠償能力も異なりますから、どのようにその責任執行の運営がなされるのでしょうか?
それとも、弁護士を雇える被害者遺族だけが法の知識を持って救われる社会となっているのでしょうか?
どんどん疑問はふくらむ・・・・はずです
そうした多くの疑問が曖昧なままでマスコミの報道を見ていると・・・
いろいろな意見が出てきそうですね