先週からの話の流れで・・・続きを
23日の3番目のコメントNyanさん・・・その通りです♪
特定記者と新聞社、又はその質問内容を議論したつもりはなく、これまでも質問者が相手を憤慨させることで相手の感情的な返答を誘って、それを批判する、
という報道を何度も行っていることに、視点があります。
この常套手段ともいうべき報道文章と、これを引用したテレビなどの繰り返し報道
ここに気がつくべきで・・・
テレビの解説者などの論理は、政治家の報道は「権力者の監視」みたいな使命感を言うことがあるのですが・・・
あやしいものです。
その視点のみによって報道しようとすれば、曲解としか思えない表現を行うことが考えられますし、実際にそう思わざるを得ない場合をみることがあります。
また、読者・視聴者の認識を誘導するために、たいていは「対立構造」を作り出して演出しようとする姿勢が見えます。
勝敗を競うスポーツやゲームのように報道することによって、どっちが勝つのだろうかと興味を引くことができるからです。
しかもこれをメディア自ら創作すことができます。
「週刊誌の記事では、あなたのことをこういうように言っていますが反論はありますか?」
のようなインタビュー・・・あなたの悪口を言っている奴がいますよと、両者の対立を作り、自らは第三者を気取る。
確かに、報道者の背景には、新聞が売れることや視聴率を高くするという経済動機があります。
そのために扇情的な言葉表現で全てを誘導することがありえます。
捏造的な報道となりやすいだろうこともうなずけるわけです。
正しいことを報道しても、正しいということ事態は当り前で報道に値しないと反論するでしょう。
しかし、それと意図を曲げて表現することは別のはず、また、曲解という行為は全ての事象に対して可能なことで、全てを正しくないと報道することが可能であることを認識していなければならない。
権力に対する監視は重要なことで、これをメディアが市民社会を代理して行うことは理解できます。
しかし、市民社会を代理しているかどうかは、メディア自身が常に反省と検証をすることが必要ですね。
市民社会は、為政者を権力とみることがありますが、間違いなく、新聞やテレビの報道の姿勢も権力とみます。
そういう自覚が・・・ないか希薄であるために、
政治家の一言一句の失言に対しては、過去の功績に係わりなく、辞職・退任などの責任を追及しますが、
記者やテレビの解説者の発言に責任を追求することはありません。
市民が特定の新聞・週刊誌、番組や出演者などに大きな怒りと嫌悪感をいだいていても、彼らをそのフィールドから退出させるプロセスが不明であることは、
さらに嫌悪感を増幅させます。
ま・・・今日はここまでかな・・