むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

89番、式子内親王

2023年06月29日 08時38分26秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする>


(わが命よ
絶えるならいっそ絶えてしまえ
このまま生きながらえていたら
秘めた恋をかくす力が
これ以上堪えきれず弱まるかもしれないから)






・この恋は、
あくまで秘しかくさねばならぬ恋なのである。

決して、決して、外へは洩らせぬ恋なのである。
それだけに切迫した激情が抑えきれず奔騰する。

『新古今集』巻一に、
「百首歌の中に忍恋」としてみえる。

式子内親王は、
『新古今』時代の歌人の中でも、
ことに出色の歌人である。

後白河法皇の皇女、
幼女のころから十年賀茂の斎院として過ごされ、
十六歳ぐらいで病によって斎院を退かれた。

若き皇女に次々と不幸がおそう。

妹宮の死、
母君の死、
兄宮の横死。

兄宮というのは以仁王(もちひとおう)である。

平家打倒のさきがけをして、
以仁王は戦死されたのであった。

皇女の生きた時代も嵐の真っただ中だった。

平家の滅亡、
京の兵乱、
大火、大地震、大飢饉、はやり病。

賀茂の川原などは、
馬・車も通れぬほど、
捨てられた死体で埋まったという。

末世のすさまじい荒廃は、
多感な若い詩人の感受性をとぎすます。

内親王の歌の師は藤原俊成。

内親王は騒擾の世の片隅に、
ひっそりと歌を支えに生きられた。

歌は気品高く端正に、
女人の肉声を底に美しくひびかせ、
内親王の名は高くなっていった。

治承五年(1181)正月三日、
二十歳の定家は六十八歳の父・俊成に連れられ、
内親王の御所にはじめて参上する。

内親王は御簾のうちにあられたが、
室内には、たかれた香の匂いがたちこめていた。

定家は自分より八、九歳年長の才たけた貴婦人に、
あこがれを募らせたのであった。

歌人として私淑する敬意が、
そのまま思慕に移行していっても不思議はない。

昔からの伝説では、
定家と内親王は恋中であった、
ということになっている。

その伝説をもとに作られた謡曲、
「定家」には、

「定家の卿、忍び忍びのおん契り浅からず」

とあるが、
実際はどうだったのだろうか。

現代の学者は、
そういう関係はなかったという人、
認める人、さまざまである。

定家の日記『明月記』によると、
病勝ちな内親王に対する定家の心痛と献身は、
ただごとではない。

あるいは二人のあいだに、
心の通い合いがあったかもしれない。

『明月記』で見る定家は、
文句や愚痴の多い、出世欲、自己顕示欲の強い、
変なおっさんであるが、
しかし、内親王の前にあるときの彼は、
詩人の魂の純粋な部分だけで、
すずやかな人物であったかもしれず、
二人は呼び合い、
惹きあうものを感じたのかもしれない。

定家は生涯、内親王にあこがれを捧げつづけ、
内親王もまたそれを知りながら、
応えられるすべもない。

皇女の恋、などというのは、
社会的に許されない時代だったから。

二人の恋は、
たがいの歌に、
濃い芳香をただよわせてゆく。

内親王の歌には、
それに加えてリアルなため息が、
まつわりつくのであった。

<はかなしや 枕さだめぬ うたたねに
ほのかにかよふ 夢の通い路>

<わが恋は 知る人もなし せく床の
涙もらすな 黄楊の小枕>

建仁元年(1201)
式子内親王は五十歳足らずの、
薄幸な生涯を終えられた。

『明月記』にこの頃の記事はない。

けれども定家はこののち、
とみに作歌意欲を失っている。






          


(次回へ)

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