つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

またもや相談

2005-06-21 10:16:59 | キリスト教(カトリック)
それで。
そんな状態の奴(←私)が教会に通ってもいいものかどうか。
悩んだので、またもや相談に行きました(今度は別の神父様のところへ。いつもの神父様は、外国の方で宣教師なので、困らせてしまうか怒られるかどちらかに思え、ちょっと逃げてしまいました。根性ないです)。

で。
復活の話をしたら、「しがらみをもって復活するわけではないから、心配しなくていいですよ」とのこと。
…そうなの??
何だかあっさり解決してしまいました。

殉教に関しては、「その時まで判らないものではないか」とのこと。

う~ん。
確かに、殉教者たちだって、最初から殉教する気でいた訳ではないだろうし…。
でも聖書やキリスト教文学の中の人たちって、殉教に憧れていたり、迫害されて、迫害される価値のある者になれたって喜んだりしてるんだよね…。
…私には遠い心境です。

まぁ、あんまり深く追求しない方がいいのかもしれません。
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永遠の命

2005-06-21 10:09:37 | キリスト教(カトリック)
カトリックを選んだのは、歴史がある、ということと、兄弟がミッション系の学校に通っていたことがあり、馴染みがあったから、ということ、何となく好きだから(!)ということが理由です。

さてさて、兄弟から聞いていた様子より、ミサはずっと平易になっておりました。
日本語だし(ラテン語でなくなっていた)、神父様は会衆の方を向いて話して下さるし、理解しやすくてよかったです。

ところが。
福音宣教、のお話で、「殉教」のところで詰まってしまいました。

キリスト教徒は、イエスを証しする人びとです。
イエスを信じると宣言しなければいけない人びとです。

日本では殉教というのは今はなさそうですが、外国は今でも、キリスト教徒ゆえの迫害があります。
それを堪え忍べるのは、「復活」の希望があるからです。

でも、「復活」したくなかったら?

はい、私はここで詰まってしまいました。
もともと、殉教なんて私にはできない、と思っていた身でもあります。
痛いの苦手です。
自分の信じるもののため、に命を賭けられるでしょうか。
自分だけならできたとしても、家族や恋人や友人の命もかかったとしたら…?
ー無理です。

それでもなおできる、というのはすごい(と同時に怖い)ことです。
キリスト教徒は決して命を粗末にしているわけではありません。
命は大事だけど、からだの命よりもっと大事なものがある、のがキリスト教徒なのだそうです。

それが、魂の命、復活。

でも、復活、したいものなんでしょうか。
私は、今の私自身を決して嫌いではありませんし、楽しく暮らしてもいますが(細かい?悩みは一杯ありますが)、復活して永遠に生きたい?と言われたらNOです。
自分自身をひきずるのは疲れます。
しがらみにも疲れます。
あの世で嫌いな人に会ったら、にっこりなんて絶対できません。

…う~ん。
これでは絶対キリスト教徒になるなんて無理だ~!!
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教会に通い始めました

2005-06-21 09:52:24 | キリスト教(カトリック)

SDの宗教設定の一件を質問しに訪れて以来、教会に通い出しました。

名前も聞かず、勧誘もせず、相談事に答えてくれた姿勢と、何となく感じる奥の深さに惹かれて(設定を見てもらった時、「大した内容ではないですね」とさらっと言われたのが痛快でした)。

以来、SDに過剰な思い入れをすることなく、ずいぶん気楽になりました。

あ、でも、まだ信者ではありません。
なれるか、と言うことになると、なれないだろう、と思っています。
教えは美しいですし、神父様もいい方です。
聖書に描かれるイエス様は好きですが、キリスト教の歴史は嫌いなのです。
宗教戦争、インディオの虐殺、侵略のさきがけ…。
信仰心のあまり、ともいえなくはないですが、それだからといって、なした事が消える訳ではありません。

でも、祈りは好きですし、神父様のお説教も好きです。
なので、しばらくは通うつもりでいます。
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